土肥村(読み)といむら

日本歴史地名大系 「土肥村」の解説

土肥村
といむら

[現在地名]土肥町土肥

小土肥おどい村の南に位置する。東は土肥峠田方たがた上船原かみふなばら(現天城湯ヶ島町)に通じる。元弘三年(一三三三)一一月一一日の足利尊氏御判御教書(冷泉家古文書)に「井田庄内土肥・部田両郷領家職」とみえ、方便智院(現京都市右京区高山寺か)領であった。元亨三年(一三二三)一〇月二六日に鎌倉円覚寺で行われた北条貞時十三年忌供養法会に際し、会場作事の用材を「伊豆国土肥山」より地頭土肥二郎左衛門尉が進上している(「北条貞時十三年忌供養記」円覚寺文書)。明応二年(一四九三)北条早雲に降った伊豆の武士のなかに「土肥の富長三郎左衛門尉」がいる(北条五代記)。北条氏所領役帳によると富永弥四郎は「豆州西土肥」に一千貫文の知行高をもち、武蔵国内も含め合計では一千三八三貫余を有する江戸衆であり、江戸城の城番を勤める北条家の有力家臣であった(静岡県史)。「西土肥」は相模足柄下あしがらしも郡土肥を「東土肥」とよぶのに対応する。天正一三年(一五八五)閏八月六日北条家は伊豆国西にし浦に帰る番匠のために、相模国小田原から西土肥までの宿に伝馬を出させている(「北条家伝馬手形写」三島明神文書)。なお弘治二年(一五五六)に比定される四月一〇日、伊勢東海船方の役を北条氏が課している地域のなかに、金沢かねさわ(武蔵国、現神奈川県横浜市金沢区)国苻津こうづ(相模国、現同県小田原市)網代あじろ(伊豆国、現熱海市)と並んで冒頭に「土肥」がみえるが(「北条家朱印状案」金沢文庫文書)、相模か伊豆か判然としない。

土肥村
とひむら

[現在地名]朝来町佐嚢さのう

山本やまもと村の北西に位置し、集落は神子畑みこばた川の左岸に発達。神子畑川の対岸西方は老波しわなみ村、北西方は佐中さなか村。寛永一六年(一六三九)の知高帳に村名がみえ、高一七七石余、宝暦七年(一七五七)の但馬国高一紙では高一八九石余。明治七年(一八七四)山本村など五ヵ村と合併して佐嚢村となる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報