百科事典マイペディア 「土浦藩」の意味・わかりやすい解説
土浦藩【つちうらはん】
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常陸国の譜代中藩。土浦は近世初期には結城秀康の支城であったが,1601年(慶長6)松平信一が3万5000石で入封して以来,譜代大名の城地となった。1618年(元和4)より49年(慶安2)まで西尾忠永,忠照が2万石で封じられたが,この間,1629-33年(寛永6-10)に領内に検地が実施され,城郭の整備等が行われた。続いて朽木稙綱(くつきたねつな)が3万石で入封すると,50年に領内の一部に検地を実施した。69年(寛文9)土屋数直が4万5000石で入封すると,さらに72年より80年(延宝8)まで領内の一部に検地を実施した。82年(天和2)松平信興が2万2000石で入封したが,84年(貞享1)より城郭の改修・拡張が図られ,土浦城がほぼ完成を見た。87年土屋政直が再入封したが,政直は加増を受け1718年(享保3)には9万5000石となった。その後,土屋氏は代々土浦に居城し明治維新にいたった。その所領は46年(延享3)には土浦を中心に常陸・下総に6万石,和泉・近江・美作に3万5000石となった。18世紀末からは関東農村の荒廃が深化するとともに,90年(寛政2)に上方領の内2万石余を陸奥,出羽両国へ移されたため,年貢収入が低下して藩財政は悪化し,1842年(天保13)には藩債は1万550両,米3864俵に及んだ。一方,1833年には領内常陸新治郡坂村で百姓一揆が発生する等,各所で不穏な情勢が起きた。このため,38年土屋寅直の襲封前後より,その側近大久保要らを中心に藩政改革の気運が起こり,儒学者藤森弘庵や同藩の名主出身で水戸藩天保検地の実務を担当した農政学者長島尉信らを登用し,農村の復興政策や藩士の教育,軍制の改革が試みられた。幕末期には水戸藩の影響を受け,飯泉一蔵,佐久良東雄ら尊王攘夷派の志士が出たが,安政の大獄で大久保要以下が処罰されると,改革も中断し明治維新に及んだ。
執筆者:白川部 達夫
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常陸(ひたち)国(茨城県)新治(にいはり)郡に置かれた譜代(ふだい)藩。1601年(慶長6)松平信一(のぶかず)が3万5000石を領して土浦城主となったのが藩のおこり。2代信吉(のぶよし)が1617年(元和3)上野(こうずけ)国高崎に移封となってからは、西尾氏、朽木(くつき)氏が相次いで藩主となったが、1669年(寛文9)朽木氏国替後は老中土屋数直(かずなお)が4万5000石で入封した。その所領は常陸国で新治郡32か村、筑波(つくば)郡4か村、信太(しだ)郡13か村、茨城郡3か村、真壁(まかべ)郡5か村、上総(かずさ)国で5か村、下野(しもつけ)国で4か村、武蔵(むさし)国で25か村であった。しかしその子政直(まさなお)のとき駿河(するが)国田中城に移ったので、松平(大河内(おおこうち))信興(のぶおき)が2万2000石で藩主となったが、わずか数年で大坂城代となって土浦を去った。そのあとにはふたたび老中土屋政直が1687年(貞享4)6万5000石(のち9万5000石)で城主となった。その後は代々土屋氏の藩主時代が続き、数直を初代として11代挙直(しげなお)のとき明治維新を迎え、1869年(明治2)版籍奉還によって藩知事となって、約200年にわたる土屋氏の時代は終わったが、土浦藩は1871年7月廃藩置県によって土浦県が成立するまで続いた。なお、土浦県は新治県を経て1875年に茨城県に編入された。
土浦藩では9代彦直(よしなお)と最後の挙直の両名が御三家(ごさんけ)水戸(みと)家から養子に入っているのは、土浦藩の譜代としての立場を物語るものであるが、土浦藩が重要視された理由の一つは、土浦が江戸と水戸の中間に位置していたからであろう。土浦城の唯一の遺構である太鼓櫓(たいこやぐら)は、1656年(明暦2)朽木稙綱(たねつな)の築造にかかる。
[瀬谷義彦]
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