秦河勝(読み)ハタノカワカツ

デジタル大辞泉 「秦河勝」の意味・読み・例文・類語

はた‐の‐かわかつ〔‐かはかつ〕【秦河勝】

古代官人山城の人。聖徳太子舎人とねりで、蜂岡寺(のちの広隆寺)を創建したと伝える。生没年未詳。

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精選版 日本国語大辞典 「秦河勝」の意味・読み・例文・類語

はた‐の‐かわかつ【秦河勝】

  1. 七世紀前半、推古朝の人。聖徳太子の舎人推古天皇一八年(六一〇新羅の使者の接待役を勤めた。また、広隆寺(蜂岡寺)を創建したといわれる。生没年不詳。

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改訂新版 世界大百科事典 「秦河勝」の意味・わかりやすい解説

秦河勝 (はたのかわかつ)

7世紀前半ころの廷臣。生没年未詳。川勝とも書く。秦氏の中心人物で山背(やましろ)の葛野(かどの)(現,京都市西部)に住した。《日本書紀》推古11年(603)11月条に河勝が聖徳太子から仏像を賜って,葛野に蜂岡寺(はちおかでら)(広隆寺)を建立したことと,同18年10月条に新羅,任那の使者が拝朝したとき,新羅使者の導者を務めたこと,また同皇極3年(644)7月条に東国の不尽河(富士川)のあたりの大生部多(おおうべのおおし)という者が,蚕に似た虫を,常世(とこよ)の神と称して村里の人々にまつらせ,富と長寿が得られるといって民衆を惑わしていたのを,河勝が打ちこらしたので,時の人が〈太秦(うずまさ)は神とも神と聞えくる常世の神を打ちきたますも〉と歌ったという伝えがみえる。《上宮聖徳太子伝補闕記》や《聖徳太子伝暦》にはそのほかに河勝が物部守屋討伐軍に加わって太子のために活躍したことや,はじめ大仁,のち小徳の冠位を与えられたことなどがみえるが確かではない。
執筆者:

秦河勝には,日本における舞楽や能の始まりにかかわる伝承がある。その背景には,河勝が技術に長じた渡来系氏族である秦氏の代表的存在で,また,諸芸の始祖に擬せられる聖徳太子と深い関係をもっていたことがあると考えられる。このうち,能(猿楽,申楽)の始まりと関係する伝承は《風姿花伝》に詳しい。これは大きく(1)化生譚,(2)申楽の始まり,(3)河勝が神となること,の三つに分かれる。以下,同書の序および〈第四神儀〉によって概要を記す。(1)欽明天皇のとき,大和国泊瀬(はつせ)の川の洪水の際に,流れてきた壺を殿上人が三輪の杉の鳥居の辺で拾ってみると,中に玉のような赤ん坊がいた。その夜天皇の夢に赤ん坊が現れて,自分は秦(しん)の始皇帝の生れ変りであると言った。子どもは宮中に召し出され,〈秦〉の姓をもらった。これが秦河勝(はだのこうかつ)である。(2)聖徳太子が河勝に命じて,天下安全,諸人快楽のために〈六十六番の物まね〉をさせ,御作の面を与えた。また〈神楽(かぐら)〉の〈神〉字の偏を除いて〈申楽〉と命名した。河勝はその芸を子孫に伝えた(金春(こんぱる)流)。(3)河勝は〈化人跡を留めぬによりて〉摂津国難波の浦からうつぼ船で船出し,播磨国坂越(しやくし)の浦に着いた。そこで〈諸人に憑(つ)き祟(たた)りて〉奇瑞をあらわしたので,大荒(おおさけ)大明神としてまつられた。

 (1)の桃太郎の誕生譚を思わせる話は,《本朝神社考》や《和漢三才図会》などにも引かれるが,始皇帝ではなく,始皇帝の命で不死の薬を求めて日本に来たという徐福の子孫だという伝承もある。また,(3)の大荒大明神は,現在兵庫県赤穂市にある大避(おおさけ)神社(旧県社)のことであるといい,同社には河勝がもっていたという神楽面がある。
執筆者:

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朝日日本歴史人物事典 「秦河勝」の解説

秦河勝

生年:生没年不詳
6世紀末から7世紀前半にかけて活躍した厩戸皇子(聖徳太子)の側近。山背国葛野(京都市)の人。葛野秦造河勝,川勝秦公とも書く。山背国の深草地域(京都市伏見区)および葛野地域に居住する秦氏の族長的地位(太秦)にあり,その軍事力や経済力を背景にはやくから厩戸皇子の側近として活躍。『上宮聖徳太子伝補闕記』は,用明2(587)年の物部守屋の追討戦に「軍政人」として従軍,厩戸皇子を守護して守屋の首を斬るなどの活躍を伝え,秦氏の軍事力が上宮王家の私兵として用いられたことが知られる。推古18(610)年には来日した新羅・任那使人らの導者となった。また,秦氏の氏寺として蜂岡寺(京都市右京区太秦蜂岡町の広隆寺)を造営するが,推古30年における聖徳太子の病気回復(あるいは追善供養)を契機として,推古11年に太子から授かった仏像を安置するために建立したものと伝えられる。現存する伽藍は平安末期以降の再建だが,太子が河勝に授けた朝鮮伝来と伝えられる半跏思惟像(国宝)は有名。皇極3(644)年には不尽(富士)川辺で大生部多が常世神と称して虫を祭り,都鄙の人がこぞってこれを信仰すると,民の惑わされるを憎んで大生部多を打ち懲らしたという。神仙的な当時の民間信仰や蘇我氏との関係で微妙な秦氏の政治的立場を議論する史料となっている。物部守屋を討った功により大仁,のちには小徳に叙せられた。広隆寺系の史料には大化5(649)年制定の大花上とある。<参考文献>平野邦雄『大化前代社会組織の研究』,今井啓一『秦河勝』

(仁藤敦史)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「秦河勝」の意味・わかりやすい解説

秦河勝
はたのかわかつ

生没年不詳。7世紀前半の豪族。山城(やましろ)国葛野(かどの)郡に本拠を置く渡来系豪族秦氏の族長的な人物。『聖徳太子伝暦(でんりゃく)』など諸種の聖徳太子伝には太子の近侍者として伝えられる。『日本書紀』では、603年(推古天皇11)聖徳太子より仏像を譲り受けて蜂岡(はちおか)寺(後の広隆(こうりゅう)寺)を創建し、644年(皇極天皇3)東国でカイコに似た虫を常世神(とこよのかみ)と称して祀(まつ)り、現世利益を得ようとする信仰が流行したときには、河勝は、人心を惑わす悪習として張本人の大生部多(おおふべのおおし)を打ち、これを鎮圧したという。また河勝は猿楽(さるがく)(能楽)の始祖と伝承されており、金春禅竹(こんぱるぜんちく)の著『明宿(めいしゅく)集』には、聖徳太子が河勝に命じて天下太平のために翁(おきな)の舞を演じさせたのが猿楽のおこりであると述べられている。

[菊地照夫]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「秦河勝」の意味・わかりやすい解説

秦河勝
はたのかわかつ

古代の官人。「秦川勝」とも書く。聖徳太子の近臣。推古天皇の時代から大化時代頃にかけて朝廷に仕えた。冠位は,推古時代に大仁,大化時代に大花上という。推古 11 (603) 年聖徳太子から仏像を賜わって同 30年広隆寺 (蜂岡寺) を造営 (→飛鳥文化 ) ,皇極3 (644) 年東国の富士川のあたりで常世 (とこよ) の神と称するものを祀り,民衆を惑わす者を懲らしめたという話がある。用明2 (587) 年物部守屋を討伐したと伝えられる。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「秦河勝」の解説

秦河勝 はたの-かわかつ

?-? 飛鳥(あすか)時代の官吏。
秦氏の族長。厩戸(うまやどの)皇子(聖徳太子)の側近。物部守屋(もののべの-もりや)征討戦に軍政人として従軍。推古天皇11年(603)太子よりさずかった仏像を安置するため蜂岡(はちおか)寺(広隆寺)をたてた(建立は30年とも)とつたえられる。18年来日した新羅(しらぎ)使,任那(みまな)使の導者をつとめた。皇極天皇3年常世(とこよ)神をまつって人心をまどわす大生部多(おおふべの-おお)を討ったという。名は川勝ともかく。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「秦河勝」の解説

秦河勝
はたのかわかつ

川勝とも。生没年不詳。6世紀後半~7世紀前半の官人。厩戸(うまやど)皇子(聖徳太子)の側近。用明2年物部守屋(もののべのもりや)征討の際,軍政人として活躍。603年(推古11)太子所有の仏像を授かり,山城国葛野に蜂岡(はちおか)寺(広隆寺)を造立した(「日本書紀」)。ただし「広隆寺縁起」などは同寺建立を壬午歳(推古30年)とする。610年新羅・任那使入京の際,導者となった。644年(皇極3)常世(とこよ)神信仰が流行すると,首謀者の大生部多(おおうべのおお)を討った。

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旺文社日本史事典 三訂版 「秦河勝」の解説

秦河勝
はたのかわかつ

生没年不詳
7世紀前期の官人
山背(のち山城,京都府)を本拠とする渡来系氏族秦氏出身。聖徳太子に信任され,氏寺として広隆寺を創建した。

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世界大百科事典(旧版)内の秦河勝の言及

【飛鳥美術】より

…また伝統的な蘇我氏による百済路線から,あえて新羅路線に乗りかえ,新羅修好のうえに立って対隋外交を確保した。 603年新羅は仏像をもたらし,太子はこれを秦河勝(はたのかわかつ)に賜い,河勝は山背(やましろ)の太秦(うずまさ)に蜂岡寺(広隆寺)を造った。608年には新羅人が多数来朝し,610年新羅・任那の使者来朝に際して,秦河勝は接待役を命ぜられ,621年新羅は初めて表を奉って朝貢した(紀)。…

【広隆寺】より

…真言宗別格本山。秦河勝(はたのかわかつ)が,603年(推古11)に聖徳太子から仏像をさずかり,その像を安置するため622年に創建したのが当寺で,京都では最古の寺院の一つである。創建当初の寺地は,いまの場所から北東数kmの地点とされ,現地には平安遷都時あるいはそれ以前に移った。…

【天王寺方】より

…一方,四天王寺や奈良興福寺などの寺社で宗教行事に出仕する演奏者集団も世襲的に形成された。四天王寺の楽人天王寺方は聖徳太子の臣,秦河勝(はたのかわかつ)を遠祖とするとして太秦(うずまさ)または秦姓を名乗り,薗(その),林(はやし),東儀(とうぎ),岡(おか)および安倍姓東儀の5家がある(古くはすべて太秦または秦などの姓を名乗った)。薗・林は笙,東儀は篳篥(ひちりき),岡は竜笛を専門とした。…

【秦氏】より

…ついで,欽明天皇のとき,山背紀伊郡人秦大津父(おおつち)が〈大蔵〉の官に任ぜられ,〈秦人〉7053戸を戸籍に付し,〈大蔵掾〉として,その伴造(とものみやつこ)となったという。ついで,秦河勝がある。河勝は聖徳太子の財政,軍事,外交に関する側近者で,太子の意をうけて蜂岡(はちおか)寺(広隆寺)をたてたといい,寺は太秦にあるので太秦寺とも称された。…

※「秦河勝」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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