岡山藩(読み)おかやまはん

改訂新版 世界大百科事典 「岡山藩」の意味・わかりやすい解説

岡山藩 (おかやまはん)

備前国岡山県)岡山に藩庁を置いた外様大藩。歴代藩主池田氏で,備前一国28万9000石と備中領分2万6000石を合わせて31万5000石を領知した。戦国大名宇喜多秀家関ヶ原の戦で没落し,代わって入城した小早川秀秋も,1602年(慶長7)卒去し無嗣のため断絶した。宇喜多・小早川両氏とも備前・美作両国などで約50万石を領したが,その末路は悲運であった。03年岡山城主になった池田忠継(姫路城主池田輝政の次男)以降,12代268年にわたって池田氏による領知が廃藩までつづいた。なお,忠継と弟忠雄2代のあと光仲のとき,鳥取在城の池田光政(光仲の従兄弟)との間に国替が行われ,1632年(寛永9)光政の岡山移封以後は,光政系の池田氏が襲封した。実質上の藩祖とみられる光政は稀有な好学の大名で,熊沢蕃山などを重用して儒教の仁政理念を徹底し,家臣団の統制や領民支配には権威的強権と剛直な独自性をもって藩政の基盤を作った。その子綱政は文治的に〈公私の典故〉を整備して内容の充実をはかったので,岡山藩政は光政・綱政2代の間に確立したといえる。ちなみに,光政致仕の1672年(寛文12)次男政言(まさこと)に備中新墾田2万5000石,三男輝録(てるとし)に本藩朱印高の内で1万5000石を分知することが公許され,それぞれ鴨方藩,生坂(いくさか)藩として両支藩ができた。

 光政は蕃山などの儒者を登用して文教の振興に努め,全国にさきがけて藩校を創設し,ついで庶民教育のための手習所を郡中123ヵ所に設けたが,これらは綱政治世に郷学として著名な閑谷(しずたに)学校に統合された。また,土木功者とうたわれた津田永忠を起用して新田開発・治水(百間川)などの土木事業を積極的に推進し,綱政以後もよく踏襲して児島湾周辺に約13万石の新田高が創出され,ほかに約5万石の改出高があった。この新田地帯を中心に木綿・菜種などの商品作物の栽培が発達し,ひいては文化・文政前後から木綿機業を主体とした農村家内工業が勃興し,児島塩業などとともに商品生産・流通の展開をみた。財政難に直面していた藩当局は,弘化・嘉永ごろから繰綿・木綿・小倉織・塩などを対象に専売政策を試行したが,これは間接的専売制の性格をもつもので,紆余曲折を経ながら十分な成果を収めえなかった。幕末におよんで対外関係が危急を告げるや,藩主慶政・茂政(もちまさ)2代にわたって兵制改革が段階的に実施され,明治初年ついに新流銃砲を主体とした兵制の確立をみた。幕末の政治過程においては,尊攘の藩論を鮮明にするために1863年(文久3)襲封した藩主茂政(徳川斉昭の九男)は,将軍家との関係から尊攘敬幕という微妙かつ因循な立場で臨んだが,68年徳川氏と無縁な鴨方支藩主政詮(まさのり)(のち章政)が宗家を相続するにおよんで討幕に踏み切り,松山藩(板倉氏),姫路藩(酒井氏)など近隣の佐幕諸藩の討伐・鎮撫に出兵し,一部は東海道から奥羽へ転戦した。71年廃藩置県で岡山県となった。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「岡山藩」の意味・わかりやすい解説

岡山藩
おかやまはん

備前(びぜん)国(岡山県)を中心とする外様(とざま)藩。備前藩ともいう。岡山城主宇喜多秀家(うきたひでいえ)が関ヶ原の戦いで没落し、小早川秀秋(こばやかわひであき)が備前、美作(みまさか)を賜って岡山藩主となる。秀秋の死後、1603年(慶長8)姫路藩主池田輝政(てるまさ)の次男忠継(ただつぐ)が備前28万石を賜り、忠継の異母兄利隆(としたか)が「備前監国」として岡山に在城した。1613年忠継が藩主となったが、1615年(元和1)没し、忠継の弟で淡路藩主忠雄(ただかつ)が岡山藩主となる。寛永(かんえい)年間(1624~44)新田開発、用排水工事をおこし領国経営に尽力。1632年(寛永9)忠雄が死去し、嫡子光仲は鳥取藩主となり、鳥取藩主池田光政が岡山藩主となった。光政は将軍徳川家光(いえみつ)の信任を得、幕府の寛永政治に倣って寛永の改革を実施する。1647年(正保4)熊沢蕃山(くまざわばんざん)によって儒学に開眼し、「仁即忠」の政治理念を抱く。1654年(承応3)洪水による大飢饉(ききん)が起こると、仁政理念に基づき飢人救済の徹底を期すとともに、これを契機に藩政改革を断行、地方知行(じかたちぎょう)制を改め、郡方(こおりかた)支配を刷新する。ついで寺院、神社の整理統合を行い、郡中手習所、藩学校、閑谷黌(しずたにこう)を設立し儒教主義の教育を行った。1672年(寛文12)隠退し、嫡子綱政がたつ。延宝(えんぽう)の飢饉と禁裏造営の国役で財政危機に陥り、小仕置、郡肝煎役(こおりきもいりやく)を設け、藩政改革を断行、天和(てんな)~元禄(げんろく)年間(1681~1704)に至って藩政は確立し、大規模な藩営新田、後楽園、曹源寺をつくり、閑谷黌を完成する。岡山城下町、諸郡ともに繁栄したが、18世紀末以後、城下町は株仲間の制約から衰微し、諸郡も貧富の差が拡大し、散田手余地(さんでんてあまりち)が増加した。しかし児島(こじま)郡では新田、塩田の開発が相次ぎ、塩は備前の特産物の首位を占めるに至る。1853年(嘉永6)黒船来航以後、藩は城下町や児島郡の豪商、地主たちと結んで安政(あんせい)の改革を断行し、洋式軍制の整備を進めた。また、藩主茂政(しげまさ)は尊王翼覇の立場から朝廷、幕府、長州の間にたって国事周旋に奔走する。1866年(慶応2)茂政の実兄徳川慶喜(よしのぶ)が将軍に就任し、茂政は討幕に踏み切ることができず、支藩鴨方(かもがた)藩主章政(あきまさ)を新藩主に迎え、初めて征東に参加した。1871年(明治4)廃藩置県で岡山県となる。

[柴田 一]

『『新編物語藩史 第9巻』(1976・新人物往来社)』


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藩名・旧国名がわかる事典 「岡山藩」の解説

おかやまはん【岡山藩】

江戸時代備前(びぜん)国岡山(現、岡山県岡山市)に藩庁をおいた外様(とざま)藩。藩校は閑谷(しずたに)学校。岡山城主の宇喜多秀家(うきたひでいえ)関ヶ原の戦いで没落後、1600年(慶長(けいちょう)5)に小早川秀秋(こばやかわひであき)が入封(にゅうほう)したが、嗣子(しし)がなく断絶。03年、姫路藩池田輝政(てるまさ)の次男忠継(ただつぐ)が28万石で入封、以後明治維新まで池田氏12代が続いた。32年(寛永(かんえい)9)に2代の忠雄(ただかつ)が没すると、嫡子光仲(みつなか)が幼少のため、鳥取藩主で光仲の従兄弟の池田光政(みつまさ)との間に国替(くにがえ)が行われ、光政が岡山藩主となった。光政は儒学者熊沢蕃山(くまざわばんざん)を重用して藩政改革を断行するとともに、藩学校の花畠(はなばたけ)教場を設立したほか、庶民教育を目的に100ヵ所以上の手習所を領内各地に設置、のちに統合して閑谷学校を開いた。また新田開発、治水工事、塩田開発、後楽園の設営などが進められ、藩政は光政とその子綱政(つなまさ)の頃に確立、藩領は備中(びっちゅう)国4郡の一部を含む31万5000石余に達した。幕末には、9代藩主茂政(もちまさ)が水戸藩徳川斉昭(とくがわなりあき)の9男で徳川慶喜(とくがわよしのぶ)の弟であったことから微妙な立場に追い込まれたが、茂政隠居後の政詮(まさあき)(のち章政(あきまさ))は倒幕に踏み切り、奥羽へも転戦した。1871年(明治4)の廃藩置県で岡山県となった。◇備前藩ともいう。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「岡山藩」の意味・わかりやすい解説

岡山藩
おかやまはん

江戸時代,備前国(岡山県)御野郡地方を領有した藩。備前藩ともいう。藩主は外様大名池田氏,31万5000石。戦国大名浦上氏の家臣であった宇喜多氏岡山城に在城してこの地を支配していたが,関ヶ原の戦いで除封。のち小早川秀秋がその旧領を領有,慶長7(1602)年秀秋除封により,姫路藩主池田輝政の加増地となり,その二男忠継に付せられ,慶長18(1613)年分知して岡山藩を立てた。寛永9(1632)年鳥取藩池田光政と幼少の岡山藩主池田光仲との間で国替を命じられ,光政以降 10代を経て,明治維新にいたる。この間寛文12(1672)年池田政言(まさこと)に鴨方藩 2万5000石,池田輝録(てるとし)に生坂藩 1万5000石を分知,以後廃藩置県にいたる。江戸城大広間詰。

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百科事典マイペディア 「岡山藩」の意味・わかりやすい解説

岡山藩【おかやまはん】

備前(びぜん)国岡山に藩庁をおいた外様(とざま)藩。藩主は小早川氏のあと,1603年池田忠雄(ただお)が入封,忠雄没後子の光仲(みつなか)と従兄弟の池田光政(みつまさ)間で国替となり,光政(岡山池田氏祖)系統が明治まで在封。備前国全域と備中(びっちゅう)国の一部で領知高約28万石〜51万石。光政は熊沢蕃山(くまざわばんざん)ほかの儒者に就いて儒学を修め,藩校閑谷(しずたに)学校を創設,大名日記として希有な《池田光政日記》を残した。
→関連項目渋染一揆備前国妙覚寺

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「岡山藩」の解説

岡山藩
おかやまはん

備前国岡山(現,岡山市)を城地とする外様大藩。戦国大名宇喜多氏が関ケ原の戦で没落した後,小早川秀秋の領地となったが,無嗣断絶。かわって1603年(慶長8)姫路藩主池田輝政の次男忠継が入封し,池田氏の岡山領有がはじまる。32年(寛永9)忠雄が没した際,子の光仲が幼少のため従兄の鳥取藩主池田光政との間で領地替えとなり,以後10代にわたって光政系が領有。光政は儒学者熊沢蕃山を重用して政治機構の整備をはかり,治水や殖産興業に力を入れた。光政は文教政策にも熱心で熊沢蕃山は花畠(はなばたけ)教場の中心となる。その後も藩士子弟のための藩学校をはじめ,領内各地に100カ所をこす庶民教育機関を設け,のちに統合して閑谷(しずたに)学校を開いた。藩政の基礎は光政とその子綱政の頃までに確立。藩領は備前一国と備中国4郡の一部をあわせて31万5000石余。詰席は大広間。また輝政時代に将軍から松平姓を許され,以来公式には松平を称した。支藩は岡山新田藩(鴨方・生坂(いくさか)両藩)。廃藩後は岡山県となる。

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デジタル大辞泉プラス 「岡山藩」の解説

岡山藩

備前国、岡山(現:岡山県岡山市)を本拠地とした外様藩。備前藩とも。古くは宇喜多氏、小早川氏の領地。慶長年間に姫路藩主・池田輝政の次男忠継(たたつぐ)が28万石で入封、以後幕末まで池田氏が統治した。3代藩主・光政(みつまさ)は儒学者の熊沢蕃山を重用、藩政改革を行うとともに藩校・閑谷黌(しずたにこう)(閑谷学校)を設置した。

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世界大百科事典(旧版)内の岡山藩の言及

【池田氏】より

…さて,姫路城主利隆は16年(元和2)に死去し,子光政は因幡・伯耆両国32万石に減封になって鳥取に在城した。一方,岡山城主忠雄は32年(寛永9)死去し,このとき備前と因伯両国との国替が命ぜられ,光政系統が岡山藩主,光仲系統が鳥取藩主となった。ともに松平の称を与えられ,国主。…

【池田光政】より

…1616年(元和2)遺領42万石を継いだが,間もなく幼少の理由で因幡・伯耆両国32万石に減封されて鳥取に入城した。一方,岡山城主で光政の叔父にあたる池田忠雄は32年(寛永9)に死去し,子光仲が幼少のため幕命で因伯両国と備前との国替となり,同年光政は岡山に移封して岡山藩主となった。彼は72年(寛文12)に致仕した後も岡山城西の丸にあって,実に前後50年にわたって藩政の確立を主導した。…

【児島湾】より

…早くは1580年代に岡山城主宇喜多秀家が備中の倉敷から早島にかけていわゆる〈宇喜多堤〉を築いて,児島湾干拓の口火を切った。岡山藩治下での干拓は,北岸から南下する形で初めは民営で行われ,土豪開発の米倉新田(30町)や町人請負の金岡新田(232町)が注目される。17世紀後半になると,藩主池田光政は津田永忠を起用して藩営新田の造成に主力を注いだ。…

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