伝馬(読み)テンマ

デジタル大辞泉 「伝馬」の意味・読み・例文・類語

てん‐ま【伝馬】

逓送用の馬。律令制では、駅馬とは別に各郡に5頭ずつ常置して公用にあてた。戦国時代諸大名は主要道路の宿駅に常備して公用にあて、江戸時代には、幕府が主要街道に設け、また、一般人が利用できるものもあった。
伝馬船」の略。

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精選版 日本国語大辞典 「伝馬」の意味・読み・例文・類語

てん‐ま【伝馬】

  1. 〘 名詞 〙
  2. 逓送用の馬。令制では、主要幹線道に設置された駅馬(えきば)とは別に、各郡ごとに五匹ずつ常置して官人に供給した馬をいう。駅馬がもっぱら急速を要する通信用だったのに対して、伝馬は新任国司の任地赴任、諸種の部領使(ことりづかい)などの不急の公用旅行者が利用した。これは平安初期より衰微したが、戦国時代になると、諸大名は領内支配と軍隊輸送の必要から伝馬制の復活・整備につとめ、本城から国境までの主要幹線道に宿駅をおいて伝馬を常備し、伝令や飛脚の逓送・軍需物資の輸送にあて、伝馬手形を発行してその使用を許可した。江戸幕府もこれを継承し、寛永年間(一六二四‐四四)には制度化して、幕府や諸侯の公用逓送機関として重要な役割を果たした。宿継の馬。
    1. [初出の実例]「凡諸道置駅馬。〈略〉其伝馬毎郡各五」(出典:令義解(833)廐牧)
    2. [その他の文献]〔漢書‐昭帝紀〕
  3. てんません(伝馬船)」の略。
    1. [初出の実例]「てんまの中々に、物音せばあしからんと、とも綱といてろを押立て」(出典:浄瑠璃・博多小女郎波枕(1718)上)
  4. てんまやく(伝馬役)」の略。
    1. [初出の実例]「今夜は夜通しに村中が、伝馬(テンマ)に取られます」(出典:歌舞伎・傾城青陽𪆐(1794)二立)

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改訂新版 世界大百科事典 「伝馬」の意味・わかりやすい解説

伝馬 (てんま)

前近代に宿駅の間を往復し旅行者や貨物を逓送した馬。

日本古代の駅伝制では,中央の兵部(ひようぶ)省の所管で緊急の公務出張や公文書伝送にのみ使われた駅馬のほかに,全国各郡の郡家(ぐうけ)に5疋(ひき)ずつの伝馬を用意し,国司の赴任や国内巡視などに使うことにしていた。この伝馬は,官営の牧場で繁殖させ,軍団の兵士の戸で飼育させる官馬の中から選ぶが,適当な官馬がなければ郡稲という財源で民間から購入し,郡家付近の豊かで人手のある戸に飼育させる。購入価格は駅馬の場合よりも平均2割安い。伝馬の利用には伝符(てんぷ)を必要とし,伝馬1疋につき伝馬子または伝馬丁と呼ばれる馬丁がふつうは6人ずつ指定されており,交代で手綱をとり,働いた日数だけ雑徭が免除される。このような伝馬制は,古くから国造(くにのみやつこ)たちが馬を飼育し使用していたことに着眼して,律令国家が組織した制度であるが,国家が駅馬を重視して伝馬に十分な保護を加えなかったために,律令時代には早くから衰退した。しかし地方交通を受け持ったのは駅馬でなく伝馬であったから,中世以後の地方分権の時代には,また伝馬が復活した。
駅伝制
執筆者:

中世に入って荘園制が定着すると再び伝馬制度は復活し,荘園領主鎌倉幕府の地頭らは自己の所領内の物資輸送や商品流通の必要に迫られて伝馬制を実施した。それは領内の上層農民に課役の一つとして伝馬の供出を義務づけたものであるが,その実態はまだ具体的な点で不明な点が多い。また鎌倉幕府では公的な伝馬制の施行はみられず,いずれも荘園領主,地頭などの私的な運送機関であった。

 荘園制が崩壊し,かわって大名領国制が形成されはじめると,大名によっては領内にかなり制度化された伝馬制の施行がみられるようになる。それも室町幕府守護大名の領国ではそれほど明確なものはみられないが,戦国大名領国,とくに東国諸大名領においては,かなり具体的なことが明らかにされている。西国の場合,海上交通の占める割合が高く,それほど発達していない。東国でもっとも早く伝馬制が確認できるのは駿河の今川氏領であり,永正年間(1504-21)には宿駅の設置と公用伝馬の徴用がみられる。今川氏の文書によると,公用伝馬を使用する場合は1日5疋を限度に,1里10銭を支払うことが義務づけられている。隣国の甲斐武田氏も,今川氏の制度をまねて比較的早くから伝馬制を敷いていた。信玄の父信虎の時期に,伝馬手形や伝馬定書が出されているが,本格的なものは永禄年間(1558-70)の初めからである。武田氏の場合,公用,私用の両様の伝馬使用規定があり,伝馬は主要街道沿いの宿駅および周辺村落に,伝馬役として義務づけていた。さらに専用の伝馬印も作り,伝馬使用者には手形を発行して,交通上の統制を厳しくしていた。やはり今川氏の影響のもとで,相模の後北条氏領でも伝馬制の実施は早くからみられる。方法はほぼ武田領と同じであるが,公用伝馬の使用は1日3疋で,1里1銭の駄賃と明確に規定されている。さらに小田原の本城と各地方の支城領とを結ぶ伝馬制も発達しており,支城主にも伝馬制度の整備を義務づけて,かなり細密な制度化が実現されていた。越後の上杉氏の場合にも,伝馬制実施の徴証がみられる。これら戦国大名の場合,日常的な商品流通上の機能とともに,戦時期の軍需物資の輸送や,遠方の家臣団との連絡の必要性からも伝馬制度の整備には力を注いだ。全国統一を果たした徳川氏も早くから伝馬制を実施しており,専用の伝馬手形を発行したり,宿駅(とくに東海道)の整備に力を入れていた。
執筆者:

徳川家康関ヶ原の戦の翌1601年(慶長6)東海道に宿を置き伝馬制を敷き,1宿に36疋の馬を常備させ,かわりに伝馬屋敷を与えた。この伝馬を使用できるのは,将軍名の朱印状の携帯者に限ったが,そのほかに老中,所司代らの発行する証文(伝馬手形)を携行する者にも提供し,これらは無賃であった。朱印や証文によって人足を使うこともでき,そのために寛永年中(1624-44)には東海道の諸宿には100人,100疋の人馬を常備させるようになった。中山道以下の五街道にもこれに準ずる施設を設けた。伝馬の荷物ははじめ32貫目,駄賃馬の荷は40貫目までとしたが,1616年(元和2)にはともに40貫目までとなった。朱印または証文による伝馬の使用者または運輸物資には規定があり,幕府の公用またはそれに準ずるもので,その使用数は朱印または証文面に記載されていた。それによる御用人馬は,1704年(宝永1)には員数に制限なく,昼夜遅滞なく継送することを命ぜられた。また21年(享保6)には,無賃人馬は宿立人馬で継ぎ送るのが原則であるが,宿人馬の定数を超えた場合は助郷(すけごう)へも賦課することを認めた。しかし宿継人馬のうち朱印,証文による無賃人馬はきわめて少数で,大部分は御定(公定)賃銭によるものであった。

 伝馬の負担を伝馬役というが,その場合には人馬の負担全体を指すことが多い。すなわち東海道諸宿の100人,100疋,中山道諸宿の50人,50疋,その他甲州道中などの25人,25疋の常備人馬を伝馬役と称し,その負担を馬役と歩行(かち)役に分け,家ごとに隔年など交代で負担するのを原則とした。しかし後年は多く金納となった。その負担者のいる屋敷を伝馬屋敷といい,宿のことを伝馬宿とも称した。要するに伝馬の提供が近世の宿の設立の発端であったからである。伝馬を無賃で出すことから,〈てんま〉という言葉は,村の公共土木事業の用水堰浚い(さらい)や道普請などに無償で働くことを指す地方も多い。また宿や助郷の負担の全般を指すこともあって,その増徴に反対する伝馬騒動もあった。
宿駅
執筆者:

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「伝馬」の意味・わかりやすい解説

伝馬
てんま

道中の各駅・宿などに備えて公用輸送にあてた馬。大化改新(645)により国府と郡家を連絡するため、各郡家に伝馬という官馬が用意され、その員数は毎郡各5とされた。利用者は格別の規定はないが国司、流人、防人(さきもり)などであり、乗用資格証明は伝符による。伝馬は官馬から選ぶが、民間から購入する場合には郡稲(ぐんとう)による。これに対し、諸道の駅家に備えて駅使の乗用に供した馬が駅馬である。

 平安時代には衰微したが、中世荘園(しょうえん)でふたたび伝馬が頻出する。これは、荘園領主、地頭が交通上から農民に徴課した馬をさす。戦国時代には戦国大名、とくに東国の後北条(ごほうじょう)、武田、上杉、徳川の諸氏による駅制が実施され、宿では問屋が伝馬営業を行った。この伝馬は、軍需物資の輸送、飛脚、家臣の逓送にあたった。伝馬の継立(つぎたて)には一定書式の手形が発行されたが、しだいに専用のものとなった。すなわち後北条氏の虎(とら)の印判、「常調」の二字の上に馬をあしらった印判、武田氏の丸竜の朱印、「伝馬」「船」の印判がある。徳川家康は1601年(慶長6)に公用の書札、荷物の逓送のため東海道各宿に伝馬制度を設定した。徳川家康は「伝馬之調」の印判、ついで駒牽(こまひき)朱印、1607年から「伝馬無相違(そういなく) 可出(いだすべき)者也」の9字を3行にして縦に二分した朱印を使用し、この御朱印のほかに御証文による場合もある。伝馬役には馬役と歩行(かち)役(人足役)とがあり、東海道およびその他の五街道にもおのおの規定ができた。

 伝馬は使用される際には無賃か、御定(おさだめ)賃銭のため、宿には代償として各種の保護が与えられたが、一部民間物資の輸送も営業として認めた。伝馬制度は前述のとおり公用のためのものであったから、一般物資の輸送は街道では後回しにされた。武士の場合でも幕臣が優先されている。民間の運送業者、たとえば中馬(ちゅうま)などが成立して伝馬以外の手段が私用にあたった。1872年(明治5)に各街道の伝馬所、助郷(すけごう)が廃止された。

[藤村潤一郎]

『豊田武・児玉幸多編『交通史』(『体系日本史叢書24』1970・山川出版社)』『児玉幸多著『近世宿駅制度の研究』(1960・吉川弘文館)』『丸山雍成著『近世宿駅の基礎的研究 一、二』(1975・吉川弘文館)』

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百科事典マイペディア 「伝馬」の意味・わかりやすい解説

伝馬【てんま】

前近代に宿駅間を往復した逓送(ていそう)用の馬。律令制では郡ごとの郡家(ぐうけ)に5疋常備された官馬。駅馬(えきば)に対して急を要しない公用に供された。国家が駅馬を重視したため,律令時代には早くから衰退。しかし中世に入って伝馬制は復活し,宿駅が発達。戦国大名は本城から国境までの幹線道路の宿駅に伝馬を常備して軍事物資の輸送に用いた。江戸幕府も伝馬制を敷いたが,伝馬の提供が宿の設立の発端であったため,宿を伝馬宿とも称した。→駅・駅家宿・宿駅
→関連項目駅伝郡家駄賃稼中馬町人伝馬町問丸問屋場夫役

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「伝馬」の解説

伝馬
てんま

古代から宿駅間で公用旅行者の貨客輸送をする馬。広義には人足を含む。(1)律令制下,郡ごとに設置され伝使などが乗用する馬。各郡5疋常備され,不足分は民間から徴発された。伝馬子などの労働力も郡内から雑徭(ぞうよう)を用いて徴発された。伝馬のルートは郡と郡を結び,駅路とは別系統で,大化前代の国造などの交通をもとに編成されたと考えられる。平安初期に駅伝制は再編成され,「延喜式」では伝馬は駅路の通る郡のみの設置となった。(2)室町時代,守護大名が百姓に伝馬を課していたことが知られる。それをうけて戦国大名は宿駅伝馬制を創設し,無賃・有賃で1日に使役できる伝馬の数をきめた。後北条氏は平時で1日に3疋,武田氏の無賃伝馬は4疋である。豊臣政権は伝馬50疋を京都―清須間の宿駅に課していた。(3)江戸初期の1601年(慶長6)徳川家康は東海道各宿駅に伝馬定書を出し,朱印状による伝馬使役を各宿36疋に統一し,積荷の量もきめた。この数が御定馬といわれ,寛永年間100疋に引きあげられた。朱印または証文(老中・所司代発行)による公儀の伝馬は無賃人馬とよばれ,大名など領主の駄賃支払い(のち御定賃銭という名で一定)による使役の駄賃伝馬とは区別された。幕府は伝馬維持のため助成金を与えたが,困難をきわめた。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「伝馬」の意味・わかりやすい解説

伝馬
てんま

江戸時代,諸街道の宿駅に常備され,公用の人や荷物の継ぎ送りにあたった馬をいう。古代の駅制にも伝馬の制があったが,その後廃絶した。戦国時代,諸大名は軍事的必要から領国に宿駅を設置し伝馬を常置したが,制度的に確立したのは江戸時代である。徳川家康が慶長6 (1601) 年東海道,中山道に多くの宿駅を指定し,36頭ずつの伝馬を常備させたのが初めで,寛永 15 (38) 年幕府は東海道 100頭,中山道 50頭,日光,奥州,甲州各道中 25頭と定めた。伝馬を使用できるものは幕府の公用,諸大名,公家などの特権者であったが,これには無賃の朱印伝馬と定賃銭を払う駄賃伝馬の2つがあった。

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旺文社日本史事典 三訂版 「伝馬」の解説

伝馬
てんま

古代以来,逓送用に用意された馬
④江戸幕府が宿駅に整備して公用に供した馬
①律令制下,駅馬とともに官吏の公用に供するために備えられた。郡司が管理し,急用のときは駅馬を,不急のときは伝馬を利用した。律令制の衰微とともに衰えた。
②鎌倉時代,荘園領主・地頭などが,農民から徴発して公用に使った馬。
③戦国大名も領内の宿駅に常備し,伝令・物資輸送などにあてた。
東海道100頭,中山道50頭,奥州・日光・甲州各道中各25頭を,宿駅ごとに置いた。

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普及版 字通 「伝馬」の読み・字形・画数・意味

【伝馬】てんま・でんば

駅馬。

字通「伝」の項目を見る

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世界大百科事典(旧版)内の伝馬の言及

【宿駅】より

… 律令制の崩壊とともに駅制も崩れ,代わって荘園や寺院の施設が休泊に利用されるようになった。そして平安末期ごろから宿が駅に代わって用いられ始め,駅馬よりも伝馬の称呼が使われるようになった。熊野路に信達,藤代,山中などの宿名が現れるが,まだ十分な施設はなく,神崎川に臨んだ摂津の江口,神崎,蟹島などが水陸の旅行者を集めて繁栄していた。…

【伝符】より

…古代中国では駅と伝に制度上の区別はなく,みな伝符を提示して駅に備えつけの車馬を利用した。しかし古代日本では朝廷直轄の駅馬は駅鈴を提示して利用することにしていたので,律令制により新たに郡司の馬を利用する伝馬の制度を設けたさいには,唐にならって伝符をその利用資格の証明とした。唐の伝符は銅製で竜などの形をしていたというが,日本のばあい当初の形は不明であり,やがて他の公文書と同様に紙券になったと思われる。…

※「伝馬」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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