増田与兵衛(読み)ますだ・よへえ

朝日日本歴史人物事典 「増田与兵衛」の解説

増田与兵衛

没年天和2.10.19(1682.11.18)
生年:生年不詳
江戸前期の信濃(長野県)小県郡上田藩領入奈良本村の義民。天和2(1682)年庄屋の不正を藩主仙石氏に直訴した罪でふたりの子どもと死罪となる。滝仙寺墓碑,位牌が残る。墓碑は積渓了雪禅定門,位牌は積渓了雪信士と戒名が異なる。また77年後の宝暦9(1759)年与兵衛明神の祭典を行ったという史料がある。これらは謎であるが,11年の宝暦騒動との関連と義民の伝統意識の形成を指摘する説がある。文化の義民堀内勇吉の祠が近くにあり,昭和42(1967)年天和之義民碑が建立され,祠が石祠となった。<参考文献>横山十四男『上田藩農民騒動史』『義民伝承の研究

(小椋喜一郎)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「増田与兵衛」の解説

増田与兵衛 ますだ-よへえ

?-1682 江戸時代前期の農民。
信濃(しなの)(長野県)上田藩領入奈良本村の人。天和(てんな)2年庄屋の不正をただすよう藩主仙石政明(まさあきら)にうったえ,願いはききとどけられたが,同年10月19日2人の子供とともに死罪となる。宝暦9年与兵衛明神としてまつられた。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

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