…すでに殷代から開発されていた中原地域に位置するが,開封の名は春秋時代,鄭(てい)の荘公が封疆(ほうきよう)を開拓する意味で作った城邑に由来する。戦国時代,秦に圧迫された魏の恵王は,前362年,都をここにうつし大梁と呼んだ。魏の富強を背景に,江淮(こうわい)地方に向けて水路が整備され,商業の中心となり,また《孟子》の梁の恵王との対話でも知られるように,斉の稷下(しよくか)(稷門)とならんで,戦国学術の一中心地ともなった。…
…907年(開平1),自らがたてた唐最後の哀帝に迫って譲位させ,帝位についた。国を大梁と号し,汴州を開封府と改称して都とした。運河時代の幕開きである。…
…汴州という地の利によって勢力を拡大し,唐帝を洛陽に移して自己の保護下におくとともに,皇帝側近の宦官や貴族を大粛清して唐的伝統を絶ち切った。907年(開平1),帝位につき,国を大梁と号し,汴州開封府を都として,貴族政治に代わる最初の武人政権を華北に樹立した。しかし,山西や河北の軍閥は後梁を認めず,とくに山西の河東節度使李克用(りこくよう)とは激しく抗争し,その子李存勗(りそんきよく)(後唐荘宗)のときに滅ぼされた。…
※「大梁」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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