日本歴史地名大系 「土岐市」の解説 土岐市ときし 面積:一一六・一六平方キロ県南東部に位置し、西は多治見市・土岐郡笠原(かさはら)町、東は瑞浪(みずなみ)市。北は丘陵を隔てて可児(かに)市・可児郡御嵩(みたけ)町と境し、南は三国(みくに)山(七〇一メートル)、鶴岡(つるおか)山(七一二メートル)などの山々を境に愛知県西加茂(にしかも)郡藤岡(ふじおか)町などと接する。地形は南北に細長い。市域の七六パーセントが丘陵地で、北部中央を西に土岐川が貫流し、流域に広がる盆地一帯が市の中心部である。土岐川に南から流れ込む妻木(つまぎ)川・肥田(ひだ)川流域に妻木盆地・駄知(だち)盆地がある。また南部丘陵地にも曾木(そぎ)・細野(ほその)・柿野(かきの)の三盆地がある。土岐川の北側をJR中央本線・国道一九号が走り、御嵩町からの国道二一号が泉(いずみ)町定林寺(じようりんじ)付近で国道一九号に合流する。また昭和四八年(一九七三)、北部の丘陵地を削って中央自動車道が開通し、土岐インターチェンジが開設された。南部では旧中馬(ちゆうま)街道にほぼ沿って国道三六三号が東西に通り抜けている。市域は古代より土岐郡に属した。〔原始・古代〕駄知町西山(にしやま)ではチョッパー・剥片石器、下石(おろし)町山神(やまがみ)では掻器、泉町定林寺園戸(そのど)では打製石器・掻器、泉(いずみ)町久尻窯(くじりかま)ヶ根(ね)ではチョッパーが発見された。また駄知町北山(きたやま)からは打製石器・打製石斧・石匙が出土し、同町の論地(旭ヶ丘)からは縄文式土器のほか、打製石器・石斧・磨製石斧・石匙が出土した。いずれも現市街地より山手の台地上に分布している。下石・妻木・駄知地区での弥生式土器の出土が知られている。古墳は市内に総数五六基が発見され、うち四四基が土岐川北岸の丘陵斜面に小規模な群集墳として点在する。これらの群集墳の中心は泉町久尻にある乙塚(おとづか)古墳と北西七〇メートルに位置する段尻巻(だんじりまき)古墳である。また泉町定林寺に炭焼(すみやき)古墳群がある。土岐川北岸丘陵斜面の土岐古墳群はいずれも形式が後期古墳に属し、六―七世紀のもので、現在市域最古の古墳は土岐口の熊野(ときぐちのくまの)古墳で六世紀中葉頃とされている。土岐の地名の初見は「日本書紀」天武天皇五年(六七六)の条で「礪杵郡」(当時は評)とある。土岐六郷のうち、楢原(ならはら)郷が北半部の土岐津(ときつ)・肥田・泉地区辺り、余戸(あまるべ)郷が南西部の下石・妻木地区辺りと推定されている。朱鳥元年(六八六)の大津皇子の事件で伊豆に配流となった礪杵道作は、その氏称から土岐評を本拠地にした地方豪族の出身かと推察されており、乙塚古墳などの古墳と地方豪族とのかかわりが想定される。〔中世〕美濃源氏は七代光信以降土岐と号し(尊卑分脈)、この頃土岐郡に移動したとされている。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「土岐市」の意味・わかりやすい解説 土岐〔市〕とき 岐阜県南東部,土岐川とその支流に沿う市。 1955年土岐津,妻木,下石,駄知,泉の5町と鶴里,曽木,肥田の3村が合体して市制。多治見市に接し,陶磁器用の蛙目 (がえろめ) 粘土,木節粘土などが豊富で,古くから窯業が発達。現在も和食器を中心に,輸出用のコーヒー茶碗などの製造が行われている。乙塚古墳,元屋敷窯跡 (ともに史跡) などがあり,天然記念物には北部の白山神社に 1943年指定された樹齢 300年のハナノキとヒトツバタゴ,1933年指定の美濃の壺石がある。市域の南部は土岐三国山県立自然公園に属する。土岐川に沿って JR中央本線,中央自動車道,国道 19号線,南部を国道 363号線が通じる。面積 116.02km2(境界未定)。人口 5万5348(2020)。 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報 Sponserd by