八木沢村
やぎさわむら
[現在地名]宮古市八木沢
八木沢川の上流にあり、東は磯鶏村。浜街道が通る。八木沢集落の辺りには川を隔てて南北に館跡が残る。一戸氏系八木沢氏の入部はその系譜などから推して永禄―元亀(一五五八―七三)頃とみられ、新旧二つの館が存在することから、あるいは八木沢氏には前期・後期の二つの異なった系統があったとも考えられる。「奥南落穂集」によれば千徳城主一戸(千徳)行重の四男正光を江繁伯耆といい、その子光興を八木沢左馬之助、あるいは与四郎というとある。八木沢与四郎の名は「祐清私記」や慶長六年(一六〇一)の岩崎御出陣人数定(内史略)にもみられ、天正一八、九年(一五九〇、九一)の和賀稗貫一揆では伊達政宗の援兵の将鈴木将監を討取って武勲をあげている。
八木沢村
やぎさわむら
[現在地名]土肥町八木沢
土肥村の南にある。西流して駿河湾に注ぐ八木沢大川や松原川の流域に集落が開け田地が広がる。かつて河口付近は天然の良港を形成、慶長―元和(一五九六―一六二四)頃は諸国の大船が入港したという。しかしたび重なる洪水によって湊は池となり慶応三年(一八六七)には村民総出で埋立が行われ、これを平助開地と称するという(伊豆土肥史考)。村内は小池・松原・中島・長藤・西・上野・三田・大久保の小名からなる。
八木沢村
やぎさわむら
[現在地名]飯舘村八木沢
蘆股村の東に位置する。屋木沢とも記す。東方の八木沢峠手前の道端に、宝暦七年(一七五七)に建立された高さ二メートル余の六字名号碑があるが、宝暦五年の大飢饉の供養のために建てられたものであろうか。石工は「信州 笹右衛門」で、台石は道標ともなっており、「右原町 左中村」とみえる。奥州西街道の宿場として知られ、同街道は蘆股村から当村内を抜け、八木沢峠から上栃窪村(現鹿島町)を経て中村城下(現相馬市)へ向かう。
八木沢村
やぎさわむら
[現在地名]会津高田町八木沢
会津盆地南西山麓に沿って集落が南北に続く。東を赤沢川が北流する。古くは矢木沢と記したが、寛文(一六六一―七三)に八木沢に改めたという(新編会津風土記)。貞治五年(一三六六)七月一七日の前伯耆守武連書下(同書)によれば「矢木沢村内福泉寺別当職」を実相寺(現会津若松市)が沙汰することを確認している。文亀元年(一五〇一)一二月二七日の蘆名盛高加判某売券(山内文書)によれば、「神山之内屋き沢に二間、大谷に彦兵衛在家一間」が売渡されている。近世には会津領から寛永二〇年(一六四三)以降南山御蔵入領で、永井野組に属した。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録に八木沢とあり、高九六〇石余。
八木沢村
やぎさわむら
上田市大字八木沢
上田市塩田地区の西部湯川上流にある村。北に丘陵を負い、東は舞田村、南は山田村、西は別所村に接する。「高白斎記」の天文二二年(一五五三)八月一〇日条に、「大宮山形ヘヤキサワ三百貫・福田百貫ノ事ハ証人難有申所、此以前浦野方ニ被下候」とあるのを初見とする。
慶長一三年(一六〇八)真田氏の貫高帳(大井文書)に「一五〇貫 八木沢村」とある。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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