大生部多
生年:生没年不詳
古代の呪術的宗教家。『日本書紀』によると皇極天皇3(644)年秋7月,駿河国(静岡県)富士川の辺で,常世の神を祭ると富と長寿が授けられ,貧しい者は裕福になり,老いた者は若返ると説き,道教的な呪術に由来するといわれる古代最初の宗教運動を起こした。常世の神とは,橘や山椒の木に生まれ,黒い斑点のある,蚕に似た緑の虫である。民衆は家財や家畜などを路上に投げ出して,酒を飲み,歌い踊り狂い,労働を放棄し,浮浪人となって,都にまで押しかける勢いにまで発展したが,豪族で仏教信奉者の秦河勝に大生部多が捕らえられ打ち懲らしめられて,常世の神信仰運動は終息した。
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
大生部多 おおふべの-おお
?-? 飛鳥(あすか)時代の宗教家。
駿河(するが)(静岡県)不尽河(富士川)付近の人。皇極天皇3年(644)虫(アゲハチョウ類の幼虫)をまつり,富と長寿をまねく常世(とこよ)の神として信仰するよう人々にすすめたが,民をまどわす者として秦河勝(はたの-かわかつ)にこらしめられた。
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
世界大百科事典(旧版)内の大生部多の言及
【秦河勝】より
…[秦氏]の中心人物で山背(やましろ)の葛野(かどの)(現,京都市西部)に住した。《日本書紀》推古11年(603)11月条に河勝が聖徳太子から仏像を賜って,葛野に蜂岡寺(はちおかでら)([広隆寺])を建立したことと,同18年10月条に新羅,任那の使者が拝朝したとき,新羅使者の導者を務めたこと,また同皇極3年(644)7月条に東国の不尽河(富士川)のあたりの大生部多(おおうべのおおし)という者が,蚕に似た虫を,常世(とこよ)の神と称して村里の人々にまつらせ,富と長寿が得られるといって民衆を惑わしていたのを,河勝が打ちこらしたので,時の人が〈太秦(うずまさ)は神とも神と聞えくる常世の神を打ちきたますも〉と歌ったという伝えがみえる。《上宮聖徳太子伝補闕記》や《聖徳太子伝暦》にはそのほかに河勝が物部守屋討伐軍に加わって太子のために活躍したことや,はじめ大仁,のち小徳の冠位を与えられたことなどがみえるが確かではない。…
【虫】より
…これに似たものとして古人は蝶や蛾の類をも霊物とし,あるいは祖先の霊が季節的に出現するものとして捕殺を忌み,時としてこれを他界のものとして幸運を祈ることもあった。《日本書紀》皇極天皇3年(644)7月には,東国富士川沿岸に大生部多(おおうべのおお)なる者があって,人々に虫を祭ることを教え,これは常世の神であって不死の生命をもち,この虫を祭れば富を得て長命すると記され,そのため多くの巫覡らが人にこれを祭らせて財を捨てさせ,歌舞して虫を座にすえて祭り祈ったという。この虫がどのような種類のものかは明らかでないが,おそらくその化生して次代に生命がうけつがれていく神秘性が,多くの人々の心理に深く印象されていたことに裏づけられる現象であろう。…
※「大生部多」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」