土崎湊町(読み)つちざきみなとまち

日本歴史地名大系 「土崎湊町」の解説

土崎湊町
つちざきみなとまち

[現在地名]秋田市土崎港中央つちざきみなとちゆうおう一―六丁目・同西にし一―四丁目・同みなみ一―二丁目

中世の城下町、近世の港町。

雄物川(現在の旧雄物川)の河口に位置し、北は新城しんじよう川を隔てて北部砂丘に面し、東は将軍野しようぐんの飯島いいじまの微高地を経て秋田平野に連なる。現在の市街地は南部の高清水たかしみず寺内てらうち台地が雄物川に削剥された低地を占める。かつては将軍野・飯島から西流し、雄物川に注ぐ坂上田村麻呂の蝦夷平定伝説に由来する幕洗まくあらい川・太刀洗たちあらい川の二川があった。現在はともに失われ、幕洗川まくあらいがわだけが現土崎港南一―三丁目および同北二丁目地内に字名を残す。

〔呼称の変遷と概観〕

「日本書紀」斉明天皇四年に「齶田浦あいたうら」また「飽田浦」の名がみえるが、これはより広範な地域を示すもので、土崎港だけの名称ではない。ただし同書同年四月に蝦夷を討つため阿倍臣が船師を率いて秋田地方に来た時、「勒軍陳船於齶田浦」とあり、軍船を入れた齶田浦は雄物川の河口に位置した土崎周辺の地域が有力である。

土崎湊町の呼名には、秋田湊・湊・土崎湊の三通りがある。最も早く知られるのは湊で、延応元年(一二三九)の沙弥公蓮譲状案(肥前小鹿島文書)に、

<資料は省略されています>

として現れる。沙弥公蓮(橘公業)奥州征伐の功により、源頼朝から与えられた秋田郡内の所領の中に湊があった。また建武元年(一三三四)の曾我太郎光高謹言上(斎藤文書)に北条氏の余党が「秋田城」などに拠って蜂起したとあり、今湊は秋田城のあった地域を湊といったとみられるので、鎌倉時代以来、湊の機能をもったために地名として定着したと思われる。応永年間(一三九四―一四二八)に湊に入った津軽十三湊とさみなと(現青森県北津軽郡市浦しうら村)の安東氏は以来湊安東氏と称した。また慶長六年(一六〇一)七月一〇日の秋田兵右衛門諸役銭算用状(秋田家文書)に「京桝百七拾壱さゝせ、湊中へ出おろし申候」とあり、この京枡の普及をすすめた湊中は、湊町中の意味である。佐竹氏も同七年の入部以来、湊の名を継承し、とくに湊を久保田くぼた城下の外港とし、城下と同じ町奉行支配のもとで一体化した。

室町時代末期の「廻船式目」に北国海運の七湊の一つとして秋田湊があげられる。七湊とは越前三国みくに(現福井県坂井郡三国町)、加賀本吉もとよし(現石川県石川郡美川町)、能登輪島わじま(現石川県輪島市)、越中岩瀬いわせ(現富山県富山市)、越後今町いままち(現新潟県上越市)、出羽秋田、津軽十三湊をいう。若狭小浜おばま(現福井県小浜市)の古川文書に、土崎湊小宿小林三郎兵衛・丹後屋六兵衛・石野屋勘助・能登屋吉五郎・岩見屋清兵衛らの天明七年(一七八七)の売目録・売仕切証文がみえるが、いずれも「秋田湊」の黒印を使用している。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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