大富村(読み)おおとみむら

日本歴史地名大系 「大富村」の解説

大富村
おおとみむら

[現在地名]土岐市泉町大富いずみちようおおとみ泉東窯町いずみひがしがまちよう泉中窯町いずみなかがまちよう泉西窯町いずみにしがまちよう泉寺田町いずみてらだちよう泉大島町いずみおおしまちよう泉森下町いずみもりしたちよう泉島田町いずみしまだちよう泉仲森町いずみなかもりちよう泉梅いずみうめ木町きちよう泉神栄町いずみしんえいちよう泉北山町いずみきたやまちよう

土岐川北岸にあり、西は久尻くじり村。大留村とも記される。南北朝期の土岐氏総領頼貞の頃、高田たかたに土岐氏の館が置かれ、その子頼清は家督相続の際、隣郷の大富に館を構え住したとされる(「土岐累代記」など)。当地の字伍所ごしよ屋免田やめだ付近が大富館跡という。慶長郷帳では高八七五石余。元和二年(一六一六)の村高領知改帳では、旗本妻木頼忠領。正保郷帳では田高六七六石余・畑高二〇一石余、ほかに小物成米(山年貢)五石余、小物成銀(竈役)八六匁。

大富村
おおどみむら

[現在地名]邑久町大富

千町せんちよう平野の西端に位置し、村の西を干田ほした川が南流する。集落みや(五〇・八メートル)の東麓にある。長享二年(一四八八)の余慶寺涅槃像施主連名書(余慶寺文書)によれば、「大富板崎」の太郎左衛門方など四五人が結衆に加わっている。寛永備前国絵図に大富村とみえ、高一千五一三石余。「備陽記」では、田畑六九町七反余、家数一一〇・人数六八七。文化年間の「岡山藩領手鑑」によれば直高二千一一一石余で蔵入。反別は田五七町五反余・畑一一町八反余、家数一二一・人数五四〇、牛三〇、社方家四、八幡宮一(社領一石九斗余)、樋二二、石橋三・土橋一二、小猟船一。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報