大納言塚
だいなごんづか
箕山町の北西部に位置。豊臣秀長は郡山在城わずか六年にして天正一九年(一五九一)正月二二日没し、遺骸は美濃山(箕山)の西部に葬られた。この地を俗に大納言塚と称している。法名は「大光院殿前亜相春岳紹栄大居士」。墓所の東南に菩提寺として大光院を建立し墓所を保護した。しかし、まもなく、豊臣家が滅んでからは荒廃し、大光院も大徳寺塔頭(現京都市北区)として移され、位牌は新町春岳院(現新中町。当時東光院と称した)によって引継がれた。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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