朝日日本歴史人物事典 「大野規周」の解説
大野規周
生年:文政3.1.28(1820.3.12)
幕末明治期の精密機械技術者。江戸神田松枝町の幕府暦局御用時計師の家に生まれた。祖父弥五郎規貞,父弥三郎規行は伊能忠敬の測量器具を作ったことでも知られる。幼名直次郎,通称弥三郎。安政2(1855)年松平慶永に招かれ機械や銃の製造と教育に当たったが,幕府の命により文久2(1862)年榎本武揚らと共に,測量機械類の製造習得の職方(技術担当)としてオランダに留学,慶応3(1867)年帰国した。新政府に出仕し造幣寮(のち造幣局)の技師となり,銅細工場で主として「天秤」などの製作とその指導に当たった。尺度,分銅,目盛器械,温度計,分度器などの近代度量衡の標準器械を製作また貨幣計数器,羅針盤,経緯機や大時計(1876年製作)を製作した。一方懐中時計の国産化を企図し息子則好を時計技術習得のためにスイスに3年間留学させ,明治13(1880)年時計工場を設立したが成功に至らなかった。19年工作所長を最後に退職した。大阪の造幣博物館には「大時計」と「地金用天秤」が展示されており桜宮神社(都島区中野町)には「大野規周君記念之碑」がある。亡くなるまで丁髷をしていたというが,わが国の度量衡の標準器械の製作など精密器械の近代化に果たした役割は大きい。<参考文献>日蘭学会編『幕末和蘭留学関係史料集成』正・続
(菊池俊彦)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報