1189年(文治5)源頼朝が奥州平泉の藤原泰衡を攻撃し,これを滅亡させた戦い。奥州藤原氏と源頼朝は早くから対立的であったが,藤原秀衡が源義経をかくまうに及んで,それは決定的なものとなった。泰衡は父秀衡死後の1189年閏4月義経を攻めてこれを自殺させたが,頼朝は泰衡を許さず,同年7月19日日本全国の武士を動員して陸奥国に出兵した。朝廷は泰衡追討の命令を出さなかったが,頼朝はそれを無視して出兵し,追討命令は事後承認の形で合戦終了後頼朝のもとに届けられた。頼朝は軍を三つに分け,東海道軍は千葉介常胤・八田知家を将とし,北陸道軍は比企能員(よしかず)を将とし,みずからは中央軍を率いて白河関をこえた。3軍合わせて28万余騎という。これに対する奥州勢は,伊達郡阿津賀志山(あつかしやま)(福島県国見町)に西木戸国衡(にしきどくにひら)を守将とする2万騎を配し,泰衡自身は国分原鞭楯(こくぶがはらむちだて)(仙台市宮城野区榴岡(つつじがおか))に陣を張った。出羽と越後の境の念珠ヶ関(ねずがせき)(山形県鶴岡市,旧温海(あつみ)町)にも田河太郎行文らを配置して北陸道軍に備えた。頼朝の中央軍は8月8日から阿津賀志山の攻撃を開始し,3日間の激戦ののちここを落とし,泰衡は戦わずして北へ逃れた。頼朝は12日に多賀国府(宮城県多賀城市)に入り,ここで東海道軍と合流した。20日には玉造郡の多加波々(たかはは)城(宮城県大崎市,旧岩出山町)を攻め,22日に平泉に入り,さらに北上して9月4日には陣岡蜂杜(じんがおかはちもり)(岩手県紫波町)に到着,ここで北陸道軍と合流した。一方泰衡は平泉の館に火を放ち,夷狄島(いてきのしま)(北海道)をさして逃れたが,9月3日肥内郡贄柵(にえのさく)(秋田県大館市)で部下の河田次郎に殺された。この合戦によって頼朝は九州から奥羽のはてまでを軍事的に制圧したことになり,名実ともに全国で唯一の軍事権力になった。この合戦の鎌倉幕府成立史上での意義は大きい。なお奥州征伐というのは,奥州を悪者と見る幕府側のいい方である。客観的には,文治5年奥州合戦とでもいうべきであろう。
→奥州総奉行
執筆者:大石 直正
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1189年(文治5年)源頼朝(よりとも)が奥州平泉(ひらいずみ)藤原氏を征服した戦い。これによって、奥羽両国は鎌倉幕府の支配下に属することとなり、頼朝の全国制覇が完成した。征伐という一方的表現を避けて、「文治(ぶんじ)五年奥州合戦」とよぶこともある。この合戦の直接的原因は、平泉に逃げ込んだ源義経(よしつね)の身柄引き渡しをめぐる対立にある。しかし、同年閏(うるう)4月義経が誅殺(ちゅうさつ)され、6月その首が鎌倉に届けられたのちにおいても頼朝は平泉追及の手を緩めず、朝廷に対して藤原泰衡(やすひら)追討の宣旨(せんじ)を奏請。その宣下(せんげ)を待たずに、7月19日鎌倉を出発、遠征の途についた。それに先だって2月に発せられた頼朝の動員令は南九州にまで及び、日本六十余州の軍勢、『吾妻鏡(あづまかがみ)』によれば28万4000騎(ただし、諸人の郎従(ろうじゅう)、馬廻(うままわり)の歩卒(ほそつ)なども含む)が参集した。頼朝は全軍を三手に分けて、自らは中央軍を率いて北上、8月1日阿津賀志山(あつかしやま)の防塁(福島県国見(くにみ)町)を抜き、8月12日多賀国府(たがこくふ)に入った。泰衡は国分原鞭楯(こくぶがはらむちだて)(仙台市榴ヶ岡(つつじがおか))の大本営を捨て、平泉に火を放って、北に逃れた。頼朝の平泉入城は8月22日、泰衡が比内(ひない)郡贄柵(にえのさく)(秋田県大館(おおだて)市)で河田(かわだ)次郎に殺されたのは9月3日であった。
[入間田宣夫]
『高橋富雄著『奥州藤原氏四代』(1958・吉川弘文館)』▽『小林清治・大石直正編『中世奥羽の世界』(1978・東京大学出版会・UP選書)』▽『上横手雅敬編『風翔ける鎌倉武士』(『日本史の舞台3』1982・集英社)』
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