改訂新版 世界大百科事典 「豊臣秀長」の意味・わかりやすい解説
豊臣秀長 (とよとみひでなが)
生没年:1541-91(天文10-天正19)
安土桃山時代の武将。豊臣秀吉の異父弟。筑阿弥の子。小一郎,のち美濃守。初め長秀,1585年(天正13)ころより秀長に改めた。1577年以降秀吉の中国征伐に従って頭角をあらわし,但馬竹田・出石城主などとして但馬・播磨経略に努めた。本能寺の変後も秀吉の片腕として山崎の戦,賤ヶ岳の戦,小牧・長久手の戦に従軍。85年には紀州一揆弾圧後の紀伊経略,秀吉の名代として長宗我部氏を下した四国征伐で大役を果たし,その功により同年閏8月大和・紀伊に和泉・伊賀の一部を加えた100万石を領し,大和郡山を居城とした。翌年従三位参議。87年にも九州征伐で日向口を指揮して島津軍を破り,従二位権大納言となり大和大納言といわれた。秀吉および諸大名の信望もあつく,豊臣政権下で枢要の位置を占めたが,90年病にかかり,小田原征伐には留守居となり,翌年1月郡山城で病没。甥の秀保が跡を継いだ。
執筆者:加藤 益幹
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報