富士川(読み)フジカワ

デジタル大辞泉 「富士川」の意味・読み・例文・類語

ふじ‐かわ〔‐かは〕【富士川】

山梨県北西部を流れる釜無かまなし川と、同県北東部を流れる笛吹川が甲府盆地で合流し、富士山の西側を南流して駿河湾に注ぐ川。最上川球磨川とともに日本三大急流の一。長さ128キロ。

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精選版 日本国語大辞典 「富士川」の意味・読み・例文・類語

ふじ‐がわ‥がは【富士川】

  1. 中部地方南東部を貫流する川。赤石山脈北部の駒ケ岳に発する釜無川を上流とし、関東山地に発する笛吹川を甲府盆地で合わせて南流、駿河湾に注ぐ。江戸時代は富士川水運の水路となる。日本三急流の一つ。全長一二八キロメートル。

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日本歴史地名大系 「富士川」の解説

富士川
ふじかわ

山梨県と静岡県を流れる一級河川。流路延長は一二八キロ、県内流長一八キロ。甲府盆地に流入する笛吹ふえふき川と釜無かまなし川が盆地南部で合流して富士川となり、途中ではや川ほかを合せて南流する。芝川しばかわ町で静岡県内に入り、富士市と蒲原かんばら町の境で駿河湾に注ぐ。鮮新世の小河内こごうち層群・浜石岳はまいしだけ層群よりなる天子てんし山脈を横断し、更新世のさぎ礫層、岩淵いわぶち安山岩類・古富士こふじ火山泥流よりなる丘陵を通過して富士市岩本いわもとから南東方向に扇状地を展開する。東縁は同市の和田わだ川、南は扇状地のまま海に接し、円弧状の海岸線で終わる。扇状地上には富士川の乱流跡が残り、東南東に向かう一群と南南東に向かう一群とがある。前者は近世以前、松岡まつおか(現富士市)水神すいじんの森の北を迂回し現在の富士市、潤井うるい川筋から田子たごうら港に向かう。後者は江戸前期のかりがね(現富士市)の完成で流路が付替えられた。地下は砂礫を主とするが、深さ八〇―九〇メートルから富士山の溶岩・火山砂礫が出現する。下流部は地殻変動が活発で、南北に走る断層がいくつもあり、いずれも西側から突き上げるような動きをする断層(衝上断層、逆断層の一種)である。もっとも東の断層は富士川付近を通り富士川断層とよばれる。その西側に完新世の岩淵段丘があるなど、活動がごく最近にまで及んでいる活断層である。安政東海地震でもこの断層が活動し富士川の扇状地が隆起し、蒲原地震山などが出現した。鮮新世(三〇〇万年前)以降の浜石岳層群の礫岩、蒲原礫層は円い形の礫からなる。それらを運んだ河川があったはずだが、十分な研究資料がなく、それが富士川だったかは不明。

「日本書紀」皇極三年七月条によると、「東国の不尽河」のほとりに住む大生部多が、村人に虫を常世神として祀ることを勧めている。「万葉集」巻三の雑歌には「不尽の高嶺」とともに「不尽河」がみえる。承和二年(八三五)六月二九日の太政官符(類聚三代格)によると、「駿河国富士河」ははなはだ流れが速く東海道の渡河地点でも人馬が水没することが少なくなく、浮橋を設けたという。貞観六年(八六四)一二月一〇日、駿河郡柏原かしわら駅を廃して富士郡蒲原かんばら駅を「富士河東野」に移している(三代実録)。また富士川は駿河国の歌枕とされ(「能因歌枕」など)、多くの詠歌がある。「更級日記」には田子たごの浦・大井川に続けて「富士河といふは、富士の山より落ちたる水也」と記され、上流から次年度の国司を予想した反故紙が流れてくる逸話を載せている。


富士川
ふじかわ

県中央部の西寄りを南流し、静岡県に入って屈曲して南東に流れ、三角洲平野をつくって駿河湾に注ぐ一級河川。流路延長一二二・四キロ、県内流路一〇〇・四キロ。河川法上では釜無川を含めて富士川というが、歴史的にもまた現在でも一般的には釜無川・笛吹川・あし川の三川落合より下流を富士川とよんでいる。「甲斐国志」山川部富士川の項に「駿州ヘ通船アル青柳・鰍沢・黒沢ノ三河岸以下ヲ称シテ可ナリ」「今世ハ二水及芦川八代・巨摩二郡ノ界市川大門村・東南湖村ノ間押切所おしきりどト云ヘル処ニテ合流シテヨリ其ノ下ヲ直ニ富士川ト呼ブ」と記す。鰍沢かじかざわ町のほん町の南に迫る大木おおぎ台地と巨摩山地が迫る甲府盆地の間に出口峡谷があり、の瀬とよぶ。養老年間(七一七―七二四)行基が開削し治水の効をあげた、その徳を慕い河霊として小柳おやな川のほとりに蹴裂明神を祀り、夏の禹王の治水に比肩するとして禹の瀬と称したという伝説があり、穴切大明神が山を切り岩をうがち、蹴裂大明神が山のはしを蹴破って湖水を涸らして良田をつくったという。ここから県境まで山岳地帯を南流し、狭い谷底平地と河岸段丘を形成する。川の西は南巨摩郡、東は西八代郡であるが総称して河内かわうちとよび、峡南きようなん地方とも称している。最大の支流ははや川で中富なかとみ町と身延みのぶ町の間で合流する。その他大小の支流を合せ、静岡県芝川しばかわ町で富士山の伏流水を源流とする芝川が合流する。

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改訂新版 世界大百科事典 「富士川」の意味・わかりやすい解説

富士川[町] (ふじかわ)

山梨県西部,南巨摩(みなみこま)郡の町。2010年3月鰍沢(かじかざわ)町と増穂(ますほ)町が合併して成立した。人口1万6307(2010)。

富士川町南部の旧町。南巨摩郡所属。人口4294(2005)。甲府盆地の最南端に位置する。江戸初期,角倉了以により開かれた富士川水運の拠点として,昭和初年まで栄えた。町域の8割が山林で,農地は少ないが,富士川の沖積地に水田が開ける。伝統的に商業中心の町で,国道52号線に沿って商店が集中する。地場産業にすずり製造業があり,雨畑すずりとして知られる。町の中央部を東流する大柳川の流域は十谷温泉(単純硫黄水素泉,12~14℃)を中心に南アルプス巨摩県立自然公園に指定されている。JR身延線が通じる。
執筆者:

甲斐国富士川三河岸の一つ(他に青柳(現,富士川町),黒沢(現,市川三郷町))。地名の初出は1547年(天文16)。甲府盆地の南端,南下する富士川西岸に位置し,村高は1601年(慶長6)506石余,72年(寛文12)998石余。慶長年中,富士川開削により舟運がはじまると三河岸の中心となって,年貢米の江戸廻漕のほか,一般米穀類を主とした下り荷,瀬戸内海の塩その他の上り荷の集散でにぎわうようになった。また駿信往還の宿場で口留番所が置かれ,水陸交通の要衝として〈凡州中第一ノ劇邑〉(《甲斐国志》)といわれた。1784年(天明4)人口2682人,船数113艘。農間稼ぎとして生計を河岸にたよった者が多く,米穀商人や塩商人の活動が活発であった。葛飾北斎の描いた《富嶽三十六景》のうち〈甲州石班沢(かじかざわ)〉は著名。1903年には5413人と人口の増大がみられたが,同年の中央線開通により打撃をうけ,28年富士身延鉄道(現,身延線)の全通で水運は終止符をうった。
執筆者:

富士川町北部の旧町。南巨摩郡所属。人口1万3111(2005)。甲府盆地の南西部,富士川西岸に位置し,櫛形山(2052m)を中心とした西部の山地と,東流して富士川に注ぐ利根川,戸川が形成した複合扇状地から成る。中心の青柳は江戸時代,富士川舟運の河岸,甲州商人の拠点として栄えたところで,現在も国道52号線に沿って商工業が発達している。養蚕中心だった農業はブドウ,桃の果樹,トマトなど野菜の栽培へと多角化が進む。工業は養蚕を背景とした伝統的な製糸業をはじめ,メリヤス製造,食品加工などのほか,電気・電子機器産業も進出している。中部横断自動車道インターチェンジがある。櫛形山一帯は南アルプス巨摩県立自然公園に指定され,赤石温泉(酸性鉄泉,13℃)がある。
執筆者:


富士川 (ふじがわ)

山梨・長野県境から山梨県西部を流れ,静岡県に入り駿河湾に注ぐ川。幹川流路延長128km,全流域面積3990km2。赤石山脈北部,駒ヶ岳(2967m)の西に源を発し,八ヶ岳すそ野の断層線に沿って流れる釜無川が,甲府盆地南部,市川三郷町の旧市川大門町笛吹川を合して富士川となる。甲府盆地の水を集め,盆地南端の富士川町の旧鰍沢(かじかざわ)町付近から,富士山西麓の天子山地身延山地の間に峡谷をつくりながら南流,身延町の中西部で西から早川が合流する。さらに波木井川,芝川などを合わせ蛇行しながら南東流し,静岡県富士市の旧富士川町木島から扇状地式三角州をつくり,岩淵を経て富士市の西で駿河湾に注ぐ。

 富士川流域の約90%は山地で,河床こう配も大きく,最上川,球磨(くま)川と並んで日本三急流の一つに数えられてきた。水量が豊富なことから,甲府盆地と東海地方を結ぶ連絡路として水運が盛んであった。1607年(慶長12)徳川家康は甲府盆地の年貢米を江戸へ回送するため角倉了以に富士川の開削を命じ,難工事の末5年がかりで鰍沢,青柳,黒沢の三河岸から岩淵まで約71kmの間に舟を通じた。信州の諏訪,松本の米や雑穀,薪炭,寒天なども運ばれ,帰り荷は塩を中心に肥料,雑貨などで,甲州,信州への塩の重要な搬入ルートであった。明治以降回米はなくなったが,東海道本線の開通により舟運はむしろ盛んとなり,1900年ころには舟数は1500隻にのぼった。しかし,その後中央本線と富士川沿いの身延線の開通により急激に衰え,1922年には廃止された。

 東海道は江戸時代初期には船橋を架していたが,その後渡船(とせん)に変わった。渡船の始まった時期は必ずしも明確ではないが,元禄年間(1688-1704)という説が多い。水量の激増から渡船制となったといわれる。富士川の東岸には吉原宿,西岸には蒲原宿があり,富士川の船賃は1711年(正徳1)1人16文,荷駄1駄30文,1829年(文政12)から10年間は2割増,43年(天保14)からは5割増の1人24文,1駄45文とされた(《宿村大概帳》)。

 富士川は急流に加え土砂運搬量が多く,長く洪水に悩まされてきた。武田信玄が甲府盆地を御勅使(みだい)川の激流から守るために築造した信玄堤や,近世初期に駿州代官古郡孫太夫重政とその子文右衛門重年が加島新田(現,富士市)開発のため築いた雁(かりがね)堤などは今日も残されている。1925-29年には釜無川と笛吹川の合流点を約2.7km下流に下げる背割堤が設けられた。富士川河床では建築用材として砂利の採取が盛んであったが,第2次大戦後,支流の早川でのダム建設などにより,本流への土砂の供給が減少し,本流での採取は規制されるようになった。

 中流の山梨県の旧市川大門町,身延町の旧中富町などでは早くからコウゾ,ミツマタを栽培し,富士川の清流を利用した和紙生産が行われたが,下流の静岡県側では明治末期から豊富な水資源を利用するパルプや紙の企業的生産が始められて,大製紙工業地帯の基盤となった。
執筆者:


富士川(静岡,旧町) (ふじかわ)

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百科事典マイペディア 「富士川」の意味・わかりやすい解説

富士川【ふじがわ】

長野・山梨・静岡3県にまたがる川。長さ128km。流域面積3990km2。上流部の釜無川笛吹川が市川大門町(現・市川三郷町)付近で合流し,深い峡谷を刻んで南下,富士市西端で駿河湾に注ぐ。《万葉集》には不尽河とみえ,日蓮の書状には富士河は日本第一の早い川と記している。江戸時代には米・塩・海産物などが舟運によって運ばれた。河谷は古来,甲府盆地と東海地方を結ぶ連絡路に利用され,身延線が開通するまで舟運も盛んであった。水量が豊かで発電所が多い。
→関連項目鰍沢[町]芝川[町]下部[町]富沢[町]中富[町]南部[町]富士[市]富士川[町]富士川[町]増穂[町]身延[町]身延山地六郷[町]

富士川[町]【ふじかわ】

山梨県西部,南巨摩(みなみこま)郡の町。東部は甲府盆地南西端にあたり,南北に富士川が貫流する。2010年3月,南巨摩郡増穂町,鰍沢町が合併して誕生。北部,南アルプス市との境界には富士山や白峰三山が眺望でき,花の群生の美しさで知られる櫛形山がある。中部横断自動車道,国道52号線が通じる。東日本大震災で,町内において被害が発生。112.00km2。1万6307人(2010)。

富士川[町]【ふじかわ】

静岡県中東部,富士川右岸にある庵原(いはら)郡の旧町。主集落の岩淵は富士川水運の中継地として発達,東海道本線が通じる。水が豊富で製紙・製材・合板工業が盛んなほか,ミカン,キウイフルーツなど果樹を産する。2008年11月富士市へ編入。30.92km2。1万6823人(2005)。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「富士川」の意味・わかりやすい解説

富士川(町)
ふじかわ

山梨県中西部、南巨摩郡(みなみこまぐん)にある町。2010年(平成22)増穂町(ますほちょう)と鰍沢町(かじかざわちょう)が合併して成立。甲府盆地の南西端に位置し、西部には櫛形(くしがた)山をはじめとする巨摩山地の山々がそびえる。町の北東端部で釜無川(かまなしがわ)と笛吹川(ふえふきがわ)が合流して富士川となり、東隣の市川三郷(いちかわみさと)町との境界付近を南へと流れ下る。江戸時代から明治後期まで、青柳(あおやぎ)、鰍沢、黒沢(くろさわ)の3河岸は、甲州三河岸とよばれ、富士川水運の河岸場として栄えた。しかし、近代に入り、鉄道や道路などが整備されて富士川水運は衰えた。国道52号(甲西道路)、140号が通じ、区間開通した中部横断自動車道の増穂インターチェンジがある。スモモ、モモ、ブドウなどの果樹栽培が盛んで、小室(こむろ)、高下(たかおり)地区は全国有数のユズの産地でもある。観光地には赤石(あかいし)温泉、十谷(じっこく)温泉や大柳川(おおやながわ)渓谷がある。また、高下地区は冬至から正月頃にかけて、富士山頂からの日の出を見ることができ「ダイヤモンド富士」とよばれ、多くの写真愛好家が訪れる観光スポットとなっている。明王寺(みょうおうじ)の木造薬師如来(やくしにょらい)立像は国指定重要文化財。面積112.00平方キロメートル、人口1万4219(2020)。

[編集部]



富士川(静岡県の旧町名)
ふじかわ

静岡県東部、庵原郡(いはらぐん)にあった旧町名(富士川町(ちょう))。現在は富士市西端の一地区。富士川下流西岸に位置する。旧富士川町は1901年(明治34)町制施行。1957年(昭和32)松野村を編入。2008年(平成20)富士市へ編入。旧町域の約80%が興津川(おきつがわ)山地と蒲原(かんばら)丘陵地で、低地は富士川扇状地。JR東海道本線、旧国道1号(県道富士由比(ゆい)線)が通じる。また、東名高速道路の富士川サービスエリアがあり、富士山の眺望がよい。

 中心地区の岩淵(いわぶち)は江戸時代、富士川の渡船場で、甲州鰍沢(かじかざわ)と結ぶ富士川舟運の中継地として繁栄した。岩淵には江戸から37里目の一里塚が残っていて、県指定文化財となっている。また、岩淵小休本陣となった「常盤家住宅主屋(ときわけじゅうたくしゅおく)」は国の有形登録文化財。富士川扇状地原の低地は水田が広がっていたが、第二次世界大戦中アルミ工場が建てられ、以来缶詰、農薬、機械工場が進出して東駿河(するが)湾工業地域の一部となっている。丘陵部ではおもにミカン、茶をつくっているが、最近はキウイフルーツの栽培が盛んになっている。近年住宅団地の造成が進み、富士・富士宮両市中心市街地のベッドタウン化が顕著である。

[川崎文昭]

『『富士川町史』全5巻(1962~2004・富士川町)』


富士川(山梨県・静岡県の川)
ふじかわ

山梨県、甲斐駒ヶ岳(かいこまがたけ)北西斜面を源流として、静岡県富士(ふじ)市と静岡市清水(しみず)区との境界付近で駿河湾(するがわん)に注ぐ山梨県の最長河川。「ふじがわ」ともいう。一級河川で、延長128キロメートル。流域は山梨、長野、静岡の3県にまたがり3990平方キロメートルに及ぶが、その約83%は山地で、平地は17%にすぎない。河床の傾斜は80分の1ないし370分の1といわれ、日本三大急流の一つに数えられている。

 慶長(けいちょう)年間(1596~1615)に角倉了以(すみのくらりょうい)により甲府盆地の流出口にあたる富士川(ふじかわ)町鰍沢(かじかざわ)の禹ノ瀬(うのせ)が開削されて以来、富士川は中部日本と東海地方を結ぶ一大交通路となった。この鰍沢―岩淵(いわぶち)(現、富士市)間の富士川舟運は、青柳(あおやぎ)河岸、黒沢河岸(いずれも富士川町)などの河港が繁栄し物資流通の大動脈であった。今日ではJR身延(みのぶ)線と国道52号、また富士山側の有料道路群がその機能を引き継いでいる。おもな支流に塩川、御勅使(みだい)川、笛吹(ふえふき)川、早川、佐野川などがあり、その水は甲府盆地内では多目的に使用されているが、ほかではおもに水力発電に利用されており、一部ではその包蔵水力の開発が計画されている。

[吉村 稔]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「富士川」の意味・わかりやすい解説

富士川
ふじかわ

山梨県および静岡県中央部を南流し駿河湾に注ぐ川。全長 128km。赤石山脈に発する釜無川関東山地に発する笛吹川甲府盆地の南縁の鰍沢(かじかざわ)付近で合流して富士川となる。赤石山脈の前山の巨摩山地天守山地との間に深い峡谷をつくって南流し,下流に扇状地を形成して駿河湾に注ぐ。「日本三急流の一つ」といわれる急流で,包蔵水力も大きく発電所が多い。かつては甲府盆地と東海地方を結ぶ舟運に利用された。下流域には伏流水を利用しての製紙業が発達している。

富士川
ふじかわ

静岡県中部,富士市南西部の旧町域。富士川の下流右岸に位置する。1901年町制。1957年松野村を編入。2008年富士市に編入。縄文時代前期に属する木島式土器文化の遺跡群が発見されており,開発は古い。中心集落の岩淵は近世には富士川渡船,甲州方面からの「下げ米」などの舟運の河港として繁栄。東海道の岩淵宿も置かれた。豊富な富士川の地下水を利用した軽金属,製紙などの工場が立地。西部の庵原山地ではミカン栽培が行なわれる。

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事典・日本の観光資源 「富士川」の解説

富士川

(山梨県南巨摩郡南部町)
ふるさとの水辺百選」指定の観光名所。

富士川

(山梨県南巨摩郡鰍沢町)
ふるさとの水辺百選」指定の観光名所。

富士川

(山梨県南アルプス市)
ふるさとの水辺百選」指定の観光名所。

富士川

(山梨県・長野県・静岡県)
日本三急流」指定の観光名所。

富士川

(山梨県甲斐市)
ふるさとの水辺百選」指定の観光名所。

富士川

(静岡県)
日本百景」指定の観光名所。

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デジタル大辞泉プラス 「富士川」の解説

富士川

山梨県南巨摩郡富士川町にある道の駅。国道52号に沿う。

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世界大百科事典(旧版)内の富士川の言及

【甲斐国】より


【中世】
 甲斐源氏勃興のときは源平争乱期であった。1180年(治承4)信義は以仁王(もちひとおう)の令旨(りようじ)を奉じ,その子一条忠頼,弟安田義定ら一族を率いて挙兵し,富士川の戦で奇襲戦法によって平維盛の軍を敗走させ,その功で信義は駿河守護,義定は遠江守護に補任された。その後源頼朝の政権が強化されるにともない,甲斐源氏の地位は相対的に低下するが,木曾義仲追討,平家討滅等に転戦し,鎌倉幕府の創業に貢献した。…

【蒲原[町]】より

…人口1万4040(1995)。富士川河口西岸に位置し,南は駿河湾に臨む。古くから東海道の宿駅として繁栄した交通の要地で,現在も東海道本線,国道1号線が通じる。…

※「富士川」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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