郡山城下(読み)こおりやまじようか

日本歴史地名大系 「郡山城下」の解説

郡山城下
こおりやまじようか

[現在地名]大和郡山市東奈良口ひがしならぐち町・西奈良口町・西観音寺にしかんのんじ町・北鍛冶きたかじ町・中鍛冶町・南鍛冶町・しお町・ほん町・ちや町・雑穀ざこく町・西野垣内にしのがいと町・うお町・奈良なら町・いの町・新中しんなか町・さかい町・綿わた町・今井いまい町・材木ざいもく町・高田口たかだぐち町・矢田町やたまち通・新紺屋しんこんや町・紺屋こんや町・くるま町・豆腐とうふ町・やなぎ一―六丁目・洞泉寺とうせんじ町・北大工きただいく町・南大工町・東岡ひがしおか町・西岡町・大宮おおみや

奈良盆地北部、佐保川富雄とみお川の間に発達した城下町。戦国大名筒井順慶が郡山城を築き、郡山村・薬園やくおん村を根幹に城下を取立てたことに始まり、豊臣秀長・秀保、増田長盛の時代にいちおう完成した。初期には筒井氏の本貫筒井つつい村からの町屋の移転もあったらしい。

〔藩主の異動〕

近世の郡山藩は筒井氏・豊臣氏・増田氏時代に建設され、関ヶ原の戦で増田長盛が西軍に荷担し、所領没収のうえ、一時廃城となった。

大坂の陣後、元和元年(一六一五)三河国刈屋かりやから水野勝成(六万石)が封ぜられた。同五年備後国福山に転ずると大坂城から松平忠明(一二万石)が入部した。両者とも大坂の陣で先鋒第一・第三陣を率いて活躍目覚ましく、それぞれ勲功として与えられたものである。寛永一六年(一六三九)忠明が播磨国姫路に移り、代りに本多政勝が一五万石で入部した。しかも郭住の本多勝行分四万石が加えられ、郡山一九万石と郡山藩としても近世最大の規模をもつことになった。寛文一一年(一六七一)政勝が死去すると、その跡をめぐり嫡流・庶流の争いが表面化した。「九六騒動」といわれる。その結果、本多一五万石は政長九万石、政利六万石に分れ、延宝七年(一六七九)政長の死去で、忠国があとを継ぎ陸奥国福島へ、政利は播磨国明石に転じた。代わって明石から松平信之が入部、八万石に封ぜられた。貞享二年(一六八五)下総国古河こがへ転出すると下野国宇都宮から本多忠平(一一万石)が入部した。以降、忠常・忠直・忠村が継ぎ、忠烈(五万石)が享保八年(一七二三)死去とともに本多氏は断絶した。

翌九年甲斐国甲府から柳沢吉里(一五万石)が入封し、以後信鴻のぶとき・保光・保泰・保興・保申やすのぶと継いで廃藩置県に至った。このように郡山藩は有力な譜代家臣が配属されたのも京・大坂に近く、政治的・軍事的重要性に基づくものである。

〔町場の形成〕

「多聞院日記」によると天正一二年(一五八四)頃から郡山市が賑い、奈良の僧が塩などの購入に出向くほどであった。二月一五日条に「味噌ノ用ニ塩郡山市ヘ買ニ下了、米一斗ニシヲ一斗六升ツヽ買テ来」、一二月二五日条に「郡山市ニテ、モンメン御フクニ七丈一尺ヲ六百六十文ニ買了、シヲ三百文ニ四斗五升、コ(ヨ)ミ七文ツヽ」などとみえ、毎月六斎市が立ち、塩・木綿・魚などが商われた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の郡山城下の言及

【大和郡山[市]】より

…人口9万5165(1995)。西部は矢田丘陵の東斜面にあたり,北西部は西ノ京丘陵の南端部を占め,その地形を利用して郡山城下が形成された。両丘陵間には富雄川が南流している。…

※「郡山城下」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

焦土作戦

敵対的買収に対する防衛策のひとつ。買収対象となった企業が、重要な資産や事業部門を手放し、買収者にとっての成果を事前に減じ、魅力を失わせる方法である。侵入してきた外敵に武器や食料を与えないように、事前に...

焦土作戦の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android