朝日日本歴史人物事典 「壬生小家主女」の解説
壬生小家主女
8世紀後半の女官。子家主女とも書く。常陸国(茨城県)筑波郡出身の采女で,正五位下まで上ったことは明らか。天平宝字7,8(763,64)年ごろ,保良宮から平城京に帰り法華寺にいた孝謙上皇が,「竹波命婦」のところに小豆など4種を支給するよう指示した木簡が発見されている。「竹波命婦」とは,のちに掌膳として称徳(孝謙)天皇の食事を調えた小家主女のことであるらしい。天平神護1(765)年に勲5等を受けているのは,仲麻呂の乱の鎮定,称徳天皇擁立に功があったためとみなされている。姓は直から連,宿禰と次々に改まり,神護景雲1(768)年には常陸国造に任じられた。地方豪族の娘が中央で位のある女官として名を残した稀な例であるが,名誉は一身に限り,故郷の一族に影響はなかったらしい。<参考文献>門脇禎二『采女』
(児島恭子)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報