オランダ(読み)おらんだ(その他表記)Kingdom of the Netherlands 英語

共同通信ニュース用語解説 「オランダ」の解説

オランダ

西欧の立憲君主国。国土の4分の1が干拓地で人口約1708万人(2018年推定)。首都は最大都市アムステルダムだが、政府と王宮はハーグにある。1581年にスペインからの分離を宣言し、1648年に独立が認められた。17世紀に東インド会社を中心に商工業国家として繁栄。19世紀にベルギーとルクセンブルクが分離した。鎖国時代の日本と交易し、両国関係は約400年に及ぶ。ユトレヒトはアムステルダム、ロッテルダム、ハーグに続く国内第4の都市。(共同)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「オランダ」の意味・わかりやすい解説

オランダ
おらんだ
Kingdom of the Netherlands 英語
Koninkrijk der Nederlanden オランダ語

北西ヨーロッパにある立憲君主国。正称はオランダ王国。オランダ語での正式名称はネーデルラント王国Koninkrijk der Nederlandenで、ネーデルラントとは「低地の国」を意味し、一般的には英語ではネザーランズThe Netherlands、ドイツ語ではニーダーランデDie Niederlandeと称される。外国ではしばしばホラントHollandともよばれるが、これは、オランダ独立の中心となり、現在もオランダの心臓部を形成しているホラント地方に由来しており、日本語のオランダ(和蘭陀)はこの語がなまったものである。国土は北緯50度45分から53度32分、東経3度20分から7度12分にわたり、北と西は北海、東はドイツ、南はベルギーに接する。総面積は内陸水域を含めて4万1543平方キロメートル(陸地面積のみでは3万3873平方キロメートル)、人口1634万6000(2006推計)。人口密度は1平方キロメートル当り393人となり、日本(338人)より高く、ヨーロッパではモナコなどの小国を除いてもっとも人口稠密(ちゅうみつ)な国である。首都は憲法上アムステルダムとなっているが、政府はハーグにある。地方は12の州に分けられ、海外領土(自治領)としては、キュラソー(クラサオ)島、アルーバ島、ボネール島、セント・ユスタティウス島、サバ島、サン・マルタン島(南部)などがある。

 北海沿岸低地に位置し、国土の約27%が海面下にあるため、「世界は神によってつくられたが、オランダはオランダ人によってつくられた」と自負するごとく、オランダ人は絶えず水と戦い、築堤・干拓を行ってきた。また古くから商業活動が活発で、17世紀の黄金時代には世界貿易の中心地として繁栄した。現在でもEU(ヨーロッパ連合)の門戸ロッテルダム港を中心に、仲継貿易が盛んである。国際的には、ベルギー、ルクセンブルクとともにベネルックスを構成し、3国の一体感は強い。また西欧の一員として経済協力開発機構(OECD)、北大西洋条約機構(NATO(ナトー))などに加盟し、とくにEU内での調整的役割は重要である。生活水準は高いが、自然との戦いやカルビニズム(宗教改革者カルバンの神学から発展したプロテスタントの思想)を反映して、国民性は質素で実利的である。

 国旗は、上から赤、白、青の順に横縞(しま)をなす三色旗であり、独立戦争時のオラニエ公の軍旗に由来する。また国歌は「ヘット・ウィルヘルムス」Het Wilhelmusまたは「ウィルヘルムス・ファン・ナッソウエ」Wilhelmus van Nassouweとよばれ、1570年ごろオラニエ公ウィレムの信奉者によって作詞された。

[長谷川孝治]

自然

地質・地形

国土の大部分は第四紀堆積(たいせき)物に覆われ、東部と南部に台地、西部に低地が広がる。また北海沿岸には砂丘が連続して天然の防波堤をなしている。全般に低平であり、最高点は南東端のドイツおよびベルギーとの国境地点で、わずか321メートルにすぎず、逆に最低点はロッテルダム北郊のポルダー(干拓地)で、海面下6.7メートルにも達する。

 オランダを地形区分すると、次の5地域となる。(1)南東端のレス台地―リンブルフ州南部では石灰岩丘陵の上を肥沃(ひよく)なレス(黄土)が覆い、地下には石炭を埋蔵する。(2)南部の洪積台地―ライン川などが更新世(洪積世)に形成した扇状地ないし三角州がその後隆起してできた高度50メートル前後の台地で、表層は砂質である。(3)東部の氷堆積丘陵―更新世のザーレ(リス)氷期にスカンジナビア氷床が現在のハールレムとナイメーヘンを結ぶ線にまで達し、ライン川の砂質堆積物を押し上げて形成した高度50~100メートルの丘陵で、とくに中部のベールウェ丘陵が典型である。氷河によるモレーン(堆石)を上にのせ、一部ではハイデや泥炭地となっている。(4)西部の沖積平野―後氷期の海進によって、北海がフローニンゲンからユトレヒト、ブレダを結ぶ線にまで湾入したが、ライン、マース、スケルデなどの諸河川の堆積作用によって粘土と泥炭からなる一大沖積平野となった地域。(5)海岸砂丘―北海沿岸では海進期に沿岸州が形成され、それが偏西風によって運ばれて海岸砂丘ができた。その後も新しい砂丘列が北海側にでき、砂丘間には泥炭地も生じた。砂丘の幅は最大5キロメートルに及び、その延長部は西フリジア諸島となっている。

 以上の地形区のうち、沖積平野の地域では海進や泥炭採掘が原因で土地が水面下に没したため、古くから干拓が行われてきた。すでに13世紀から堤防築造による小規模な干拓が始まっていたが、本格的なポルダー建設は16世紀後半からである。とくに17世紀前半には、オランダの経済的繁栄と築堤・風車排水技術の完成によって、アムステルダム北方の湖沼が集中的に干拓された。19世紀には蒸気ポンプの導入でハーレマー湖などの大規模干拓が可能となり、さらに20世紀に入ってからはゾイデル海計画によってウィーリンガー湖ポルダーをはじめとする四つの大ポルダーを建設している。

[長谷川孝治]

気候

オランダは北海道より高緯度に位置しているが、北大西洋海流と偏西風の影響により、温和な西岸海洋性気候となっている。ユトレヒト近郊のデ・ビルト中央気象台では、1月平均気温2.8℃、7月平均気温17.4℃であって、年較差は15℃程度にすぎない。また年降水量は798.9ミリメートル(統計期間1971~2000)で多雨ではないが、四季を通じて降水があり、とくに秋から冬にかけては3日に2日の割合で降水をみる。国土が狭く、また低平であるため、国内における気候の地域差がきわめて小さいことも特色の一つである。

[長谷川孝治]

生物相

かつてはオーク、カバなどの広葉樹が自然植生を構成していたが、現在それらはハイデおよびブナ、モミの人工林にとってかわられている。したがってわずかに残る自然植生は、アシ、スゲ、蘚苔(せんたい)類などの泥炭地植生である。このため動物相にもみるべきものはないが、ベールウェ丘陵の自然公園内には野生のクマ、タヌキなどが生息している。

[長谷川孝治]

地誌


 オランダを地誌的に区分するならば、都市化の進んだ西部と、農村的なそれ以外の地域に大別できる。西部のノールト・ホラント、ザウト・ホラント、ユトレヒトの3州は、面積では全土のわずか20%にすぎないが、総人口の44%が集中し、とくにユトレヒト、アムステルダム、ハールレム、ライデン、ハーグ、ロッテルダムを結ぶ大都市地帯はホラント連接都市圏(ラントスタット・ホラント)とよばれる人口稠密(ちゅうみつ)地域である。しかし西部には海面下の沖積平野が広く横たわるため、ポルダーでの畑作や泥炭地での酪農のほか、海岸砂丘では花卉(かき)栽培、連接都市圏に囲まれた「緑の心臓部」では温室園芸も盛んである。またアムステルダム‐アイモイデン地区には造船、化学、食品、鉄鋼、ダイヤモンド研磨などの工業が、ロッテルダム‐ユーロポート地区には石油化学をはじめ食品、機械工業がそれぞれ立地し、オランダ最大の工業地帯を形成している。

 これに対し、農村的な残余の地域はさらに次の4地方に区分される。(1)ゼーラント州を中心とする南西部は、ライン川などが形成するデルタ地帯であり、粘土質土壌を利用した畑作が卓越するが、デルタ・プラン(海水の侵入を防ぐために河口に可動堰をつくる土木工事計画)による総合開発が進められた。(2)ノールト・ブラバント、リンブルフ両州からなる南部は、台地での混合農業と炭鉱に特色があったが、第二次世界大戦後はアイントホーフェンの電気機械を中心に工業化が進展している。カトリックおよびフラマン語が主流をなし、文化的にはベルギーとの親近性が強い。(3)東部のオーフェルアイセル、ヘルデルラント、フレボラントの3州は、氷河性丘陵での酪農、混合農業を中心とする田園地帯であり、エンスヘデを含むタウンテ地方で繊維工業が発達しているにすぎない。(4)フローニンゲン、フリースラント、ドレンテの北部3州は、かつては漁業と酪農を主産業としていたが、1960年の天然ガス発見以後、アルミ、化学などの工業が誘致された。一部ではフリジア語が使用される。

[長谷川孝治]

歴史


 オランダは中世までネーデルラント(低地)地方の一部とみなされており、したがって独自の歴史を有するのは15世紀以降といえる。ローマ帝国の衰退後、オランダはカロリング帝国、東フランク王国、神聖ローマ帝国の各領域に順次組み入れられたが、実質的にはヘルデルラント、ブラバント公国、ホラント、フランドル伯領、ユトレヒト司教領などに分割統治されており、なかでもホラント伯が最強であった。こうした地方分立を克服し、民族国家としてのオランダが形成され始めたのは、14世紀末からのブルゴーニュ家の時代になってからであった。とくにフィリップ善良公は全国議会の招集や州総督の任命などの集権化を推進したが、その後はハプスブルク家の統治下に入り、絶対主義的な支配が行われた。フェリペ2世による重税と新教徒迫害に対して、オラニエ公ウィレムを指導者とする反乱が起こったのは1568年であり、これより八十年戦争とよばれる独立運動が展開された。1579年には北部7州によるユトレヒト同盟の結成、1581年にフェリペ廃位宣言、1609年には休戦条約の締結などを経て、1648年のウェストファリア条約によって、ネーデルラント連邦共和国の独立が正式に承認された。

 17世紀前半のオランダは、東インド会社による海外発展、干拓事業の推進、芸術・学問の開花によって黄金時代を創出し、首都アムステルダムは世界の貿易・金融の中心となった。その後イギリス・オランダ戦争での敗北、フランス軍の侵入によって共和国は弱体化し、ナポレオン時代にはフランスに占領された。ウィーン会議の結果、1815年ネーデルラント連合王国が成立したが、1830年にベルギーが分離独立し、現在の国土となった。第一次世界大戦では中立を維持したが、第二次世界大戦ではドイツに占領された。戦後はインドネシアをはじめとする植民地時代の海外領土がほとんど独立し、NATO(ナトー)、EUを軸とする西欧中心の政策を推進している。

[長谷川孝治]

政治・外交


 1814年に制定されたオランダ王国憲法は、その後の議会制民主主義の発展に伴って数々の改正を経て今日に至っている。普通選挙、責任内閣制、信教・教育・言論・集会の自由など国民の権利を保障する立憲君主制が確立されている。

[リヒテルズ直子]

国王

国王は憲法によって元首と定められ、憲法には王位継承権ならびに権限が規定されている。オラニエ・ナッサウ家の王子ウィレム1世の法的後継者を国王とし、現元首はウィレム・アレクサンダーWillem-Alexander(1967― 、在位2013~ )。王位継承権に性別による優先順位はない。

 憲法には国王は不可侵で、政府は国王および閣僚によって形成されると規定されているが、1848年以来政府行為の責任は閣僚が負い、国王は負わない。

[リヒテルズ直子]

国家行政と地方行政

国家行政をとり行う内閣は次の過程を経て成立する。(1)国会第二院選挙後、国会両院(第一院、第二院)の議長ならびに各政党党首の助言に基づいて、国王が「情報提供者informateur」を指名。情報提供者は、通常最大票数を獲得した政党のベテラン政治家、票数が分散している場合には与党となる可能性のある複数政党から複数の政治家が就任する。情報提供者は連立の可能性について各政党から情報を収集し、政党間の連立交渉の仲介に当る。(2)連立交渉により次期政権に参加する与党政党が明らかになると、国王は「組閣者」を指名(組閣者は通常次期内閣総理大臣となる)。(3)組閣者は連立する与党政党間の交渉を通じて新内閣を組閣する。内閣を構成する大臣(閣僚)とそれを補佐するために必要に応じて設置される副大臣は国王が任命、閣僚会議の議長が内閣総理大臣(首相)である。

 オランダ本土の行政区域はフローニンゲン、フリースラント、ドレンテ、オーフェルアイセル、ヘルデルラント、ユトレヒト、ノールト(北)・ホラント、ザウト(南)・ホラント、ゼーラント、ノールト・ブラバント、リンブルフ、フレボラントの12州に分かれ、各州には立法機関である州議会、行政機関である州参事会がある。州知事は国王が任命する。州議会の構成と権限は憲法と州管理法が規定する。市町村にあたる地方自治体には立法機関である地方自治体議会、行政機関である地方自治体参事会がある。国王が任命する市長が両会の議長を務める。

 国土の約4分の1が海抜0メートル以下のポルダーとよばれる干拓地からなるオランダには、一般行政とは独立して国土の水位管理を目的とする治水行政委員会制度がある。この制度は中世から存在し、ダム、堤防、水門の建設と維持、水位管理と排水・給水管理、水質管理などを行うオランダでもっとも古い民主制度である。

[リヒテルズ直子]

議会と選挙制度・政党

国会は二院制で第一院(75議席。日本の参議院に相当)と第二院(150議席。日本の衆議院に相当)からなる。第一院の議員は州議会議員による間接選挙で選ばれ、任期は4年。第二院の議員は全国区での完全な比例代表制による直接選挙で選ばれる。任期は4年だが議会解散により短縮され得る。地方議会(州議会および地方自治体議会)議員選挙も完全比例代表制による。各政党の候補者は党首以下順位を付けた候補者名簿に公示され、選挙人は政党名または候補者名のいずれかを選んで投票する(非拘束名簿式比例代表制)。

 国政選挙およびヨーロッパ連合(EU)議会選挙の選挙権、被選挙権はともに18歳以上のオランダ国籍をもつ者が有する。地方議会選挙の選挙権、被選挙権はこのほかに18歳以上のEU加盟国の国籍をもつ居住者およびEU加盟国の国籍をもたない居住者のうち選挙公示日までに最低5年間合法的に継続してオランダ国内に居住する18歳以上のすべての者が有する。

 選挙が完全比例代表制なので支持者が比較的少なく全国的に分散している小政党でも議席獲得の機会が大きい。とくに1970年代には市民運動に由来する多くの小政党が議席を獲得した。世界に前例のない斬新な法規や政策が実現した背景であるともいえる。その具体例として麻薬(ソフトドラッグ)や性産業に対する容認策、堕胎法、安楽死合法化、同性婚合法化などがあげられる。

 オランダの政党政治は4年ごとの議会選挙が始まった1888年以後発展してきた。当時から現在に至るまで議会の過半数を占める政党はなく、つねに複数政党の連立によって政権が樹立されてきた。政治のほぼ中心的立場を維持してきたのは政教分離を旨としたフランス革命に反対の立場をとり、オランダ建国の歴史をよりどころとして結成されたプロテスタントやカトリックのキリスト教保守主義に基づく政党で、これらの政党が時代ごとに自由主義勢力あるいは社会主義勢力と連立して、政策上のイデオロギーを左右に微妙に調整しながらオランダの政治を主導してきた。たとえば1929年の世界大恐慌から第二次世界大戦期にかけて自由主義派の自由民主国民党(VVD)と連立して不況対策をとり、終戦直後から1950年代にかけては社会主義派の労働党(PvdA)と連立して戦災からの復興に取り組み、天然ガスの発見と高度経済成長に助けられた1960年代にはふたたびVVDと連立して社会福祉の拡充を実現した。しかし1960年代後半から1980年代の初めにかけて世代間断絶と若者の反米意識、脱物質主義的価値意識が高揚し市民運動を基盤とするさまざまな小政党(大半が左翼進歩的)が新たに結成された。とくに1973年に労働党を中心に樹立された政権はオランダ政治史上最も進歩的であると同時に最も大所帯の連立政権でもあった。同じ時期にオランダ社会では著しい教会離れが進み、それまでオランダ政党政治の主流であったキリスト教諸政党の支持が減少した。その結果1980年にはそれまで長い伝統を誇っていたカトリック政党とプロテスタントの2政党がキリスト教民主連盟(CDA)として統合を余儀なくされたが、その後1982年から1994年までの12年間3期にわたって政権内の最大政党の位置を占めた。1980年代前半は戦後もっとも失業率が高かった時期にあたり、CDAは第1期、第2期にはVVDと連立して緊縮財政に取り組み不況脱出を実現、第3期には社会主義派のPvdAと連立した。1994年から2002年の時期にはそれまでキリスト教中道保守の伝統に基づいて左右両派と連立して政権の一部を担ってきたキリスト教政党のCDAが支持率後退によって政権から離脱、これにかわり非宗派的政党であるPvdA(社会主義=赤)、VVD(自由主義=青)、中道派知識人政党である民主66党(D66)の三者が連立して「紫政権」を樹立した珍しい時期である。経済好調に支えられ比較的安定した政治が続いたが、新世紀への転換期(1990年代末~2000年)ごろから新たな不況を迎え、加えて高齢化社会の進行と移民流入の圧力が経済と社会を圧迫し、移民(とくにイスラム系移民に対する)排斥的な世論が増大するなかで2002年CDAがふたたび政権に復活。VVDや移民排斥を訴える新右翼勢力などと連立して中道右派政権が樹立された。以来、CDAは4期にわたり交互に左右両派と連立して首相のバルケンエンデJan Peter Balkenende(1956― )のもとに第1党として政治を主導してきた。しかし、2010年6月9日の第二院選挙では、CDAは前回の41議席から21議席へと議席数をほぼ半減させて大敗。これに対し、右派では自由民主国民党(VVD)が22議席から32議席と躍進して第1党になり、同年10月、VVDのルッテMark Rutte(1967― )が首相に就任した。イスラム教徒を排斥する極右政党自由党(PVV)も前回9議席から倍以上の24議席を獲得して大勝利を収めた。一方、左翼革新勢力は労働党(PvdA)が前回の33議席より2議席少ない31議席だったものの、前回7議席だったグリーン左派党(GL)と前回3議席だった民主66党(D66)が、それぞれ10議席を獲得して健闘。全体として中道CDAの大幅な後退に比べて、保守自由主義勢力と革新社会主義勢力の両極に有権者の支持が分かれる傾向が顕著となった。

[リヒテルズ直子]

司法・裁判所

裁判所は地方裁判所、高等裁判所、最高裁判所の3段階に分かれている。2002年までは地方裁判所の下に区域裁判所が設けられていたが同年地方裁判所に併合された。ただしそれまで区域裁判所の裁判を担当していた区域裁判官はその後も継続している。

 地方裁判所では刑事の軽犯罪および小規模民事事件を区域裁判官が担当し、それ以外の民事事件と刑事の重犯罪を地方裁判官が担当する。いずれの場合も上告は高等裁判所に対して行われる。高等裁判所の判決に不服である場合には最高裁判所に対して判決棄却を上告できる。最高裁判所は下位の裁判所の審理手続きの正当性を検証する役割をもち、判決の有効性を棄却し再審を請求できるが自ら審理は行わない。

 このほか司法権に属する裁判機関として、おもに公務員問題、税金問題、社会保障問題など政府を相手取った争議を取り扱う中央控訴裁判所、おもに私企業における労働争議を取り扱う企業争議審理団がある。

 すべての司法執行機関を統括・監督し、国民の司法参加を保障する(住民に対して司法権を代弁し、法務大臣に対して司法権を代表して交渉にあたる)機関として司法評議会がある。陪審制度や裁判員制度はない。

[リヒテルズ直子]

外交・防衛

中世以来、海上交通によってヨーロッパ地域内の重要な物資集散地であり、海運通商国として栄えたオランダは、伝統的に自由貿易に基づく多方向外交を展開してきた。それは、第二次世界大戦の初頭1940年にドイツ軍に侵攻されるまで中立国としての立場を保ったことにもあらわれている。

 第二次世界大戦後は国際連合をはじめとする国際協力組織が設立されるに伴い、西側諸国としてNATOに加わった。また、国際連合やEUの前身となったヨーロッパ石炭鉄鋼共同体、OECDなどの創立メンバーとしても積極的に外交政策に取り組んできた。

 1970年代以降、開発途上国に対する援助協力にも積極的に寄与してきた。政府開発援助(ODA)などの開発協力資金拠出は国民総所得に占める割合の0.8%以上に達し、国連の目標値0.7%を上回っている数少ない国の一つである。

 オランダには国際機関の本部が多く、政府所在地であるハーグとその周辺には80以上の国際機関(非政府組織も含む)が集まっている。代表的なものとして国際司法裁判所、常設仲裁裁判所、旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷、国際刑事裁判所、ヨーロッパ警察、化学兵器禁止機関などがある。

 第二次世界大戦までは中立国だったが、戦後はNATOの創立メンバーとして西側自由主義諸国の安全保障同盟国となった。2008年の防衛費予算は約82億ユーロで国内総生産(GDP)の1.66%に相当する。憲法には徴兵制が規定されているが、冷戦体制崩壊以後1997年から徴兵は事実上行われておらず、すべての兵力は志願による雇用職員である。兵力は陸軍、海軍、空軍、軍事警察を合わせ約4万5000人(2009)。

 平和維持および安全保障のための海外軍事協力事業としてアフガニスタン国際安全保障援助軍(ISAF)、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争鎮圧ヨーロッパ連合部隊(EUFOR)、ソマリア・アタランタ欧州連合海軍(海上安全保障・海賊防止)、NATOイラク軍訓練軍(NTM-I)、ブルンジ安全保障・安定化部隊(SSR)、スーダン国連平和維持軍(UNMIS)などに兵力を派遣している。

[リヒテルズ直子]

経済・産業


 オランダは国土が小さいにもかかわらず、国際通貨基金(IMF)の2008年のデータでGDPが世界第16位(8769億7000万ドル)、国民1人当りGDP(購買力平価ベース)は4万0431.27ドルで世界第9位の位置にある。経済は自由市場経済を特徴とし、ヨーロッパ地域の運輸業者として外国市場に対して多方向に開かれたオープン・エコノミー(開放経済)の性格をもつ。ヨーロッパ最大のロッテルダム港とヨーロッパ第4位のスキポール空港が「ヨーロッパの門戸」の役割を担い、それぞれ周辺には運輸や電気通信のインフラが充実、多国籍企業の数も多い。

 2008年の総輸入額は3359億1200万ユーロ、総輸出額は3704億8000万ユーロ。輸入はEU圏内から55.1%、EU圏外から44.9%とほぼ均衡しているが、輸出はEU圏内向けが76.3%にのぼる。貿易相手国の筆頭はドイツで、ベルギー、イギリス、フランス、イタリアなどが続く。おもな輸入品目は機械・運輸設備、化学製品、鉱物・燃料資源で、輸出品目の代表的なものとして花や観葉植物、球根がある。なかでも球根は年間40億個を輸出しており、そのうち6割がドイツ、イギリス、フランス、日本向けである。通貨は2002年よりユーロに切り替わった。

 オランダ西部の4大都市、アムステルダム、ハーグ、ロッテルダム、ユトレヒトは総称してラントスタットとよばれ、GDPの比率からみてヨーロッパ域内ではパリ、ロンドン、ミラノに次ぐ大きな経済都市地域にあたり、金融・商業サービスの環境が充実している。

 ヨーロッパの中心という恵まれた立地と安定した雇用市場、労働者の教育程度が高く多言語が使えるという環境は海外投資家にとって魅力であり、企業のみならず外国人労働者にも積極的に雇用機会を提供してきた。反面、外国との通商や投資に強く依存したオープン・エコノミーは世界経済の景気変動の影響を受けやすく、とりわけ1970年代の2度にわたるオイル・ショック、2001年の9.11アメリカ同時多発テロ事件前後からの世界的な不景気、2008年秋の世界同時金融危機などはオランダ経済に甚大な影響をもたらした。

[リヒテルズ直子]

経済動向

オランダは中世にはヨーロッパ域内の物資集散地として、17世紀以後は世界を股にかける海洋貿易国として、18世紀後半から19世紀にかけてはアジアや南米地域などでの帝国主義的支配を通して経済発展をしてきた。第二次世界大戦後、それまでの繁栄を支えてきたインドネシアなどの植民地を失うことで経済状況が悪化するであろうという予想があったにもかかわらず、順調に戦災復興を果たした。その主な理由として、借款から贈与に切り替わったアメリカ合衆国のマーシャルプランの対象となっていたこと、インドネシアが1949年の独立以後も1957年までオランダとの経済的なつながりを維持したことがあげられる。1950年代には積極的な工業化策により農業国から脱皮して近代的な工業国となった。またベルギー、ルクセンブルグとともにベネルックス三国として経済共同体をつくり、ヨーロッパ石炭鉄鋼共同体、ヨーロッパ経済共同体の創立メンバーとして周辺諸国との経済の自由市場化に積極的に取り組んできた。

 1960年から1973年の第1次オイル・ショックまでは経済成長率平均6%、失業率平均2%を維持し、主として建設部門での労働力不足を補うためイタリア、スペイン、トルコ、モロッコなどから多数の移民労働者(出稼ぎ労働者)を迎え入れた。

 しかし1973年、1979年の2回にわたるオイル・ショックによって経済は悪化し、加えて1960~1970年代に整備された北欧並みといわれる充実した社会福祉制度が負担となり、オランダ病とよばれる経済低迷期を迎えた。国庫予算の赤字は増え、住宅価格が暴落し、失業率は1973年の3%から1984年の最悪時には12%にまで悪化した。こうした状況を打開するため1982年から1994年まで3期にわたって、中道保守派のキリスト教民主連盟(CDA)を中心にしたルベルス政権は失業手当の引き締め(削減)で就業を刺激し、公務員給与や政府補助金の大幅な削減、福祉の抑制、民間投資への刺激策などにより経済回復に取り組んだ。とくに1982年、政府・労働者・企業家(政労使)の3者によって実現された「ワッセナー合意Wassenaar Agreement」は、労働者側が賃金引き上げ要求を抑制し、そのかわりに企業家側がパートタイム就業を正規雇用として認めて国外市場での競争力の維持・強化をはかるとともに雇用機会の拡大を実現した。この経済回復策は徐々に効果をあらわし、世界的好況にも支えられて、1989年にはそれまでの10年間でもっとも高い経済成長率を達成した。

 1990年代はヨーロッパの主要国が軒並みマイナス成長や高い失業率に悩むなかで、オランダは好調な対ドイツ輸出、減税による国内消費の増大、設備投資の増大などで周辺諸国に比べて良好な経済状態を維持し、1990年代後半は政府見通しを上回る景気回復を遂げた。

 2001年ごろからの世界的な経済不況の影響で2002年の経済成長率は0.1%にまで落ち込むが、その後は再び回復、2007年の経済成長率は3.6%を達成した。失業率は1994年~1996年の平均6.47%から、2005年~2007年の平均3.9%へと向上。2008年第3四半期の失業率は3.82%とEU加盟国中でもっとも低かった。

[リヒテルズ直子]

世界金融危機に対する対策

2008年の世界金融危機はオランダ経済にも大きな打撃を与え、2008年末にはマイナス成長に入り2009年の経済成長率はマイナス4%となった。しかし同年12月、オランダ経済政策分析局(CPB)は2010年の経済成長率を1.5%と上方修正した。2009年第3四半期の失業率は3.6%(OECD定義)とEU加盟国平均の7.9%を大きく下回り、先進諸国中もっとも低かった。

 失業抑制策として効を奏したのは、景気後退によって経営が一時的に悪化している企業に対し、社員の就業時間を期限付きで短縮することを認めた「パートタイム失業制度」である。この臨時制度は就業削減(部分失業)時間分に対して通常の失業手当と同様、給与減額分の7割を失業手当として国庫負担するというものである。原則として、雇用制度において既にパートタイムの正規就業化が実現していたことが、この制度の実施を可能にした。

 このほか、世界金融危機に対する対策として銀行・証券会社等の金融機関に200億ユーロの活性化資金を投入、主要銀行の一つであるABN=AMRO銀行を国有化し、中小企業への資金援助制度を導入した。さらに経済刺激策としてエコ住宅とエコカーへの買い替え奨励、道路・水路・公共施設などの公共インフラの建設・改修事業の強化が予定されている。また若年失業者への援助、再就職のための再研修事業にも国庫資金が投入されている。

 しかしながら、2010年初頭より顕在化してきたギリシアをはじめとする南欧諸国の経済不況のあおりを受け、オランダ経済は再び危機に直面することになった。失業率は依然として世界最低を維持しているものの、国債や財政赤字が急速に増大する傾向にある。2010年6月9日の第二院選挙に先立って、CPBは2015年までに当年度予算のおよそ20%に相当する290億ユーロの財政節減を目標として提示。選挙戦は節減方法をめぐって戦われた。その結果、いずれの政党が政権を担うことになっても、おもな政策として国民年金受給開始年齢の引き上げ、失業手当支給期間の短縮化などの社会保障削減策が行われるものと予想されている。

[リヒテルズ直子]

雇用と労使関係

オランダの労働者給与は先進諸国のなかでも相対的に高い。被雇用者10人以上の規模をもつ第二次、第三次産業部門の企業に勤める労働者(フルタイム)1人当りの平均年間給与は3万8700ユーロ(2005)で、EU加盟国27か国中第6位にある。また、2008年における最低賃金は月当り1335ユーロに設定されており、EU域内ではルクセンブルグ、アイルランドなどについで高い。また、オランダにおける労働者1人当りの生産効率はEU加盟国中第6位に位置する。

 失業手当は最長38か月まで認められており、失業後2か月間は最終給与の75%、以後は70%が支給される。失業手当受給期間を越えて失業し、かつ最低限度の財産をもっていない者に支給される生活保護の額は2009年時点で月額615.16ユーロである。ただし失業状態が半年経過すると、給与が失業前のレベルを下回る職業でも受け入れなければならない。

 労働者の所得保障や労働条件が極めて高く保障されている背景には、前述のワッセナー合意を成し遂げたような政労使(政府・労働者・企業家)の合議的・協働的な意思決定モデルとしてのポルダーモデルがある。合議や協働のための協議は具体的には公的機関である社会経済評議会、民間団体の労働財団、市町村が関与する労働・所得評議会などで行われる。いずれも企業家団体と労働組合とが雇用制度および社会保障について対等の立場で話し合うための機関で、政治家は原則として両者の話し合いに立ち会い、労使間の協議の結果を制度化する役割を担う。

 労働組合は一般に個別企業の枠を超えて業種別に組織されており、個々の業種別組合ごとに労働時間、給与体系、職務評定規則、休暇・残業・労働条件・年金・解雇等についての規則が明記された団体労働協約が決められている。この協約は労働組合への参加の有無にかかわらず、その業界すべての労働者に適用される。

[リヒテルズ直子]

主要産業部門概況

2008年のGDPに占めるオランダの産業部門別比率は第一次産業約2.4%、第二次産業約25.6%、第三次産業約69.6%である(このほか、おもに天然ガスからなる地下資源収入が2.4%を占める)。同年の就労職数の産業別構成比は第一次産業約3.0%、第二次産業約10.3%、第三次産業約87%であった。また、輸出額の産業別構成比は機械・輸送設備29%、化学製品17.8%、燃料類15.3%、食品11.4%、鉱物・原料9%、その他となっている。

[リヒテルズ直子]

鉱工業・エネルギー

オランダには多国籍企業ロイヤル・ダッチ・シェルの本社があり、植民地時代から長く世界の油田開発、その他のエネルギー資源の開発に従事してきた。鉱業には天然ガス、石油、岩塩があるが、天然ガスを除きいずれも小規模である。1959年にフローニンゲン州で天然ガスが発見されて以来、オランダはEU域内の天然ガス生産量の約30%を占める第2の産出国となり、国庫の貴重な歳入源となっている。とくに2005年、2006年には天然ガスの価格が高騰し、生産量は増えていないがGDPに占める比率が上昇、全産業における天然ガスへの依存度が相対的に高まった。

[リヒテルズ直子]

農林・水産・畜産業

農林・水産・畜産業が産業全体に占める割合はGDPの約2.4%、就業人口は3%と小さいが輸出に占める食品の割合は11.4%と大きい。農業の生産性は高度な集約化・機械化によりEU域内でも高く、農民の生活は総じて豊かである。とくに花、観葉植物、球根が重要な輸出品目である。そのほか温室栽培の野菜類、果物などの園芸作物の栽培が盛んである。また北海に面した立地により漁業、とくにニシン、シタビラメ、カキ、ムール貝などの魚介類の養殖と輸出が盛んである。伝統的に酪農国として牛乳やチーズをはじめとする乳製品生産も有名で、牛(乳牛269万頭、肉牛20万頭)のほか養豚1200万頭、養鶏9670万羽(2008統計)などの畜産業も盛んである。

[リヒテルズ直子]

製造業

製造業部門では食品(飲料・嗜好品含む)加工業が就業人口比でもっとも大きな割合を占めている(14.6%)。主要な加工食品としてバター、マーガリンなどの食用油脂、ミルク、ヨーグルト、チーズなどの乳製品、食肉調整品、冷凍食品、コーヒーなどがあり、食品加工・日用品で有名な多国籍企業のユニリーバ、ビール製造のハイネケンの本拠地はオランダである。そのほか就業人口に占める割合が大きい分野として金属加工業10.8%、機械工業10.4%、出版・印刷業9.3%、電気・電子機器製造業9.0%、化学工業7.3%がある(2008)。電気・電子機器製造ではオランダに本社を置く多国籍企業のフィリップスの比重が大きい。

[リヒテルズ直子]

金融業

オランダの経済活動の重要な部分をなしているものに銀行、投資、保険などの金融業がある。とくに、アムステルダムには1602年に設立された世界で最も古いといわれる証券取引所、アムステルダム証券取引所があり、オランダの主要企業25社で構成される株価指数アムステルダム為替指数(AEX)がオランダ経済の動向を知る重要な役割を果たしてきた。アムステルダム証券取引所はユーロ通貨への移行とともに2000年からパリ、ブリュッセルの証券取引所と合併し、ユーロネクストとしてヨーロッパの重要な証券取引所を構成している(2002年にはリスボン証券取引所、ロンドンのディリバブル取引所もユーロネクストに加入。2007年ユーロネクストはニューヨーク証券取引所を運営するNYSEグループと合併しNYSEユーロネクストとなった)。

[リヒテルズ直子]

観光

2008年にオランダを訪れた外国人観光客数は約803万人で、うち78%がヨーロッパからであった。博物館・美術館、コンサートホールなどの文化施設が多く、コーヒーショップとよばれるソフトドラッグ販売店や合法的に認められた売春街区などがある首都アムステルダムは観光地として人気が高い。そのほかヨーロッパ最大港と多くの近代的新建造物をもつロッテルダム、政府や公的機関・国際機関が集まるハーグ、歴史的にも由緒のある大学町ユトレヒト、デルフト・ブルーの名で知られる陶器と画家フェルメールで名高いデルフト、オランダ最古の大学を擁するライデン、河口の三角州(デルタ)地帯を北海の高潮から守るためにつくられたゼーラントのデルタワーク、キンデルダイクの風車群、国土中央部の森林自然公園フェルウェ公園内にあるクロラー・ミュラー博物館などが観光地として名高い。

[リヒテルズ直子]

運輸

オランダはヨーロッパの陸海空交通の要衝にあるため、運輸部門が早くから発達していた。ヨーロッパの最大の港をもつロッテルダムとスキポール空港があるアムステルダムの2都市は欧州の二大流通拠点として倉庫業、貨物積み替え、輸送業などが発達している。また高速道路網や一般道路、鉄道網が充実している。

[リヒテルズ直子]

社会


 16世紀にスペインの圧政から解放と自治を目ざして独立戦争を起こしたオランダは、その建国の理念をローマ・カトリックの強権に対する宗教の自由においていた。このことは、宗教的・倫理的には思想の自由を、世俗的には市民参加による自治行政を熱心に擁護する国民性につながっている。同時にローマ・カトリックに対抗して独立運動の思想基盤をつくったプロテスタント(とくにカルバン派)の運動は、16世紀後半以降ヨーロッパ各地で迫害されていたプロテスタントの思想家や研究者を受け入れて彼らの研究や思想に場を提供してきた。それはやがてプロテスタント信仰を超えて啓蒙主義の発展を促し、オランダは近代思想の揺りかごの役割を果たすこととなった。こうした歴史的背景がカトリック、プロテスタント、自由主義者など宗教的・政治的な立場において過半数を占める多数派がなく、複数の少数者集団からなるマイノリティ社会の基礎を生んだ。とくに19世紀から20世紀にかけて、私立学校の自治権獲得を目ざして90年間にわたって続けられたプロテスタント系キリスト教徒を中心とした政治闘争「学校闘争」の過程ではさまざまな政党がつくられた。その結果オランダは縦割り社会あるいは柱状社会とよばれるマイノリティ集団ごとに縦に分かれた社会構成によって特徴づけられるようになった。この縦割り社会の系統はおもにローマ・カトリック信徒集団、プロテスタント各派の信徒集団、自由主義者および社会主義者の集団などに大きく分かれ、学校、病院、スポーツ・レクリエーション団体、労働組合、マスメディアなどすべてが各集団内で結束してつくられる傾向が強く、集団間では比較的交流の乏しい社会となった。

 第二次世界大戦後は閉鎖的なキリスト教保守主義に対する批判と経済成長や都市化の浸透により、若者を中心に教会離れが進み、縦割り社会の集団間の差異は徐々に希薄化してきている。また1960年代から1970年代にかけて労働力不足を補うために受け入れてきたヨーロッパ南部諸国やトルコ、モロッコなどからの多数の移民労働者が人口に占める比率が高くなり、伝統的な縦割り社会の構造に大きな変化が起きている。

 また1960年代から1970年代にかけては学生や知識人を中心に市民の政治参加が活発となり、性意識の変化や死生観についての議論、環境保護意識の高まりなどを通して機会均等意識が強まった。物質主義から脱物質主義への意識変容という文化シフトが起きた時代とも評される。社会政策面においては福祉制度の充実、教育・医療などの公共政策の抜本的な制度改革とそれへの国庫投資、開発途上国への援助が拡大している。幸福度についての国際比較調査では、成人・子供ともに先進国のなかでは上位にあり、自殺率も人口10万人当り8.3人(2007)と低い。

 1990年代までオランダはヨーロッパのなかでも移民受け入れに寛容で積極的な国といわれてきた。しかし2000年ころから高齢化社会の進展と高度福祉制度の限界などを背景に移民に対して排斥的な発言をする政治家への支持が増大し、異文化間の同化融合をめぐる議論がマスメディア上でも活発化してきている。

[リヒテルズ直子]

住民・言語・宗教

2009年の人口は約1650万人。年齢別構成は20歳未満23.9%、20~40歳未満25.7%、40~65歳未満35.5%、65~80歳未満11.2%、80歳以上3.8%で、平均年齢は39.9歳。人口増加率は0.49%(2007)である。また全人口に対して移民(本人または両親の少なくとも一方が外国で生まれて現在オランダに暮らしている住民)が占める割合は19.9%にのぼる。そのうち非西洋移民(元オランダ領インド=現インドネシアと日本を除くアジア、アフリカ、ラテンアメリカ出身者)が占める割合は55%に及び、なかでもトルコ、モロッコ、スリナム、キュラソー、サン・マルタン、アルーバの出身者が多数を占める。移民の居住地はアムステルダム、ハーグ、ロッテルダム、ユトレヒトの4大都市など人口密度の高い西部地域に集中する傾向がある。これらの大都市においては新生児出生数に占める移民の割合が高く、都市部の若年人口に占める移民の割合が急速に増加している。

 国語はオランダ語で、ベルギーのフラマン語共同体の公用語と同一。ただし、オランダ北西部のフリースラント地方の言語フリジア語は、言語学上オランダ語とは別の言語とされ、現地の学校ではフリジア語学習の権利が認められている。教育機関の教授用語は原則としてオランダ語であるが、トルコ語、モロッコのアラビア語など移民の母語については生徒の学習権利が法的に認められている。

 周囲を諸外国に囲まれた小さな通商国として、伝統的に外国語習得熱や外国語教育への関心が高い。現在でも中等教育は英語、フランス語、ドイツ語が必修科目ないしは選択科目として教えられている。

 伝統的にはキリスト教国であるが、移民の流入により多数の宗教が共存している。2005年の統計では人口の44%にあたる約710万人のキリスト教徒がおり、そのうち約440万人がカトリック教徒、それ以外は各宗派のプロテスタントである。イスラム教徒は人口の6%弱にあたる約95万人。そのほか31万人~43万人がヒンズー教、ユダヤ教、仏教などの信者で、特定の宗教をもたない人々が48.4%に及ぶ。

[リヒテルズ直子]

教育・科学技術

初等教育は満4歳から入学でき8年間、中等教育は進路によって4年制の職業訓練準備教育(VMBO)、5年制の高等職業専門教育準備教育(HAVO)、6年制の大学進学準備教育(VWO)の三つのコースに分かれる。ただし多くの中等教育校では、初めの2年間をブリッジクラスとして、隣接するコースの両方にまたがる教育を受けることができ、ここでの経過を見た後3種の進路コースのうちからいずれかに決まる。VMBOの卒業者は中等職業教育専門校(MBO)に進学するか、HAVOの4年目に編入する資格をもち、HAVOの卒業者は高等職業教育専門校(HBO)に進学するかVWOの5年目に編入する資格をもつ。VWOはラテン語、ギリシア語の習得を必須とするギムナジウムとそれを含まないアテネウムに分かれ、いずれの場合も卒業後は学士から修士までの一貫課程をもつ大学に進学できる。HBOの卒業資格は、対外的には学士と同等と認定されており、国内においても大学の修士課程への編入が認められている。

 大学をはじめ高等教育機関への進学の要件は、ディプロマといわれる上記の中等教育卒業資格の取得で、入学試験は行われない。ディプロマ取得の要件は50%が全国共通試験、50%が一定の共通の規則に基づいた中等教育機関内での積年の評価で、ディプロマ取得者はいつでも上級教育機関に入学できる。ただし、医・歯・獣医学など施設・人員・資金面ですべての入学希望者を受け入れられない学部や学科については、一定の公開された基準にしたがって論文審査・面接ないしはくじ引きで入学者を決める。中等教育を中途退学した者には全国に設置された地域教育センターが再教育によってディプロマを取るチャンスを提供している。

 オランダの教育機関は1917年に改正された憲法第23条に基づく「教育の自由」の原則によって高い自治が認められている。教育の自由は、学校設立の自由、教育理念の自由、教育方法の自由の3つからなり、協会・財団、宗教団体など民間の市民団体が一定数の生徒を集めることができれば学校を設立でき、独自の理念と方法によって学校教育活動ができる。国はそれらの学校に対して公的教育機関(公立校)の場合と同額の生徒1人当り教育費を支給する。また校舎等の施設および設備は公私立ともに市が支給しなければならない。教育方法の自由の原則により検定教科書制度や学級規模の規則はなく、学校運営を行政的に外から管理する教育委員会制度はない。その結果オランダでは民間団体が設立・運営している私立校の数が比較的多く、初等教育と中等教育で全体のほぼ7割を占めている。学区制はなく、生徒(保護者)は複数の特徴のある学校から選ぶ権利が認められている。

 義務教育は満5歳から16歳の誕生日を迎える学年の終了時までで、16歳~18歳は部分的な就学義務がある。中等教育終了までは無償である。中等教育終了以後の高等教育および職業訓練専門機関の授業料は学部や学科の別なく一律で、学生は本人が一定額以上の収入を得ていない限り、保護者の所得の多寡にかかわらず同額の奨学金(一定期間内に卒業資格を取れば返済免除)と公共交通機関の無料パスを受給でき、追加奨学金(低利返済義務つき)を申請できる。

 2005年のGDPに占める教育費支出の割合は5%でOECD加盟国平均の5.6%、EU加盟国平均の5.5%をやや下回り、先進国のなかでは教育支出が抑制的である。しかしオランダの生徒の学力はOECDの学習到達度調査(通称PISA)や国際数学・理科教育動向調査(通称TIMSS)などの国際比較調査では世界のトップクラスに属している。

 天然ガス以外に地下資源が少なくサービス産業に強く依存しているオランダでは、伝統的に人々の情報収集や科学振興を支える意識は高く、国は「知識経済」と称して高等教育機関や民間の企業や研究機関が行う革新的な科学技術研究を奨励している。また海運業で栄えた歴史や海水を堤防で囲って干拓地をつくってきた歴史、商業国としての伝統などを背景に船舶建造や水工土木技術、都市計画、経済学などの分野で世界的に高い評価を得ており、ノーベル賞受賞者も数多く輩出している。

[リヒテルズ直子]

福祉制度

オランダの社会保障制度は周辺のフランスやドイツなどに比べても優れており、スウェーデンなど北欧諸国と並ぶ高度な制度といわれてきた。社会保障制度は主として国民保険、就労保険、福祉給付金に分けられる。国民保険には一般老齢年金(2010年時点では65歳から支給、67歳に引き上げの予定)、一般特別疾病治療費保険、一般遺族保険、一般子供手当(16歳未満の子供すべてに支給)がある。いずれもオランダに居住するすべての住民が対象となる。就労保険には労使双方が支払う所得別保険料によって賄われる就労能力別所得保険、失業保険、疾病保険、妊娠・出産保険(有給休暇16週間)がある。福祉給付金には、生活保護支給、若年障害者就労不能所得保障がある。

 子育て・教育に関しては、上記の一般子供手当で5歳児以下194.99ユーロ、6歳~11歳236.77ユーロ、12歳~14歳278.55ユーロ(2009年時点・1四半期あたり)が支給されるほか、17歳までの子供をもつ低所得者世帯には育児支援を目的とした課税控除措置がある。さらに就業者の託児については、賃金水準にしたがい低賃金層に手厚い託児支援義務が雇用者に対して適用される。保護者の学歴が低い場合や母国語がオランダ語でない子供に対しては学校に追加手当が支給される仕組みがある。身体・知的・精神的障害児は特殊学校または普通校への就学のいずれかを選択でき、普通校就学の場合には障害の程度や種類に応じて必要な職員や施設の保障のために追加手当が国から支給される。

[リヒテルズ直子]

マスメディア

縦割り社会を反映して新聞や放送団体も、伝統的に宗派・非宗派のマイノリティ集団の系列でつくられており、現在でもこの系列はほぼ維持されている。主要な全国紙にデ・テレグラーフ、アルヘメーン・ダッハブラッド、デ・フォルクスクラント、NRCハンデルスブラッド、トラウなどがあり、最近では通勤時の公共交通機関などで配布されるタブロイド版の無料新聞にスピッツ、メトロ、ダッハなどがある。主要なオピニオン誌としてエルセフィール、HPデ・テイト、フレイ・ネーデルランド、デ・フルネ・アムステルダマーなどがある。

 放送は公共放送と企業のスポンサーによる民営放送とがある。オランダの公共放送は他国に例のない特徴的な運営で、ニュースや国家的な行事、スポーツなどは国営機関が制作・放映するが、それ以外の時間帯は会員制の民間NPO団体である放送協会が会員数の規模によって比例的に割り当てられる時間を利用して放送できる。資金は国庫補助金、会員が支払う会費、番組の間に放映される広告の収益金(STERとよばれる公営の広告管理団体によって管理される)からなる。

[リヒテルズ直子]

文化


 オランダが海洋貿易によって繁栄した17世紀(とくに前半)は「黄金の世紀」とよばれ、オランダ史上文化活動がもっとも華やかに開花した時期である。また、16世紀後半の宗教改革期にカルバン派のプロテスタント信仰を基盤にスペインの支配に抵抗して独立運動を起こしたオランダは以後エラスムス、スピノザ、グロティウスなどの優れた哲学者や思想家を輩出するとともに諸外国からプロテスタントの思想家や科学者を多く受け入れて活動の場を与えた。印刷技術の発達に伴い早い時期から活発な出版活動が行われ、住民の識字率が高かったことでも知られる。

[リヒテルズ直子]

芸術・文学

絵画の分野ではレンブラント、フェルメール、フランス・ハルス、ヴィンセント・ファン・ゴッホ(正しくはホッホ)、ピート・モンドリアン、M. C. エッシャーなどは国際的知名度が高い。

 芸術活動の発展と文化遺産の保存に対して国が積極的に支援している。その一例として全国に930か所にのぼる博物館・美術館がある。とくにアムステルダム(65か所)、ロッテルダム(32か所)、ハーグ(28か所)に集中している。なかでもアムステルダムにある国立博物館、ファン・ゴッホ美術館、アンネ・フランクの家、ロッテルダムのボイマンス・ファン・ブーニンゲン美術館、ハーグのマウリッツハイス美術館、アルンヘムのオープン・エア・ミュージアム、アペルドールンのヘット・ロー宮殿、オッテルローのクロラー・ミュラー美術館などが名高い。

 オランダ語文学はオランダ本国だけではなくベルギーのオランダ語圏、アンティル諸島、オランダ領インド時代のインドネシア、スリナム、南アフリカなどにみられるものを総称するが、オランダ語使用人口が少ないために世界的にはあまり知られていない。オランダ語によって表記された最古の文書は11世紀末にさかのぼる。中世にはフランス語や英語から翻訳された騎士文学、神への帰依を表す神秘主義文学、中世末からルネッサンス期にかけては修辞文学やヒューマニズム、宗教改革の影響を受けた文学、17世紀から19世紀半ばにかけてはフランス古典主義の影響を受けつつ啓蒙主義やロマン派文学、ナポレオン時代以降はナショナリズム文学が隆盛した。1860年にオランダ領インド支配を批判して書かれたムルタトゥリ(ムルタテューリ、本名エドワルド・ダウェス・デッケル)の『マックス・ハーヴェラー(ハーフェラール)』は、社会問題を内側から警告して書かれたリアリズム文学の代表作品で、当時多数の言語に翻訳された。その後共産主義の影響、世紀末文学、新古典主義や新ロマン主義の時代を経て、第二次世界大戦後は人々の教会離れと脱物質主義的な社会意識を反映して幅広いジャンルの多様な様式と題材の文学が隆盛した。外国語にもよく翻訳されている代表的な作家にハリー・ムリッシュ、ケース・ノーテボーム、ヘラ・ハーセなどがあげられる。

 演劇も文学同様に言語使用人口が少ないことによる障害があるがプロ、アマチュアの多くの劇団がある。オランダ独特の風刺寸劇であるカバレーは大衆芸能の典型である。舞台芸能としては伝統的にオペラやバレエ、最近ではミュージカルの人気が高い。音楽の歴史は古くアムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団、ロッテルダム・フィルハーモニック管弦楽団などが世界的に高い評価を受けている。

[リヒテルズ直子]

スポーツ

もっとも人気の高いスポーツはサッカーで、アマチュアおよびプロの多数のチームがある。そのほかホッケー(フィールドホッケー)、アイススケート(とくにスピードスケートや凍結した運河などで行われる長距離スケート)、水泳、自転車競技、馬術、バレーボール、ハンドボール、テニス、ゴルフなどの人気が高い。

[リヒテルズ直子]

ユネスコ世界遺産

オランダにあるユネスコ世界遺産指定の文化遺産(カッコ内は指定年)にはスホクラントとその周辺(1995)、アムステルダムのディフェンス・ライン(1996)、キンデルダイク・エルスハウトの風車群(1997)、港町ウィレムスタット歴史地域、キュラソー島(1997)、Ir.D.F.バウダヘマール(D.F.バウダ蒸気水揚げポンプ場。1998)、ドゥローフマーケライ・デ・ベームステル(ベームステル干拓地。1999)、リートフェルト設計のシュレーダー邸(2000)、アムステルダムのシンゲル運河内の17世紀の環状運河地区(2010)、ファン・ネレ工場(2014)、自然遺産としてワッデン海(2009、2014。オランダ、デンマーク、ドイツの3か国で登録)がある。

[リヒテルズ直子]

食文化

オランダの典型的な食事はジャガイモと野菜と肉から構成される。ほかに一般的な料理として肉の煮込み、スタムポットとよばれるジャガイモと野菜の煮つぶし、燻製ソーセージ、エルテン(グリーンピース)スープなどがある。軽食・スナックの典型例はパネンクック(パンケーキ)、ポッフェルチェ(タコ焼き大のパンケーキ)、ストロープワーフェル(シロップを挟んだワッフル)、塩漬け生ニシン、クロケット(コロッケのような揚げ物)など。大晦日にはオリーボールとよばれる球形のドーナツが欠かせない。

[リヒテルズ直子]

日本との関係


 オランダと日本の交渉は、1600年(慶長5)豊後(ぶんご)(大分県)にオランダ船リーフデ号が漂着したときに始まるが、正式に国交が開けたのは1609年、オランダが徳川家康の通交許可朱印状を得て、平戸(ひらど)に商館を設けた年である。初代商館長ヤックス・スペックスは、前後10年間平戸に勤務し、平戸藩主をはじめ江戸の大官の信任を得た。また第7代商館長フランソワ・カロンは通算20年日本に滞在し、日本のことば、風習に通じ、両国の友好に貢献した。このころまではオランダ人は、平戸藩主だけではなく、江戸の大官とも個人的に親交を結び、幕府の閣老はポルトガル人の動静、オランダ人の貿易品調達方法、日本までの航路などにつき直接質問し、オランダ人も幕府の鎖国体制形成に際して、重要な情報を入手できた。なかでも宗門奉行井上筑後守政重(ちくごのかみまさしげ)や長崎代官で大貿易商人でもあった末次平蔵(すえつぐへいぞう)との親密な関係は、鎖国体制に向かう重大な変革期にオランダが以後も日本と関係を保つため、決定的な意味をもった。

[永積洋子]

鎖国体制下の日蘭関係

1641年(寛永18)、鎖国体制の完成に伴い、オランダ商館が長崎出島に移転させられると、オランダ人の生活は一変した。商館長は毎年交代を命ぜられ、オランダ人と接触できるのは、オランダ語を通訳する通詞(つうじ)、出島の責任者である出島乙名(おとな)などきわめて限られた人々で、オランダ人は長崎の町を自由に歩くことも許されなかった。この単調な生活のなかで、オランダ人は日本に対する興味を失い、密貿易などで私腹を肥やすことにのみ精出す人も多くなった。

 幕府は、ポルトガルと国交を断絶した場合、オランダ人が中国産の生糸、絹織物、薬種などをポルトガル人と同様日本に十分供給できるかどうか調査していた。しかし鎖国体制の完成期にオランダの台湾貿易は最盛期を迎え、また中国船の海外渡航禁令が緩和され、さらに朝鮮、対馬(つしま)を経由して輸入される中国の産物も増加したので、中国商品の供給に不足はなかった。オランダ人によって江戸中期、8代将軍吉宗(よしむね)時代にはペルシアからウマが輸入されて、馬匹の品種改良に役だったし、時計、眼鏡、望遠鏡、各種銃器、ガラス器などヨーロッパの製品は、主として将軍、大名、大官などの注文により舶載された。

 オランダの書籍は、初期には医学書、動物、植物図譜など、見て楽しい本が輸入されたが、のちに蘭学(らんがく)が盛んになると、各種の辞典をはじめ、語学、医学、化学、天文学などの書物の輸入がしだいに増加し、蘭学の発展に寄与した。

 日蘭貿易の最大の問題は、オランダに日本から輸出する貿易品が、少量の樟脳(しょうのう)、漆器、陶器などのほかは、金、銀、銅に限られているということであった。金、純度の高い銀、銅の輸出禁止令が出されたこともあったが、いずれも短期間に終わった。そこで貿易の制限が試みられ、市法売買(1672~1685)による輸入品価格の引下げ、貿易額制限(1685以降)などが行われたが、消費物資を輸入し、貴金属が流出するという貿易の構造は、江戸時代を通じて変わらなかった。しかし、さまざまな貿易の制限の結果、生糸、木綿、砂糖などの生産が奨励され、輸入品にだけ頼ることは少なくなった。

 1641年(寛永18)以後、幕府はオランダに、ポルトガル人、スペイン人の動静につき報告するよう求めていたが、これはしだいに拡大して、広くヨーロッパ、アジア各地の情勢の報告となり、「風説書(ふうせつがき)」として、毎年オランダ船が入港した直後に提出された。風説書の内容は幕府の高官にしか伝えられなかったが、世界情勢の把握に役だった。幕末に国際関係が緊迫すると、風説書もしだいに外部に漏れ、幕府の対外政策に対する批判の根拠となった。

 商館の医師は、商館長の江戸参府に同行し、江戸の蘭学者と交流した。なかでもケンペル(ドイツ人)、ツンベルク(スウェーデン人)、シーボルト(ドイツ人)は優れた学者で、日本人に多大の影響を与え、また帰国後、日本紀行、日本誌、植物誌、動物誌を出版して、鎖国下の日本をヨーロッパに紹介した。

 1844年(弘化1)、オランダは軍艦パレンバン号で国王ウィレム2世Willem Ⅱ(在位1840~1849)の書簡を送り、長年の親交に感謝し、アヘン戦争を例にあげて、開国の必要を勧告したが、もちろん幕府はこれを謝絶した。ペリーの来航以後、国防のため近代的な海軍をもつ必要を痛感して、幕府はオランダに軍艦を注文し、また教師の派遣を依頼した。1855年(安政2)長崎に海軍伝習所が設立され、ペルス・ライケンG・C・C・Pels Rijcken(1810―1889)、カッテンディーケが教官として来日した。

 1858年(安政5)日蘭友好通商条約が調印され、商館長は弁務官となり、オランダ代表部を江戸に置き、長崎、箱館(はこだて)、神奈川、兵庫に領事を置くことが許された。しかし江戸の治安が安定しなかったため、代表部は1863年(文久3)にようやく移転した。1870年(明治3)に、外交の公用語としてそれまで用いられていたオランダ語が廃止されたことは、オランダ優位の時代の終末を象徴した。

[永積洋子 2018年9月19日]

明治以降

開国後しばらくの間、土木、港湾、医学などの部門でオランダとの間に技術交流が盛んに行われたが、その後両国関係はおもに通商を中心に順調に発展することとなり第二次世界大戦中の外交断絶期間を除き、つねに友好的関係が維持されている。

 現在の経済交流をみると、日本とオランダの貿易は規模としてはそれほど大きなものではないが、輸出入とも年々ほぼ増加している。オランダから日本へのおもな輸出品目は電気機器、石油、石油調製品、チューリップなどの球根、集積回路、写真・映像処理機器、医療機器、切り花、豚肉などで、輸出額は3277億円、日本からのおもな輸入品目は印刷機、乗用車、コンピュータおよびその部品、テレビカメラ、データ処理機器などで、輸入額は1兆2600億円となっている(2009)。また、オランダに進出している日本企業は396社、日本に進出しているオランダ企業は82社となっている(2009)。

 文化交流は伝統的な関係を背景に発展し、1980年(昭和55)4月には日蘭文化協定が締結されている。400年以上の歴史を誇るライデン大学には日本学センターがあり、日本語および日本文化の研究が行われている。日本においては財団法人「日蘭学会」があり、日蘭関係を中心に研究活動を行っている。また技術交流の好例として、八郎潟(はちろうがた)や児島(こじま)湾の干拓におけるオランダの干拓技術の導入があげられる。2005年3月には、ライデン市にシーボルトハウスが開館した。動植物の標本(絶滅したとされるニホンオオカミの剥製(はくせい)は有名)、浮世絵、陶磁器、諸道具など、シーボルトが日本で収集したさまざまな分野のコレクションが展示、紹介されている。

[明石美代子]

『木内信藏編『世界地理7 ヨーロッパⅡ』(1977・朝倉書店)』『米野正博訳『全訳世界の地理教科書シリーズ20 オランダ――その国土と人々』(1979・帝国書院)』『M.J.M.van Hezik他編『オランダ』日本語版(1984・オランダ外務省)』『山県洋著『オランダの近代建築』(1999・丸善)』『河野実著『日本の中のオランダを歩く』(2000・彩流社)』『クラース・ファン・ベルケル著、塚原東吾訳『オランダ科学史』(2000・朝倉書店)』『ヤン・ライケン著、小林頼子訳著、池田みゆき訳『西洋職人図集――17世紀オランダの日常生活』(2001・八坂書房)』『波勝一広著『ベネルクス夢幻――ベルギー・オランダ・ルクセンブルク紀行』(2002・三一書房)』『国重正昭他著『チューリップ・ブック――イスラームからオランダへ、人々を魅了した花の文化史』(2002・八坂書房)』『ツヴェタン・トドロフ著、塚本昌則訳『日常礼讃――フェルメールの時代のオランダ風俗画』(2002・白水社)』『根本孝著『オランダあっちこっち』(2003・実業之日本社)』『角橋佐智子・角橋徹也著『オランダにみるほんとうの豊かさ――熟年オランダ留学日記』(2003・せせらぎ出版)』『清水誠著『現代オランダ語入門』(2004・大学書林)』『田所辰之助・浜嵜良実・矢代真己編『世界の建築・街並みガイド(4) ドイツ・スイス・オランダ・ベルギー』(2004・エクスナレッジ)』『ジュウ・ドゥ・ポゥム著『オランダの子供部屋』(2004・アシェット婦人画報社)』『田辺雅文著、藤塚晴夫写真『オランダ――栄光の“17世紀”を行く』(2005・日経BP企画/日経BP出版センター)』『小林頼子著『フェルメールの世界――17世紀オランダ風俗画家の軌跡』(NHKブックス)』『E・フロマンタン著、高橋裕子訳『オランダ・ベルギー絵画紀行――昔日の巨匠たち』上下(岩波文庫)』『外務省欧亜局監修、在オランダ日本国大使館編『世界各国便覧叢書 オランダ王国』(1979・日本国際問題研究所)』『The Kingdom of The Netherlands;Facts and Figures(適宜発行。The Ministry of Foreign Affairs)』『外務省情報文化局監修『海外生活の手引15 西欧篇Ⅰ』(1979・世界の動き社)』『日本貿易振興会『ジェトロ市場シリーズ199 オランダ』(1980)』『下条美智彦著『ベネルクス三国の行政文化――オランダ・ベルギー・ルクセンブルク』(1998・早稲田大学出版部)』『長坂寿久著『オランダモデル――制度疲労なき成熟社会』(2000・日本経済新聞社)』『糀正勝著『オランダサッカー強さの秘密――トータル・フットボールの世界』(2000・三省堂)』『水島治郎著『戦後オランダの政治構造――ネオ・コーポラティズムと所得政策』(2001・東京大学出版会)』『蟹江憲史著『地球環境外交と国内政策――京都議定書をめぐるオランダの外交と政策』(2001・慶応義塾大学出版会)』『田口一夫著『ニシンが築いた国オランダ――海の技術史を読む』(2002・成山堂書店)』『オランダサッカー協会編著、田嶋幸三監修『オランダのサッカー選手育成プログラム――年齢別・ポジション別指導法と練習プログラム』(2003・大修館書店)』『リヒテルズ直子著『オランダの教育――多様性が一人ひとりの子供を育てる』(2004・平凡社)』『西川馨著『オランダ・ベルギーの図書館――独自の全国ネットワーク・システムを訪ねて』(2004・教育史料出版会)』『富永英樹著『EU進出企業のオランダ投資税制ハンドブック』(2004・中央経済社)』『P・G・H・カンプ、G・J・ティマーマン著、日本施設園芸協会監修『コンピュータによる温室環境の制御――オランダの環境制御法に学ぶ』(2004・誠文堂新光社)』『ミルヤ・ファン・ティールホフ著、玉木俊明・山本大丙訳『近世貿易の誕生――オランダの「母なる貿易」』(2005・知泉書館)』『リヒテルズ直子著『残業ゼロ授業料ゼロで豊かなオランダ』(2008・光文社)』『J・ド・フリース、A・ファン・デァ・ワウデ著、大西吉之、杉浦未樹訳『最初の近代経済 オランダ経済の成功・失敗と持続力1500-1815』(2009・名古屋大学出版会)』『玉木俊明著『近代ヨーロッパの誕生 オランダからイギリスへ』(2009・講談社)』『世界経済情報サービス(ワイス)編『ARCレポート――オランダ』各年版(紀伊国屋書店・J&Wインターナショナル)』『経済産業省編『通商白書』各年版(ぎょうせい)』『永積昭著『オランダ東インド会社』(講談社学術文庫)』『岩生成一著『日本の歴史14 鎖国』(1966・中央公論社)』『東京農大オランダ100の素顔編集委員会編『オランダ100の素顔――もうひとつのガイドブック』(2001・東京農業大学出版会)』『田中強著、全国海外子女教育・国際理解教育研究協議会監修『青きポルダーの輝き――オランダ・ロッテルダム日本人学校便り』(2003・創友社)』『西和夫著『長崎出島オランダ異国事情』(2004・角川書店)』『西和夫著『長崎出島ルネサンス 復原オランダ商館』(2004・戎光祥出版)』『東京大学史料編纂所編『オランダ商館長日記』(2005・東京大学出版会)』『横山伊徳編『オランダ商館長の見た日本――ティツィング往復書翰集』(2005・吉川弘文館)』『石田千尋著『日蘭貿易の構造と展開』(2009・吉川弘文館)』『ドナルド・キーン著、芳賀徹訳『日本人の西洋発見』(中公文庫)』『片桐一男著『江戸のオランダ人――カピタンの江戸参府』(中公新書)』『永積洋子著『平戸オランダ商館日記』(講談社学術文庫)』



おらんだ

大分県の郷土料理。ナスを輪切りにし、ごま油で炒(いた)め、だしで薄めたみそで調味してから、小麦粉の水溶きを加え、よくかき混ぜてどろりとさせる。サヤインゲン、ニガウリを加えることもある。夏に多くつくる。オランダとは江戸の鎖国時代でも長崎港を通じて国交があったことから、それにちなんで洋風の日本料理のなかには「おらんだ」の名をつけたものがある。ラード、ヘットまたは食用油を用いたものにその名が使われている。

[多田鉄之助]

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改訂新版 世界大百科事典 「オランダ」の意味・わかりやすい解説

オランダ

基本情報
正式名称=ネーデルラント王国Koninkrijk der Nederlanden/Kingdom of the Netherlands 
面積=3万7354km2 
人口(2010)=1662万人 
首都=アムステルダムAmsterdam(日本との時差=-8時間) 
主要言語=オランダ語 
通貨=グルデンGulden(英語でギルダーGuilder),1999年1月よりユーロEuro

ヨーロッパの北西部にある立憲君主国。日本の九州にほぼ等しい面積の小国で,人口密度は世界屈指の高さである。16世紀後半の建国以来ホラント州(現在の南・北ホラント両州)がこの国の政治,経済,文化の中心であったため,〈ホラントHolland〉とも呼ばれる。東は西ドイツ,南はベルギーと国境を接し,北と西は北海に面して長い海岸線を形づくる。国名のネーデルラントは〈低い国〉の意で,現在も国土の約4分の1は標高0m以下にある。憲法上の首都はアムステルダムであるが,国会,政府諸機関,諸外国公館はハーグに置かれている。現在11州よりなり,本国のほか,カリブ海上のアンティル諸島(クラサオ島,アルバ島など)を領有する。

 オランダは,ヨーロッパ諸国中最も早い時期(1600)から日本と交渉をもった国である。鎖国時代には唯一の交易相手国で,西欧の文物はもっぱら長崎,出島のオランダ商館を介して日本に輸入された。このため〈オランダ〉は外国の代名詞となり,〈オランダイチゴ〉〈オランダ海芋(かいう)〉〈オランダ鏡〉など,舶来品にその名を冠した例が多い。西欧諸科学もオランダ語を通じて紹介されたため,〈蘭学〉と呼ばれた。〈オランダ〉の呼び名は〈ホラント〉またはポルトガル語の〈オランダOlanda〉に由来し,古くは〈阿蘭陀〉〈和蘭陀〉〈和蘭〉と記された。

この国の地形の大部分は第四紀に形成されたが,東部の西ドイツ国境沿いに第三紀層がわずかにみられ,南東部に突出したリンブルフ州南部台地は白亜紀の岩石からなる標高90~300mの丘陵地(最高点は321mのファールセルベルフVaalserberg)を形成し,地表近くに石炭紀の地層をもつ。国土の骨格を形づくる地形は,オランダを東から西,北へ貫流するライン川,マース(ムーズ)川の新旧の堆積地形であり,その広い中央部はライン川の三角州で河成粘土からなる。ライン川はオランダに流入するとワールWaal川とネーデルライン川に分かれ,後者はアルンヘムの東方でエイセルIJssel川を分流し,さらに下流はレックLek川と呼ばれる。エイセル川は北流してアイセル(エイセル)湖に注ぐ。沿岸地域のうち,南西部のベルギー国境から北東に延びる海岸地帯にはスヘルデ川の東・西両河口とライン川,マース川の河口が北海に向かって広く開かれ,多くの島が点在する。デルタ工事はこれらの島を堤防でつないで海岸線を短縮した。ハーグ南西のフック・ファン・ホラントからわずかに湾曲して北上する沿岸部には新旧の砂丘があって北海に対し天然の堤防となり,その内側の土地は海面より低く(最低点は約-6m),主として海成または河成粘土と泥炭からなる。北ホラント州の北端デン・ヘルデルDen Helderから北東方に弧を描いてフリージア諸島が延び,その内側にはワッデン海を隔ててフリースラント,フローニンゲン両州の海岸が続く。堤防の内側の海成粘土と泥炭の地域は干拓され肥沃な農地に変えられた。フローニンゲン東部のスロホテレンSlochteren付近には,泥炭層の上に空気を通さない岩塩層が形成されたため膨大な量の天然ガスが埋蔵されている。1932年ゾイデル海の締切り堤防(29.8km)が築かれ,堤防上の自動車道路で北ホラント州とフリースラント州は結ばれ,ゾイデル海は北東ポルダー(干拓地)をはじめとする四つの大ポルダーと淡水のアイセル湖(面積1200km2)に変貌した。

 ライン川とアイセル湖のあいだのオランダ中央部の台地は洪積層の砂質土壌である。リス氷河期の氷河が50~100mの氷堆石丘と幅広い谷をつくるこの地域には森林とハイデ(ヒースの生えた荒地)が広がり,起伏に富む風光明媚な景観で知られ,広大な国立公園〈ホーホ・フェリュウェ〉がある。エイセル川沿いの河成粘土地帯の東側,すなわちヘルデルラント州東部とオーフェルアイセル州は氷堆石丘が点在する広い沖積平野で,洪積層の砂質土壌の低湿な土地は干拓されて牧草地に利用されている。南部の北ブラバント州とリンブルフ州北部は標高50m以下であるが,泥炭地は干拓され牧草地となっている。リンブルフ州南部の,ベルギーから続く丘陵地帯は石灰岩をレス(黄土)がおおい,小麦,テンサイの栽培に適し,また渓谷の斜面は牧草地とされ,地層中には岩塩,石炭が含まれる。

北緯50°~53°という高緯度にもかかわらず,メキシコ湾流と偏西風の影響により西岸気候地帯に属し,全国的に温和な気候で農業に適する。月平均気温は7月で約18℃,1月で約2℃。平均年降水量は約750mmで,春にやや少なく7~11月にわずかに多いが,年間ほぼ均等で,穀物類よりもジャガイモ,テンサイなどの栽培や牧畜に好適である。冬は降雪もほとんどなく,大きな海港は凍結しないが,運河や湖沼は東から張り出す高気圧の影響で短期間凍結する。かつて偏西風が動かした多数の風車は低地帯の水を海に汲み上げたばかりでなく,製粉,毛織物の縮絨,製材などの動力源として利用された。

土壌は一般に肥沃とはいえない。ことにハイデは地味がやせているので農耕は営めない。フローニンゲン,フリースラント,ゼーラント,北東ポルダー,南東ポルダー,オストフレーボラントなどの海成粘土地帯はやや肥沃で,小麦,テンサイ,ジャガイモ,マメなどが栽培される。ただし土地利用においては,土壌の質とともに地下水位の高低が重要な要因である。すなわち,地下水位が高ければ土地の湿度が高くなり,牧草地に適する。デルタ地域や北ブラバント,オーフェルアイセル,ドレンテなどの泥炭地や海面下の海成粘土または砂質の地域はこの例である。他方,地下水位が低い土地は乾燥し,粘土質,砂質いずれも耕作農業に適するが,砂質地では肥料の多用によってのみ農耕が可能である。オランダは化学肥料投下量がヨーロッパでもっとも多く,1ha当り150kgを超える。

低地帯の小国にもかかわらず,オランダの植物相はかつてはきわめて豊かで変化に富んでいた。しかし,数十年来の人口増大,工業化(都市化,道路網建設,環境汚染),農薬多用などによって植物の環境は急速に悪化している。植生は顕花植物とシダ類を含めて約1200種,蘚苔類約600種を数える。地味のやせている砂質地のうち,コロイドの貧弱な土壌にはオーク・カバ樹林が,コロイド性の土壌にはブナ・オーク樹林が,肥えた洪積層の土壌(砂礫ローム,第三紀ローム,古い河成ローム,レス地帯)にはオーク・シデ樹林が,また肥えた沖積地の粘土質あるいは砂質地域のうち,河谷にはエゾノウワミズザクラ・トネリコ樹林が,河川地域の低湿な粘土地帯にはトネリコ・ニレ樹林あるいはヤナギ・ポプラの群生が見られる。石灰分の乏しい北部の海岸砂丘は蘚苔類におおわれ,ツツジ科の群落がある。内陸部の泥炭地にはアシ,スゲ,蘚苔類や塩性植物が,また乾燥地にはギョリュウモドキ類の群落が,南部の石炭質の砂丘にはクロウメモドキ類,イボタノキ属,バラなどの低木林が見られる。自然植生は広葉樹が多いが,針葉樹の植林地が森林総面積の70%,国土の7%を占める。

 動物相は西ヨーロッパ型に属するが,とくに見るべきものはない。西部および東部の平たんな沖積世の地域よりも東部および南部の洪積世の砂質地域に動物の種類が多く,アカジカ,ノロジカ,イノシシ,キツネ,アナグマ,テンがすむ。リンブルフ南部には他地域に見られぬハムスター,ヤマネ,カメ,サンバガエル,ヤモリが生息し,またワッデン海と西フリージア諸島はカモメなど多数の鳥類が生息,繁殖し,カモなどの水鳥,シギなどの渉禽類の越冬地ともなっている。アイセル湖が淡水化されたため,植物相と動物相は著しい変化を被り,ニシンやアンチョビーに代わってウナギが繁殖し,またデルタ工事によってゼーラント産のカキ,イガイも消滅した。魚類は179種(うち淡水魚57)が知られている。1905年に自然保護団体が結成されて以後,官民の両側から自然の保存と保護が熱心に行われている。

オランダは人種的には北方人種(ノルディーデ)とアルプス人種(アルピーネ)の境界線上にあり,数のうえでは前者が圧倒的に多い。北方人種はライン川,マース川以北の諸州に多いが,東部地域では毛髪はブロンドとなり,長身瘦軀,長頭の特徴もやや薄れる。ライン川,マース川以南では北方人種と並んでアルプス人種も見られ,両者の融合の度合も強い。交通の発達,工業化,都市化は両人種の融合を促進し,地域的特性は減少してきている。オランダ人の身長は平均170cmでスウェーデン人,ノルウェー人,スコットランド人と並んでヨーロッパの中で最も高く,皮膚の色は白い。

 住民の大多数は,インド・ヨーロッパ語族の西ゲルマン語派に属するオランダ語を使用する。しかしひと口にオランダ語といっても,風俗,習慣などと同様,多少の地方差が見られる。
オランダ語

人口

オランダの人口は18世紀~19世紀前半には停滞していたが,1870-80年ごろの工業化開始期以降ヨーロッパ第1の人口増加国になった。すなわち,1830年には約260万人であったが,1900年に約510万人と倍増し,30年には約800万人,80年には約1400万人,さらに95年には1545万人に達している。ことに1950-70年の増加率は顕著で,6~7年ごとに100万人増え続け,それに伴い1km2当りの人口密度も1947年の297人から72年の396人に増えた。増加の原因には,(1)死亡率の低下,(2)住宅環境の改善,(3)高度経済成長と社会保障の拡充のほか,(4)カトリックおよび一部のプロテスタントが産児制限をしないこともあげられる。1950年代に1000人当りの出生率は22.7人に著増し,死亡率は7.4人と著しく低下した。しかし,出生率は69年19.2人,71年17.2人と周辺諸国の水準(ベルギー14.5人,西ドイツ17.7人,イギリス16.1人,フランス17.2人)に近づき,他方,男子71.7歳,女子76.7歳に延びた平均寿命が安定した結果,72年には死亡率も8.5人と上昇し,70年代に入り人口増加はやや鎮静化した。

 国内の人口分布を見ると,人口の比較的少ない地域は北部諸州(ドレンテ州,フローニンゲン州,フリースラント州),ゼーラント州,リンブルフ州,アイセル湖周辺のポルダーなどの農業地域で,1950年代の工業化と都市化により,これらの地域からはさらに人口が流出した。西部(南ホラント州,北ホラント州南部,ユトレヒト州)は古くから人口密集地域で,南ホラント州の人口密度は1000人を超える。第2次大戦後は都市化が進み,70年には人口2万人以上の都市(136都市)の住民が全人口の60%以上を占めている。人口増加は1万~5万人規模の新興都市に著しく,ことに過密大都市周辺のニュータウンの増加率が際だっている。とりわけ西部では,人口第1位のアムステルダム,ロッテルダム,ハーグ,ユトレヒトの四大都市をはじめ,ドルトレヒト,ライデン,ハールレム,ヒルフェルスム,デルフト,フェルゼン・ベーフェルウェイクVelsen-Beverwijkの人口10万以上の10都市とそれらの都市を囲むニュータウン群が環状に連なり,一大複合都市地帯(オランダ語で〈ラント・スタット〉と呼ぶ)を形成し,国土の5%に当たるこの地域に全人口の30%以上の約500万人が居住している。次いで人口の多い地域は,オランダ綿工業の中心地のトウェンテ地方(エンスヘデ,ヘンゲロー),北ブラバント州の都市群(ブレダ,ティルブルフ,エイントホーフェンなど),リンブルフ州南部の鉱業地域(マーストリヒト,ヘールレン・ケルクラーデ,シッタルト・ヘレーン)などである。

国民のうち,カトリックが40%,プロテスタントが30%(改革派23%,再改革派7%),諸派(アルミニウス派,再洗礼派,ルター派)およびユダヤ教が8%で,残りの約20%は無宗教である。オランダは歴史的にはプロテスタントの国であったが,改革派教会の特権の廃止(1796),憲法改正による信仰の自由の確立(1848),ローマ・カトリックの教権制度復活(1853)によって自立した勢力になったカトリック教会は,19世紀後半の自由党員と自由主義の支配に抗して,政治・社会・文化・教育の全領域で信徒を統合し指導した。自由主義とさらに19世紀末以後の社会主義の浸透による世俗化の進行は,カトリック教会よりも改革派教会にいっそう強い打撃を与え,加えて再改革派の分離(1892)も改革派の勢力を低下させた。第2次大戦後,若い人びとの教会離れが加速され,それが比較的少ないといわれるカトリック教会でさえ日曜礼拝参加者は1967年の63%から70年40%(アムステルダムでは25%)に減少した。

一般にオランダ人気質あるいは国民性といえば,豊かな現実感覚,素朴,寛容,きちょうめん,計画性,商業国民的な打算としたたかさなどを挙げることができる。こうした特徴は部分的には同じゲルマン系のイギリス人やドイツ人と共通するものでもあるが,にもかかわらずそれらは全体として見るときオランダの歴史や文化に独自の刻印を与えている。オランダの歴史家ホイジンガは《レンブラントの世紀》の中で,17世紀のオランダ文化の特質として簡素な生活およびこれと密接に結びついている節約と清潔好きをあげ,つぎのようにいう。簡素な生活は衣服や慣習,社会生活の色合いや精神的態度から,繁茂する森林もなく平たんな国土自体のたたずまいや都市の構造にまで及ぶ。このような特質は,世界と諸事物を現実として受容し,あらゆる事物の絶対的実在性を確信しようとする現実感覚に由来する,と。また,オランダ人はきちょうめんで,事をなすに当たっては慎重,計画的で決して功をあせらない。きちょうめんさは,たとえば東インド会社の帳簿,日誌,本店とアジア各地との往復文書などの綿密で膨大な記録とその驚くべき保存ぶりなどからもうかがえよう。第2次大戦中ドイツ空軍の爆撃で全壊したロッテルダム市中心街を先見的な都市計画によってみごとな都市空間につくりあげたことは,オランダ人の計画性の好例であり,戦後オランダの国土計画や社会計画などを指導した中央計画局の存在は国際的に有名になった。素朴さについていえば,17~18世紀以来オランダの支配者層は,フランスやイギリスの貴族とは異なり宮廷的な優雅や軍事的栄光とは無縁で,ひたすら海上貿易のもたらす利益を追求した市民たちであった。今日,女王は市民たちにまじって自転車でショッピングをし,権威の象徴であるよりも平和な家庭の主婦,母親のイメージが強い。市民はまじめだが,きまじめやむきになることを警戒し,冗談やユーモアを好む。アムステルダムのキャバレーで戦後30年以上も社会と政治を風刺しているウィム・カンは国民的人気をえ,大晦日の夜のテレビでウィムの鋭いが人間味のあるジョークを聞きながら新年を迎えるオランダ人は多い。堅苦しい秩序や画一主義はオランダ人の最も嫌悪するところで,人それぞれに違うことを認め合うことの中にこそ人間らしさがあると考えるのである。オランダ人が自由や平和を貴ぶのは,小国オランダが生きてゆく道は自由な貿易とそれを保障する国際的平和の中にしかないことを自覚しているからである。多くのオランダ人は英独仏の3ヵ国語を話し,商業に必要な冷静な打算と,柔軟で一筋縄でゆかない抜け目なさを発揮してきた。それらの特質については定評のあるユダヤ人を17世紀に多数迎え,同国人として温かく遇したのも,商業国民としての自信や自覚があったからだと思われる。また,エラスムスの祖国として知られるこの国には,寛容とヒューマニズムの伝統がいまも深く根づいている。19世紀中葉まで改革派教会が公認の宗教として国教会に近い地位を占めたが,カトリックの信徒が迫害されたことはなく,19世紀後半に誕生したプロテスタント系とカトリック系の両政党は常に友好関係を保ってきた。かつてユダヤ人のほかフランスのユグノーなど多くの亡命者の避難港であったオランダが,戦後多くのインドネシア人,スリナム人や移住労働者を受け入れたのも,寛容とヒューマニズムに由来する民族的偏見のなさゆえである。1979年,ベトナムのボート難民の報がひとたび伝わると,政府は3000人の受入れをいち早く決定し,救済資金の寄付金が30億円に達したことも特筆してよいだろう。

オランダは16世紀末に独立するまで,今日のベルギー,ルクセンブルク,北フランスの一部を含むネーデルラントの一部をなし,これらの地方とほぼ共通の歴史をもった。

 前1世紀の中葉,ユリウス・カエサルの率いるローマ軍はベルガエ人を破り,ライン川以南の地域を征服して属州ガリア・ベルギカGallia Belgicaとし,さらにライン川を越えて全ネーデルラントを支配しようとしたが,ライン川北方に住むバタウィ人Bataven,カンニネファート人Kanninefaten,フリーシー人Friezenなどのゲルマン系諸部族にさえぎられて成功しなかった。3世紀以降のゲルマン民族大移動期において,フリーシー人は沿岸地域に居住し続け,ザクセン(サクソン)人は北東部からエイセル川の線まで進出し,またフランク人はライン川の南部地方に侵入し,徐々に勢力を拡大した。734年フランク王国カロリング家のカール・マルテルはフリーシー人を,さらに孫のカール大帝はザクセン人を征服し,ネーデルラントはフランク王国の支配下に入った。8世紀にはユトレヒトを中心にアングロ・サクソンの修道士ウィリブロードWillibrordやボニファティウスBonifatiusの布教によってキリスト教化が進んだ。この時期ドレスタットを中心に栄えたフリーシー人の遠隔地商業は9世紀に入ると北海沿岸,ライン川,マース川沿いに猛威を振るったノルマン人の略奪によって衰微した。フランク王国はカール大帝の子ルートウィヒ1世(敬虔王)の死後,ベルダン条約(843)により三分され,ネーデルラントはロタリンギア領となり,さらにメルセン条約(870)でドイツ領に入った。10世紀以降とめどなく進行する封建化のうちから地方伯や豪族はしだいに自立化し,13世紀ごろにはホラント伯領(ゼーラントも支配),ヘルレGelre(ヘルデルラント)公領,ブラバント公領,ユトレヒト司教領が形成された。

15世紀前半,フランス王室の分家であるブルゴーニュ家のフィリップ(善良公)はホラント,ゼーラント,ブラバントなどを手に入れ,その子シャルル(突進公)もさらに北方に勢力を伸ばそうとしたが戦死し,ブルゴーニュ公領ネーデルラントはシャルルの女相続人マリアと結婚したオーストリアのハプスブルク大公マクシミリアン1世の領有に帰した。マクシミリアン1世の孫カール5世(1500-58)はハプスブルク家領のオーストリアとあわせてネーデルラントを継承し,母方の縁でスペイン国王を兼ね,さらにネーデルラント諸州の支配権を次々に手に入れてネーデルラント全領域を支配した。カールはブリュッセルに政庁を置いて,中央集権体制を強化した。1517年にドイツで始まった宗教改革はすぐネーデルラントに波及し,ことに南部のフランドル(フランデレン),ブラバント地方の市民のあいだにカルバン主義が普及し,旧教を守護するカールは新教を禁止した。この時期にはまたイタリア・ルネサンスの人文主義がアントワープをはじめとする諸都市の富裕な市民階級のあいだに広まった。ロッテルダムのエラスムスは生涯の多くを国外で過ごしたが,平和と寛容を基調とする彼の人文主義はのちのちまでこの地方の市民に大きな影響を与えた。

1555年カール5世はネーデルラントの統治を息子フェリペ2世(スペイン国王,在位1556-98)の手にゆだねた。59年以後スペインに住むフェリペはブリュッセルに執政を置いて,ネーデルラントを統治させた。フェリペは父カール以上に新教徒を激しく弾圧し,さらに集権的な統治を推進し,ついにネーデルラント住民の反乱を招いた。貴族の反抗,聖像破壊運動(1566),アルバ公に率いられたスペイン軍の到着(1567)とアルバ公の圧政は,ついに八十年戦争(1568-1648)を引き起こした。〈海乞食〉(乞食団)の蜂起による反乱側のホラント,ゼーラント両州占拠(1572)を経て,ネーデルラント北部の7州は,1579年ユトレヒト同盟を結成し,81年スペイン人に対する独立を宣言した。反乱の指導者オラニエ公ウィレム1世が84年暗殺されると,オルデンバルネフェルトが共和国の政治を指導し,オラニエ公の遺子マウリッツを指揮官にスペイン軍と戦い,1609年にはスペインと12年間の休戦条約を結んで実質的な独立を達成した。オランダ共和国(正式にはネーデルラント連邦共和国)は独立の達成とともに,ヨーロッパで最も富裕な商業国家になった。バルト海貿易を基礎にイギリス,フランス,地中海沿岸地域のあいだの中継貿易を発展させ,さらにアジア(1602年オランダ東インド会社設立),西インド諸島に進出して巨富をえ,アムステルダムはヨーロッパ最大の貿易港,金融市場になった。アムステルダムをはじめホラント州の諸都市には,商業とともに工業も発達し,諸都市の富裕な市民層を基盤として,絵画,建築,文学,学問などが急速に発達し,17世紀中葉のオランダは大政治家ウィトの指導のもとに,経済的繁栄と文化隆盛の絶頂に達した。

 しかし,17世紀の後半オランダはその経済的繁栄を嫉視するイギリスやフランスの挑戦を受け,2度にわたる英蘭戦争(1652-54,1665-67)とフランス軍の侵入(1672)にあい,国力とともに経済と文化はしだいに後退した。フランス軍侵入によりウィトは退き,代わってオラニエ家のウィレム3世が総督に就任したが,ウィレムはイギリスの名誉革命(1688)でイギリス国王(ウィリアム3世)として迎えられ,衰運をたどる祖国を再興することができず,18世紀のオランダはしだいにヨーロッパの政治と経済の表舞台から退場した。18世紀,オランダの沈滞した政治と社会を改革しようとする〈民主派〉や〈愛国党〉の運動も見られたが成功せず,フランス革命の余波を受け,1795年フランス軍の侵入によってオランダ共和国は崩壊し,バタビア共和国(-1806)が成立した。
オランダ共和国 →八十年戦争

1806年ナポレオンは弟ルイをオランダ国王に任命してバタビア共和国をオランダ王国Koninkrijk Hollandとし,さらに,10年にはフランスに合併した。13年ナポレオンがライプチヒで大敗するとオランダ人は駐留フランス軍を追放し,イギリス亡命中のウィレム6世を主権者として迎えた。ナポレオン戦争後,イギリス,プロイセンはフランスの膨張を阻止するためオランダの強化を策し,パリ条約でベルギー,リエージュをオラニエ=ナッサウ家の統治下に編入することに決めた。15年ウィレムは憲法を制定し,ブリュッセルで即位してウィレム1世と称し,ここにネーデルラント王国Koninkrijk der Nederlandenが成立した。しかしオランダの旧支配者層は中継貿易復活の夢を追い,工業の保護育成に消極的で,近代的企業家は出現せず,国民の大部分は失業と貧困の中に埋没していた。加えて1579年以来2世紀半にわたってオランダと異なる運命を歩んできた南部のベルギーはウィレム1世の独善的なオランダ中心主義と専制的統治に対してしだいに不満を抱くようになっていた。

 ベルギーの住民はほとんどがカトリック教徒で,南東部ワロン語(フランス語)地域の工業先進地域は保護主義を要求し,住民は公用語のオランダ語に強い反感をもっていた。ベルギー住民はフランスの七月革命勃発(1830)のニュースに触発されてついに独立運動を起こした。列国はロンドン会議(1830)を開催してベルギー独立を承認したが,ウィレムは頑強に反対し,39年にいたってこれを受け入れた。ウィレムは専制的統治とベルギー独立に対する頑迷な態度によって国民の人気を失って退位し,息子のウィレム2世が登位した。

1840年代に入ると停滞と無気力の支配するオランダにも,イギリス,フランスなど先進国の影響を受けた知識人と未熟ながら東部のトウェンテ地方やアルンヘム近辺,北ブラバント州などに芽生えた産業資本家層によって自由主義運動が展開された。トルベッケを先頭とする自由主義運動は48年の憲法改正に結実し,この改正によって教育・結社・集会・出版・信仰の自由,責任内閣制,単年度予算制,一定額以上の納税者による議員の直接選挙などが実現し,オランダは近代的な立憲君主国家へと脱皮する。憲法の自由主義的改正後,自由派(自由党)はほぼ40年間にわたってオランダの政治・経済を支配した。19世紀後半はまた近代的政党の形成期であった。自由党,カトリック党(RKSP)の成立に促されて保守的なプロテスタントもA.カイペルの指導で反革命党(ARP)を結成し,自由党が自由主義的で世俗的な公教育を推進すると,カトリック党と反革命党は結束して反対し,宗派立の私立学校に対する国庫補助を要求した。

 48年憲法と自由主義的経済政策,オランダ領東インド植民地(ジャワ島など)の搾出利潤による鉄道敷設,アムステルダムの北海運河やロッテルダムの新マース運河の開設,後背地ドイツの工業化によるライン航行の発達などによって,オランダは60-70年代にいたってようやく本格的な産業革命を迎えた。さらに東インド植民地における強制栽培制度の廃止と自由農業企業の展開は対植民地貿易の繁栄を促し,植民地物産の加工業や中継貿易を発展させた。

1890年ごろまでにオランダの産業革命は完了し,その結果,資本主義の進展はオランダの国民経済を世界資本主義体制の中に組み込んだ。1870年代末から始まった長期的不況に代わって,97年から第1次世界大戦まで続く国際的な好況下に,オランダ経済も進展した。綿業,製陶,製紙,マーガリン製造,機械・金属工業に加えて植民地物産の加工業が発達した。工業の発展と後背地ドイツの経済繁栄,対植民地貿易によって貿易も拡大し,貿易額は1876年の1000万グルデンから1912年の1億グルデンへと10倍になり,また海運業と造船業が飛躍的に成長した。1870年代以降アメリカとロシアの安価な小麦の流入により長期的恐慌に陥ったオランダ農業は,協同組合化,機械化,飼料・肥料の輸入による園芸・酪農への構造転換を図り,97年以後の持続的好況の波に乗ってドイツ,イギリスへの農産物輸出を拡大させた。

 資本主義の展開は労働運動を活発にし,労働者階級の解放と民主化を推進した。81年にはドメラ・ニーウェンハイスFerdinand Domela Nieuwenhuis(1846-1919)が社会民主同盟(SDB)を結成し,94年トルールストラPieter J.Troelstra(1860-1930)らにより社会民主労働党(SDAP)が結成され,1906年にはオランダ労働組合連合(NVV)が成立した。労働者階級の政治的自覚は激しい選挙権拡大運動に発展し,1887年自由党政府の憲法改正で有権者は10万から35万に増大した。19世紀後半,自由主義と資本主義を推進してきた自由党の勢力は皮肉にも資本主義の確立とともに退潮し,代わってカトリック党,反革命党の宗派政党が勢力をえ,社会民主労働党も急速に台頭し,以後オランダはこれら諸政党の連立政権の時代に入った。

1914年7月第1次世界大戦が勃発すると,列国の紛争に巻きこまれないよう政府は厳正中立を堅持し,国土防衛のために総動員令を発した。オランダはドイツ軍の侵入を免れたが,戦争は海上貿易の縮小と日常必需品の不足など国民経済を困難に陥れた。戦時下の国民的一体感の盛り上がる中で,17年ファン・デル・リンデンCort van der Linden(1846-1935)内閣は憲法を改正し,すでに戦前からの懸案であった選挙法改正(普通選挙,比例代表制)と学校問題(公・私立学校の全額国庫負担)を解決し,19年議会は婦人参政権などの社会立法(1日8時間労働,老齢年金受給開始年齢引下げなど)を可決した。戦後オランダ経済はいち早く復興したが,20年秋には過剰生産と戦後インフレの危機が始まり24年まで続いた。25年以後,経済は相対的安定期を迎え,27年以後も農業不況を除いてオランダの好況は持続した。

 29年10月アメリカに始まった大恐慌は好況に終止符を打ち,31年5月にはオーストリアの金融恐慌により事態はいっそう深刻となり,失業者は10万人を超え物価は1920年代の水準まで下落した。33年コレインHendrik Colijn(1869-1944)が組織した危機突破内閣は不況克服と雇用拡大に全力をあげたが,失業者数は33年35万人,35年41万人,36年47万人と増え続け,実に全労働人口の約40%に達した。この年オランダは金本位制を廃してグルデン切下げに踏み切り,ようやく不況のどん底から脱した。しかし,慢性的農業恐慌下の農民や経済秩序の崩壊におびえる中産市民,失業労働者などは,危機に対処する強力な対策を実施しえない議会政治に失望し,30年代半ばには左右両翼の急進主義の勢力が大きく伸びた。他方で自由主義的知識人らによるファシズムと共産主義とに抵抗する組織や運動も勢いをえ,37年の総選挙では左右両勢力は敗退し,コレインの率いる反革命党が勝利をえた。第2次大戦前夜の39年8月,デ・ヘールDirk Jan de Geer(1870-1960)挙国一致内閣が成立し,社会民主労働党は党首アルバルダほか1名の議員がオランダ史上初めて政権に参加した。同月28日新政権は総動員令を布告し,ウィルヘルミナ女王(在位1890-1948)はラジオ放送で厳正中立の声明を発表した。

1940年5月10日未明,ナチス・ドイツ空軍の爆撃機編隊はロッテルダム,ハーグ周辺にある空軍基地を爆撃し,時を同じくしてドイツ機甲部隊は東部国境の諸地点から進撃を開始した。さらに落下傘部隊は西部の重要拠点に降下した。予想を絶するドイツ軍の電撃作戦に,女王一家と政府はロンドンに亡命し,ドイツ空軍の集中爆撃でロッテルダム市中心部の大半が廃墟と化すると,重要都市が全滅するのを恐れたオランダ軍は同月15日降伏した。以後,解放までの5年間オランダ国民はドイツ軍の占領下にあって苦難の時を過ごした。

 ドイツ軍占領下における議会活動の停止,言論の弾圧,ユダヤ人狩り,強制労働,日常必需品の欠乏とインフレの経済破局の中で,占領軍に対する抵抗運動が激しく燃え上がった。44年5月のノルマンディー上陸作戦に成功した連合軍はフランス,ベルギーを解放し,年内にオランダに迫った。しかしドイツ軍はライン川,マース川の線で頑強に抵抗し,ようやく45年5月5日連合軍カナダ部隊の攻撃のまえにワーヘニンゲンで降伏した。解放直後,女王と亡命政権は帰国し,戦後の再建は開始されたが,食糧も衣料も原料も欠乏し,経済復興は進まなかった。48年からアメリカのマーシャル・プランによるヨーロッパ復興計画が発足し,50年代初頭には戦前の生産水準に復した。占領下におけるナショナリズムの高揚,対独レジスタンスの経験は,戦後オランダの経済発展にとって労使の協調,政府による賃金,物価,家賃,地代などの厳しい統制,徹底的な計画経済などの遂行を可能にした。50年代のオランダ経済は政治における国民的コンセンサスの実現,労使の安定,低い賃金・物価水準,工業化の推進によってめざましい経済成長と輸出拡大を達成した。

 46年,社会民主労働党と自由民主同盟は解党し,国民政党を目ざして労働党(PvdA)を結成し,労働党党首ドレースWillem Drees(1886-1988)は48年から10年間にわたって共産党を除く幅広い連立政権を組んで多難な政局を指導し,高度経済成長を達成した。ドレース内閣にとって植民地独立問題と53年2月にオランダ南西部デルタ地帯を襲った大洪水とは大きな試練であったが,後者はデルタ計画としてデルタ地域締切り工事に結実した。オランダ領東インドは第2次大戦中日本軍に占領されたが,日本軍が降伏するとスカルノらはインドネシアのオランダからの独立を宣言した。49年オランダ政府はハーグ円卓会議を開催してインドネシアへの主権委譲を決め,4世紀半にわたって築いた東インド植民地におけるオランダの権益はすべて失われた。

50年代末ロッテルダムのユーロポート港における臨海工業の発展とヨーロッパ経済共同体(EEC)の成立によってオランダ経済はいっそうの発展期を迎えた。しかし高度経済成長は60年代前半に激しい労働力不足,賃金・物価の高騰,外国人労働者の移住を引き起こした。第4次ドレース内閣の崩壊(1958)をもって,戦後オランダの政治を支配した,共産党を除く全政党による連立政権の時代は終りを告げ,連立政権の柱だったカトリック人民党(KVP)と労働党が対立を深め,59年の選挙では両党に続いて自由民主人民党(自民党。VVD)が第三党として浮上した。労働党は戦後初めて閣外に去り,カトリック人民党と反革命党,キリスト教歴史連合(CHU)の宗派3政党と自由民主党の連立政権が続いた。65年カトリック人民党,労働党,反革命党のカルスJoseph M.L.T.Cals(1914-71)連立内閣が成立して広範な学制改革を行ったが,この頃から数年間,豊かな福祉国家は学生・若者の反乱と新左翼の台頭に揺れ動いた。66年春のベアトリックスBeatrix(現女王)の結婚に反対する〈プロボProvo〉(反体制のアナーキスト・グループ)らの運動,68年大学の管理強化反対の学生運動,労働者の街頭デモなどの直接行動が続いた。急進主義は政党にも波及し,労働党左派の青年層は新左翼を名のり,王制廃止や反NATOを唱えて党内のヘゲモニーを握り,66年には〈民主66(66年民主主義者)〉が結成されて憲法改正,上院廃止,首相公選などを主張した。他方70年には〈民社70(70年民主社会主義者)〉が成立してニューライトを標榜した。

 持続する賃金・物価の高騰は輸出不振を招いて67年以降不況に陥り,失業が増大し,オランダ経済はスタグフレーションに突入した。70年代に入っても激しい労働争議,学生運動が続発し,オランダ社会はひととき騒然とした空気に包まれた。73年中道左派のデン・アイルJohannes M.den Uyl(1919- )連立政権が成立した。秋の石油危機にはオランダはアメリカとともにアラブ産油国から石油禁輸の対象とされたが,幸い国内天然ガスの生産・消費量が飛躍的に増え,この危機を乗り越えることができた。多党化と豊かな福祉社会の中で教会や宗教がしだいに影響力を弱めてゆくことに危機感をもったカトリック人民党,反革命党,キリスト教歴史連合の宗派3政党は73年キリスト者民主同盟(CDA)として院内統一会派を結成した。77年の選挙で労働党が第一党になったが過半数には至らず,第二党CDAのファン・アフトAndreas A.M.van Agt(1931- )を首班とするCDA,自由民主人民党(VVD)連立政権が成立した。

 81年の選挙ではCDAが第一党になったものの,VVDをあわせても過半数に満たず,小党分立の様相をますます濃くした。ファン・アフト首相はCDA,労働党,〈民主66〉と中道左派連立内閣を新たに組織したが,82年5月,労働党はアメリカの巡航ミサイル配備受入れ,社会保障費削減に反対して連立を解消した。同年9月の選挙でCDAは第二党に後退,議席を伸ばしたVVDと中道右派連立内閣を結成した。首相にはCDAの新党首ルッベルスRudolph Lubbers(1939- )が就任した。連立政権は86年の選挙を乗りきって第2次ルッベルス内閣を成立させ,経済回復に成果をあげたが,89年,環境保護計画の財源をめぐって連立内部で対立が生じ,内閣総辞職,選挙の繰上げ実施となった。選挙ではVVDが後退し,第一党の座を保持したCDAのルッベルス首相は政局の安定を求めて連立の相手を労働党に替え,CDAと労働党による中道左派の第3次ルッベルス内閣を発足させた。

1815年に成立したオランダ(ネーデルラント王国)は,オラニエ=ナッサウ家を世襲王室とする立憲君主国である。しかし,1815年制定の憲法が48年,84年,87年,1917年,24年と数次にわたって改正された結果,20世紀初頭,オランダは実質的には議会制民主主義国家になった。憲法は,国王・内閣の権限,議会と参政権(普通選挙と比例代表制),司法,地方行政,防衛,国家財政,教育などについて規定し,信仰・言論・集会・結社・出版の自由を保障している。責任内閣制で,憲法上は国王に任命されるが,実質的には議会の多数党から任命される首相と各省大臣の構成する閣僚会議が行政権を執行する。立法権は国王と議会が行使する。議会は上下両院からなり,下院(150議席,4年任期)は直接・普通選挙で選出され,上院(75議席,6年任期,3年で半数交替)は州議会から選出される。法案は国王が枢密院に諮ってまず下院に提出する。下院は法案の採否と修正の権利および発議権をもち,上院は修正権,発議権をもたない。上下両院とも選挙年齢は25歳(1917)から23歳(1946),21歳(1962),18歳(1972)へと引き下げられた。

 19世紀末以来オランダの政党はカトリック系,プロテスタント系(2派),労働党系,自由党系に分かれ,過半数の議席を占める大政党が存在しなかったので,連立政権が続いた。1917年比例代表制が導入されると小党分立の傾向はさらに固定化された。第2次大戦後,ことに60年代後半から小党分立,多党化傾向はいっそう強まったが,他面この国の憲政史に1世紀近くも大きな役割を果たしたカトリック人民党とプロテスタント系の反革命党,キリスト教歴史連合は73年合同してキリスト者民主同盟(CDA)になった。

オランダは11の州provincieと約850の地方自治体(市町村の区別はなく,大都市も小村落も同じようにヘメーンテgemeenteと呼ばれる)がある。州,ヘメーンテの権限は非常に強く,独自の財政をもつ。またその首長は国王により任命され,議会の議長を務める。立法機関としての州議会およびヘメーンテ議会は直接選挙制の議員によって構成される。行政機関として州参事会(州知事と6人の州議員)およびヘメーンテ参事会(市長,議員互選の助役)がある。なお中世以来,治水,堤防管理などのための,地域住民の自治組織があり,地域デモクラシーに重要な役割を担ってきた。

 訴訟は民事,刑事とも主として専門の裁判官(勅任,終身制)によって扱われる。62の区裁判所,19の地方裁判所,5の控訴院,最高裁判所(ハーグ)がある。警察は国家警察と自治体警察とに分かれ,後者は大都市に置かれる。

オランダにとって,NATO軍との協力が国土防衛,軍備の基本政策である。兵役は義務制(徴兵制)で,兵役期間は陸・海・空軍によって異なり16~24ヵ月である。1980年,総兵力11万5000人で,陸軍7万5000人,海軍1万7000人,空軍1万9000人,軍事費は約44億グルデンである。陸軍は大部分NATO軍に編入され,一部は西ドイツに駐在し,また別に国内防衛部隊がある。海軍は巡洋艦1,駆逐艦12,フリゲート艦大型6,同小型6,潜水艦6などのほか海軍航空隊,陸戦隊を有し,NATO大西洋海軍に統合されている。空軍の航空機種はロッキードF104G(スターファイター),ノースロップNF5AV,80年以後はアメリカのF16戦闘機を採用し,対空誘導弾ナイキ,ホークが配備されている。

第2次世界大戦以後オランダは西ヨーロッパの忠実な一員として今日にいたっており,(1)NATO体制の堅持とヨーロッパ統合の推進,(2)貿易・海運国家として海空航行の自由と通商の自由の堅持,(3)第三世界への積極的な経済・技術援助,を外交の三大基調としている。

 1944年ベルギー,ルクセンブルクと〈ベネルクス関税同盟〉(58年に経済同盟)を結び,政治的経済的に緊密な協力体制をつくり上げた。46年国際連合の原加盟国となり,ほとんどの国連諸機関に加入している。49年NATOの一員になり,51年ECSC(ヨーロッパ石炭鉄鋼共同体),57年EEC(ヨーロッパ経済共同体),EURATOM(ヨーロッパ原子力共同体)に参加した。67年ECSC,EURATOM,EECは統合されてEC(ヨーロッパ共同体)となる。オランダはヨーロッパ統合に積極的で,ヨーロッパ議会をはじめとするヨーロッパ諸機関に参加しその民主化を唱導し,EMS(ヨーロッパ通貨同盟)発足,ヨーロッパ議会直接選挙の実施,ECへのイギリスの加盟,さらにギリシアの正式加盟決定を積極的に支持した。東欧諸国との関係は他の西欧諸国と変りはない。1950年イギリスに続いて中国を承認した。インドネシアとは,スハルト政権になってから外交・経済関係を復活させ,オランダは借款供与,投資を行っている。

第2次世界大戦によってオランダは国富の30%,生産設備の40%を失い,さらにインドネシアの独立によって,経済的支柱であった植民地向けの貿易,工業,海運,膨大な投下資本と利潤を喪失した。戦後の経済的破局と人口増大に直面したオランダは,単なる経済復興でなく工業化を中心とする経済構造の再編成を決意し,工業化は,マーシャル・プラン援助をきっかけとして,50年代から60年代にかけて着々と成功を収めた。政府は賃金,家賃,小作料,生活必需品価格を厳しく統制したが,イギリスのように重要産業を国有化することはなく,経済発展を私的な利潤追求活動にゆだね,政府は金融,税制,公共投資などの間接的手段を通じて経済を計画化された方向に誘導することをたてまえとした。

 戦後オランダのめざましい経済成長は国民所得,輸出,投資,労働生産性の著しい上昇に示されている。国民所得は1945年以降,年率平均10%(実質4.5%)の上昇をみせ,人口1人当り所得は1万0662ドル(1980。世界第9位)である。経済成長率は,60年代には5.8%(1964-69)とヨーロッパ諸国の中でも上位にあったが,70年代には他の諸国並みに低下した。78-80年には平均1.8%,81年にはマイナス成長となり,83年には失業率が17%に達した。しかし政府の景気浮揚策もあって80年代半ばから景気は回復し,88-91年には3%を超える成長を遂げた。以後もEU諸国の景気回復を背景に経済は比較的安定しているが,失業率は依然として減っていない。

財政支出は国民所得の約30%を超え,教育,社会保障,防衛,建設,農業に対する歳出が多い。財政支出の不足は公債でまかなわれるが,1970年代に入り低成長による歳入減少と失業対策費の激増の結果,公債による累積赤字は深刻な政治問題となった。地方財政はほとんど国からの補助金に頼っている。

 通貨はグルデンGulden(1グルデン=100セント。現在はユーロ)。オランダは71年5月に変動為替相場制に移行した。オランダの中央銀行で唯一の発券銀行であるネーデルラント銀行Nederlandsche Bankは1814年設立され,1948年国有化された。市中銀行としてはオランダ一般銀行Algemene Bank Nederland(通称ABN)とアムステルダム・ロッテルダム銀行Amsterdam-Rotterdam Bank(通称アムロ)の二大銀行が金融市場の60%を支配する。前者はオランダ貿易会社とトウェンテ銀行の合併,後者はアムステルダム銀行とロッテルダム銀行の合併によって,ともに1964年に誕生したが,その後さらに両者は合併してABNアムロとなった。

農地は約200万haで国土面積の約57%を占め,その約1/3が耕地,2/3牧草地となっており,園芸用地は14万ha(農地の約7%)である。19世紀末長期的な農業不況に陥ったオランダは,協同組合化,牧畜・園芸への構造転換を図り,隣接工業諸国市場へバター,チーズ,ベーコン,卵,野菜などの加工農産物や花卉・球根を輸出するようになった。20世紀に入るとさらに濃縮牛乳,粉乳,種ジャガイモ,種子,植物苗の輸出が加わった。他方オランダは過密人口を養うため大量の穀物を輸入する。酪農,畜産,園芸生産物の輸出と食糧,飼料,肥料の輸入など,外国貿易への高い依存度がオランダ農業の特徴である。農業経営は,フローニンゲンの小麦耕作地帯を除き,小・中規模で,労働力と肥料を大量に投下する集約的農業である。第2次大戦後農地の交換分合による再配置や国際競争に耐える適正規模の農家を育成する農業政策が行われた。

 北海を舞台に昔から漁業は盛んである。シタビラメ,ニシン,タラなどの漁獲高は30万t余りで,エイマイデン,スヘーフェニンゲン,フリシンゲン,ウルクがおもな漁港である。アイセル湖ではウナギ漁が盛んである。林業はほとんど行われず,森林面積は国土のわずか8%で,木材の大部分を輸入に頼っている。

鉱産物は乏しく,わずかに石炭(リンブルフ南部),岩塩(ドレンテ),石油などであったが,1964年フローニンゲン市東部に推定埋蔵量1兆8000億m3の天然ガスが発見され,一躍豊かな地下資源国となった。政府はシェル,エッソと3者出資でオランダ天然ガス会社を設立して生産を開始し,パイプ網を通じて国内はもとよりベルギー,北フランス,西ドイツへ天然ガスを配送している。73年天然ガス産出量は7000万m3を突破し,その輸出価額は輸入石油のうちの国内消費価額を超え,エネルギー自給率は110%だが,政府は天然ガス資源確保のため輸出を漸次抑制し,エネルギー輸入を急増させる方針をたてている。

 60年代における織物業の衰退と石油化学工業の大発展により,オランダの工業構造は大転換を遂げた。シェル,エッソ,カルテックス,インペリアル・ケミカル,ブリティッシュ・ペトロリアムなどの国際石油資本がロッテルダムのユーロポート地区に進出し,石油精製や半製品製造を行い,その半ばをパイプ網を通じて西ドイツなどへ輸出している。ロッテルダムにはまたマーガリン,人造肥料などを製造するユニリーバ・コンツェルンの主力工場がある。そのほかアムステルダムの薬品工業,リンブルフ州南部の石炭化学工業(国営炭坑),ヘンゲロー,デルフゼイルのソーダ工業がある。これらのうちローヤル・ダッチ・シェルとユニリーバ(ともに英蘭合弁企業),アクゾAKZO(レーヨン,ソーダ)はフィリップス(電機)と並んで超巨大多国籍企業である。

 金属工業は,鉄鋼,機械,エレクトロニクス,造船が主要部門である。エイマイデンの国営ホーホオーフェンスHoogovens製鉄は1924年に始まり,現在西ヨーロッパ最大の銑鋼一貫工場で,スズ,アルミ,亜鉛の製錬も行う。エレクトロニクス産業の代表はエイントホーフェンにある多国籍企業フィリップス(フィリップス・グロエランペンファブリケン。1891創立)で,オランダ各地に約20の関連工場がある。造船業は19世紀からロッテルダム,アムステルダム両港で発達し,さらに船舶用エンジンから始まって機械工業が発達した。造船業は激しい国際競争にさらされた結果,巨大投資を必要とするマンモス・タンカー建造を目ざして集中合併が行われ,1971年ライン・スヘルデ・フェロルメRijn-Schelde-Verolmeコンツェルンが成立した。ほかにアムステルダム,ロッテルダムの車両工業,エイントホーフェンの自動車(DAF),アムステルダムのフォッカー社(航空機)などが有名である。

 食品工業としては,ザーンダムをはじめ各地で菓子製造が盛んで,ファン・ホーテン,ドロステなどのチョコレートは国際的にも知られている。バター,チーズ,ミルクなど酪農製品は各地の農業協同組合により生産される。ビール,ジンの醸造はロッテルダム,スヒーダム,アムステルダムなどが中心である。以上のほか伝統的産業としてアムステルダムのダイヤモンド加工やデルフトの陶磁器(デルフト焼)は重要な輸出品である。

人口稠密な資源小国で,国内市場が狭くしかも高度に工業化した西ヨーロッパの中枢に位置するオランダの生きる道は,加工貿易立国である。貿易の主要相手国は輸出入とも西ヨーロッパ諸国ことに西ドイツ,ベルギー,ルクセンブルクのEC域内に集中している。天然ガスの輸出で1973年以後貿易収支は黒字に転じた。

国土が平たんで道路網が整備され,トラック,バス輸送の比重が大きい。水路網も発達し,ことにライン川は国際的大動脈である。鉄道網も整備され,ヨーロッパ各地とも国際列車で結ばれているが,マイカーの普及でオランダ国有鉄道の経営は悪化し,政府の助成金は急増している。航空便はアムステルダム近くのスキポール空港からオランダ航空(KLM)が全世界に飛び立っている。

 観光収入はオランダ経済にとって重要である。他方,60年代の所得向上とともにオランダ人の国外観光が盛んになり,観光支出は増大し,観光収支の赤字は増える一方である。

工業化とそれに伴う第3次産業の発達は,第2次大戦後激増した労働人口と農村からの流出労働人口を吸収してもなお,著しい労働力不足をもたらした。50年代の末には地中海沿岸諸国から10万人を超える労働者が移住し,繊維,製鉄,鉱山,建設などの肉体労働,非熟練労働に従事したが,労働力不足は解消せず64年の失業率は0.7%にまで下がった。過度の労働力不足は一方で労働条件改善への圧力を強め,週45時間労働(週休2日制)を実現させ,他方で賃金の急騰を引き起こし,物価も追いかけて急上昇した。賃金・物価の上昇は続き,72年以後はさらに不況と失業増大が加わり,政府は大幅の赤字財政を組んで失業克服対策に取り組んでいるが効果はあがらず,83年現在の失業者数は45万人を超えている。

 労働組合は労働党系のオランダ労働組合連合(NVV),カトリック系のオランダ・カトリック労働組合総同盟(NKV),プロテスタント系のオランダ・キリスト教労働組合連合(CNV)があったが,前2者は76年合併してオランダ労働組合連盟(FNV)となり強大な勢力を誇っている。労働組合は保守的で争議件数も少なく,労働協会,社会経済理事会,経営評議会などの審議や運営に代表を送っている。失業保険,健康保険,産業災害保険,孤児手当,寡婦年金,児童手当,一般老齢保険などのほか,身体・精神障害者の保護雇用に関する特別立法もあり,オランダは社会保障制度の整備した福祉国家として知られている。

19世紀後半の議会制確立期に,自由党が結成されるとこれに対抗してプロテスタント,カトリック教会はそれぞれ政党を組織し,自由党の推進する公教育に対抗して私立(宗派立)学校への全額国庫補助を実現した。20世紀に入り自由党が衰退し代わって労働党が勢力をえると,宗教政党も労働組合を組織してこれに対抗した。その結果オランダ人の社会生活は,宗教,政治,文化からスポーツ,社交,さらに新聞,ラジオ,テレビに至るあらゆる領域を通じて縦割りに組織された。こうしてほとんどの国民は,プロテスタント,カトリック,非宗派,労働党のうちいずれかの下位文化に所属している。しかし第2次大戦後,各政党は開かれた国民政党を目ざし,他方で,国民の中産化,都市化,画一的なマスコミの普及,若者の管理と拘束への反発や教会離れなどが生じた結果,伝統的な縦割り社会は動揺しつつある。

 オランダ人の生活は,室内に閉じこもる冬と屋外の生活を楽しむ夏に分かれる。3月末あるいは4月初めの復活祭の頃から春の気配が感じられ,4月末の女王誕生日,5月5日の解放記念日を中心にチューリップやヒアシンスの満開期を迎えるが,まだ風も強く寒い。6月から8月は夜の10時近くまで明るく,最も楽しい季節であり,またバカンスのシーズンでもある。オランダ人はバカンス手当(日本のボーナスにあたる)を手にして,1ヵ月近く海や森へあるいは海外旅行に出かける。夏が終わると短い秋が到来し,新しい学期と音楽シーズンが始まり,やがて長い冬が訪れる。12月5日のシント・ニコラス祭,クリスマスの頃になると朝9時ごろまで暗く,午後3時過ぎると薄暗く,昼間も曇りがちとなる。オランダ人が好んで使う〈ヘゼリヒgezellig(楽しい)〉という言葉が〈他人とつき合う〉を意味することからもわかるように,オランダ人は,家族や友人とのつき合いを無上の楽しみとして貴ぶ。オランダ人は1年を通じて決まった曜日に決まった友人・家族同士訪問し合い,コーヒーとチョコレートとジンを飲みながら深夜まで歓談し,若い人の誕生日などには明け方までおしゃべりやダンスに興じるのが普通である。

1968年オランダは高校,大学進学者の増大,急激な工業化と社会変動に対応して小学校から大学に至る広範な学制改革を行った。現在,義務教育は9年で,そのうち6年間は小学校(小学校の7割は私立校。ただし全額国庫負担)で,残りの3年間の中等教育は多種多様な形態で行われる。すなわち6年の基礎教育課程を終えた児童のうち約4割は中等職業訓練学校(4~6年)へ進み,他はヒムナシウム,アテネウムと呼ばれる大学進学コース(VWO,6年制),大学へも進学できる後期中等普通教育(HAVO,5年制),前期中等教育(MAVO,3~4年制)に分かれて進学する。MAVOと中等職業訓練学校の卒業生は高等職業訓練学校へ進むことができる。大学は国・公・私立合わせて,六つの総合大学と七つの単科大学がある。なお成人学級活動も盛んである。

近世初め人文主義者エラスムスを生んだオランダには,独立後まもない17世紀前半,アムステルダムを先頭とする商業都市の富裕な市民層を基盤として文化の黄金時代が到来した。オランダ美術を代表するレンブラント,フェルメール,ハルス,哲学者スピノザ,国際法のグロティウス,自然科学のホイヘンス,レーウェンフック,スワンメルダム,数学のステフィン,さらに詩人ホーフトや詩人・劇作家フォンデルなどが活躍し,独自の国民文化を創造した。オランダ人の実際的能力と創造力はまた干拓,築堤などの水利,土木などに発揮され,オランダは近代西欧文化の生成と発展に大きく貢献した。

 18世紀以降,国力と経済力が不振になると,文化もまた沈滞し,ようやく19世紀後半における議会制や近代化の本格的な開始とともに学問・文化の発展も再開された。とはいえ,イギリス,ドイツ,フランスのような文化大国に囲まれてそれらの影響下にあったことは否定できない。1860年,E.ダウエス・デッケルがムルタトゥーリの筆名で《マックス・ハーフェラール》を発表して東インド植民地における過酷な搾取の実態を批判して衝撃を与え,85年詩人クロース,フェルウェー,批評家L.ファン・デイッセルらが《新道標Nieuwe Gids》を創刊して新文学建設の旗手になった。〈80年代の運動〉と呼ばれる文芸復興以後,100年の間オランダは優れた詩人,散文作家,劇作家を多数輩出したが,残念ながらオランダ語という言語の壁に阻まれて作家も作品も国際的な知名度は高くない。この点では,《中世の秋》や《エラスムス》などで世界中に読者をえた歴史家のホイジンガや英語の著作の多いヘイルは例外といえよう。ただし自然科学の研究水準は高く,エイントホーフェン(生理学),デバイ(物理学・化学),C.エイクマン(生理学)ら10名を超えるノーベル賞受賞者を出しており,国際的に知られた研究所も少なくない。絵画においては19世紀末にゴッホ,20世紀にバン・ドンゲンVan Dongenがフランスで,モンドリアンがアメリカで活躍した。

 建築では,17世紀にファン・カンペンがアムステルダム市庁舎,ハーグのマウリッツハイスを残し,19世紀後半のカイペルスはネオ・ゴシック様式のアムステルダム国立美術館,アムステルダム中央駅を建て,20世紀になってベルラーヘはアムステルダムの株式取引所の設計で合理的な近代性を追求した。戦間期の〈デ・ステイル〉グループは画家のモンドリアン,ファン・ドゥースブルフも加え,アウト,リートフェルトらが幾何学的形態と明確な空間の創造を唱え,国際的反響を呼んだ。第2次大戦後のモニュメンタルな作品にはロッテルダムのラインバーン,ユーロマスト,スキポール空港ビルなどがある。

 ヨーロッパ文化圏のまっただ中にあって,オランダのような小国が他の文化大国の文化に圧倒されないで独自性を主張することはむずかしい。しかも,かなりのオランダ人は英・仏・独語を学習しているので外国の文学,芝居,映画などを十分に理解できるからなおさらそうである。第2次大戦後豊かな社会生活には多様で活発な文化活動が必要なことを認識した政府は,音楽,演劇,オペラなどに多額の国家助成金を出している(例えば,現在19のオーケストラが国家補助を受けている)。
オランダ美術 →オランダ文学
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15~16世紀にネーデルラント出身の音楽家が,多声音楽の担い手としてヨーロッパ中で数多く活躍したが,そのほとんどは南部出身であり,現在のオランダ出身者は,A.アグリコラ,J.オブレヒトなど数少ない。1581年に新教国としてスタートしたオランダは,富裕市民階級を中心に音楽面でも飛躍的に発展した。最も注目されるのが,オルガン,チェンバロによる鍵盤音楽の興隆である。17世紀初め,アムステルダムで活躍したスウェーリンクJ.P.Sweelink(1562-1621)はその代表的作曲家で,オルガン音楽では,北ドイツ出身のオルガニストを多く育て,北ドイツ・オルガン楽派の祖となり,チェンバロ音楽でも,イギリスのバージナル音楽の伝統を吸収し,高い技巧を加味した独自の様式を打ち出した。当時,カルバン派教会の礼拝では,会衆による詩篇歌のみ許され,オルガン演奏は禁止されていたが,市当局主催の,市民のためのオルガン演奏会は各地で盛んに行われた。それ以来オルガンは,オランダで,カリヨンと並んで国民的に愛好される楽器となった。

 17~18世紀にオランダ各都市に生まれた市専属の音楽家を含む市民の演奏団体は,市民に鑑賞の場を提供し,近代の公開演奏会の先がけとなった。19世紀前半はドイツ・ロマン派の影響が強かったが,19世紀末から20世紀初めにかけて,ズウェールスB.Zweers(1854-1924),レントヘンJ.Röntgen(1898-1969),ディーペンブロックA.Diepenbrock(1862-1921),ウァフナールJ.Wagnaar(1862-1941)らの作曲家が出て,オランダ音楽を世界的水準にまで高めた。1888年に設立されたアムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団は,名指揮者メンゲルベルクとのコンビで,世界有数のオーケストラに成長した。20世紀の主要作曲家として,パイパーW.Pijper(1894-1947),アンドリーセンH.Andriessen(1892-1981),バディングスH.Badings(1907- ),ファン・バーレンK.Van Baaren(1906-70)があげられる。

 近年注目されるのはルネサンス・バロック音楽の再興で,リコーダーのF.ブリュッヘン,チェンバロのG.レオンハルトなどの演奏家のめざましい活躍により,オランダは古楽器の演奏と研究でヨーロッパの中心となっている。

 民族音楽は,カトリック圏にとどまった南部ネーデルラント(ベルギー,ルクセンブルクなど)が,宗教的年中行事に伴う伝統音楽,土俗的な楽器・舞踏などを地方色豊かに今日まで伝えているのに比べて,禁欲的なカルバン派に転じた北部(オランダ)では,特徴的なものは少ない。古くからの民謡,独立戦争当時作られた俗謡,風刺歌が,曲集としていくつも出版され,印刷譜として伝承されている。舞曲は,南部にはルネサンス舞曲の流れを汲むものが多いが,オランダ,特に北部のフリースラントでは,スコットランドから伝わった軽快なリールが中心をなす。楽器は,ロンメル・ポットと呼ばれる唸るドラム,ホンメルと呼ばれるチターの一種,リエールと呼ばれるハーディ・ガーディ,ドゥーデルザックと呼ばれるバッグパイプ,木靴を胴体にした小型フィドルなどがあげられる。今日オランダの街角で見かける自動オルガンは19世紀に登場したものだが,大道芸人のなごりをとどめたものといえる。
ネーデルラント楽派
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日本とオランダの関係は他のヨーロッパ諸国に比べて深く長い。1598年6月西回りでアジアに向けてオランダを出航した5隻のオランダ船隊のうちの1隻リーフデ号が1600年4月19日(慶長5年3月16日)豊後の海岸に漂着した。110人の乗組員のうち生き残った者わずかに24名で,その中には首席航海士ウィリアム・アダムズ(イギリス人),ヤン・ヨーステンらがいた。船長カーケルナックは徳川家康から通商許可状を受け,1605年タイのパタニにあるオランダ東インド会社の貿易基地に無事到着し,東インド会社は09年平戸にオランダ商館を設立した。35年(寛永12)家光は鎖国政策を実施し,41年オランダ商館を平戸から長崎の出島に移した。これ以後1860年(万延1)の商館閉鎖まで,出島は鎖国時代の日本がヨーロッパの文化・芸術・科学を学び,諸外国の動向を知る唯一の窓口であった。鎖国時代に長崎在住のオランダ人から学んだヨーロッパの文化と科学に関する知識(蘭学)によって,日本は幕末・維新期におけるヨーロッパ諸国の進出という未曾有の危機に対処することができ,また明治期に急速にヨーロッパ文化を吸収し受容するための実力を準備したのである。

 オランダ人からヨーロッパ文化と科学を学ぶうえで,オランダ語の学習は必要不可欠のものであった。オランダ語研究は平戸や長崎の通詞たちによって行われていたが,1720年(享保5)吉宗により洋学の制限が緩和されると,オランダ語と蘭書の研究は盛んになった。青木昆陽,前野良沢,杉田玄白らの忍耐強い努力を引き継いで,大槻玄沢の《蘭学階梯》(1788),稲村三伯の《ハルマ和解》(1796),桂川甫周の《和蘭字彙》(1855)が完成された。志筑忠雄,宇田川玄随,玄真,箕作阮甫,緒方洪庵らの名前も蘭学史上よく知られ,緒方の適塾は大村益次郎,福沢諭吉らの逸材を生んだ。東インド会社の医師として来日したケンペル(日本滞在1690-92),フォン・シーボルト(同1823-28,1859-62),ポンペ(同1857-63)らは医療活動と教育を通じて西洋医学の普及に偉大な足跡を残したばかりでなく,日本文化の研究と著作を通じて日本をヨーロッパへ紹介した。こうして日本人は長崎商館に勤務する知的なオランダ人からあらゆる分野のヨーロッパの知識を吸収し,その総仕上げとして,西周,津田真道ら15名の幕末オランダ留学生が派遣されたのである。

 オランダ東インド会社から日本への輸入品は中国産の生糸,絹織物が8割を占め,ほかに綿布,皮革,蘇木,砂糖,香料,薬種,中国産陶器などがあり,日本からの輸出品は大量の銀,金,銅,ショウノウ,陶器などであった。東インド会社にとって日本銀は法外の利潤の源泉であり,香料諸島(モルッカ諸島)におけるコショウの入手にも必要欠くべからざるもので,会社のアジア貿易において中枢的意義を担ったが,銀の大量流出に驚いた幕府によって1668年(寛文8)その輸出は禁止された。

 鎖国時代の日蘭関係において,日本がオランダに与えたほとんど唯一の文化的インパクトは,オランダへ輸出された大量の日本磁器である。すでに16世紀から中国の景徳鎮窯などで生産された磁器類が大量にヨーロッパへ運ばれ,ヨーロッパ人の関心をひきつけていた。富裕なオランダ人は争って高価な中国磁器を購入し,食器としてまた暖炉や壁や食器棚の装飾品として珍重した。1650年代,明末・清初の争乱で中国産磁器の生産が停滞したとき,東インド会社は中国磁器の代替品を有田焼に求めた。1660-80年(万治3-延宝8)に,有田窯で生産された染付磁器の膨大な量がヨーロッパ市場へ送られ,しかもこれらの磁器は会社が本国から送った型見本に従って制作されたのである。18世紀初頭にヨーロッパでようやく磁器生産が開始されたが,もちろん東洋磁器の圧倒的影響のもとにおいてである。現在オランダで生産されるタイルやデルフト焼に有田焼の影響をみることができよう。

 明治期になり,御雇外国人として何人かのオランダ人の来日,公使館,領事館の設置があったものの,もっぱら欧米の諸大国のみに目を向けた日本にとって小国オランダは注目を引かなかったといえる。第2次世界大戦中,日本はオランダの敵対国となり,1942年にはオランダ領東インドを占領し,在住オランダ人を強制収容所に収容した。戦後,航空協定,通商協定,租税条約が結ばれ,さらに80年にはファン・アフト首相が来日して文化協定を締結した。懸案は貿易不均衡是正問題で,日本からの自動車,テレビ,ラジオ,ビデオ・テープ,化学・金属製品などの輸入により,オランダ側は約10億ドルの輸入超過である。現在,在オランダの邦人数は数千人,日本企業は数百社で,在日本のオランダ人やオランダ企業も増えつつある。またオランダへの邦人観光客の数は非常に多く,学問・芸術の交流も盛んである。ライデン大学には日本学・韓国学センターが置かれ,日本語および日本研究の学生が増えつつあり,各大学にも日本研究者がいるのに対して,日本においてオランダ語およびオランダ研究に従事する研究者,学生は非常に少数であり,鎖国時代の日・オランダ関係と逆転している。

 1990年代になって日本企業のオランダへの進出が活発になり,日本とオランダの経済関係は密接になりつつある。オランダ側は95年から,大学を卒業した20代の優秀な若者を日本で研修させるために国費で派遣する〈ジャパン・プログラム〉を開始した。
洋学
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百科事典マイペディア 「オランダ」の意味・わかりやすい解説

オランダ

◎正式名称−ネーデルラント王国Koninkrijk der Nederlanden/Kingdom of The Netherlands。◎面積−4万1540km2(海外領土を除く)。◎人口−1683万人(2014,海外領土を除く)。◎首都−アムステルダムAmsterdam(78万人,2011)。◎住民−ほとんどがゲルマン系オランダ人。◎宗教−カトリック33%,プロテスタント23%など。◎言語−オランダ語(公用語)。◎通貨−ユーロEuro。◎元首−国王,ウィレム・アレキサンダーWillem Alexander(1967年生れ,2013年4月即位)。◎首相−マルク・ルッテMark Lutte(2012年11月再任)。◎憲法−1814年制定。◎国会−二院制。上院(定員75,州議会が選出,任期6年,3年ごとに半数改選),下院(定員150,任期4年)。2011年5月上院選挙結果,自由民主党16,労働党14,キリスト教民主勢力11,自由党10,社会党8,民主〈66〉5,グリーン・レフト5など。◎GDP−8603億ドル(2008)。◎1人当りGDP−4万431ドル(2008)。◎農林・漁業就業者比率−3.1%(2003)。◎平均寿命−男79.2歳,女82.9歳(2012)。◎乳児死亡率−3.7‰(2012)。◎識字率−100%。    *    *ヨーロッパ北西部の王国。オランダの語源であるホラントはオランダの一州名で,ネーデルラントは〈低地〉を意味する。首都アムステルダム(王宮,政府諸機関所在地はハーグ)。海外領土としてカリブ海にクラサオ島,シント・マールテン島とアルバ島をもつ。〔自然・産業〕 国土の大部分は低平で,4分の1は海面より低く(ポルダー),最高点は標高321m。低地はライン川,マース川などによる沖積地で,北海岸には砂丘が連なる。東部,南東部は標高100m前後の丘陵地。年平均気温は10℃前後,年雨量約700mm。 第2次大戦まで植民地貿易に依存していたが,戦後は工業生産に重点がおかれ,国内総生産の4分の1を鉱工業生産が占める。古い歴史をもつ繊維工業のほか,造船・機械・鉄鋼業も盛んで,石油化学工業,電機産業が発展をとげた。チーズ,チョコレートなどの食品工業もある。石炭は乏しいが,北海沿岸で石油,天然ガスが採掘される。農業は中小規模の集約農業で,酪農,園芸(チューリップ栽培など)が盛ん。〔歴史〕 古くローマ帝国,のちフランク王国の支配を受けたが,10−13世紀に封建化が進み,小邦が分立した。11世紀十字軍時代以降の遠隔地貿易復活に伴い都市が発達し,また手工業,特に毛織物工業がフランドル地方を中心に発展し,14−16世紀には世界的な通商中心地となった。14世紀にブルグント家領,15世紀以降はハプスブルク家領となった。16世紀後半−17世紀初めにハプスブルク家出身の国王を戴くスペインと戦い(オランダ独立戦争),独立(オランダ共和国)に成功した。この間ルネサンス,宗教改革時代を通じて学問・芸術諸分野に大きな業績をあげ,また海外発展により植民地を獲得しオランダ東インド会社などを設立,オランダは最盛期を迎えた。1600年リーフデ号の豊後(ぶんご)漂着以来日本との交渉が始まり,以後鎖国時代には唯一の西欧文明の窓口となった。しかし17世紀末英国との争覇戦に敗れて以後衰退した。 1810年ナポレオンによりフランスに併合されたが,ウィーン会議後の1815年にベルギーと合体して新王国ができた。1830年の七月革命でベルギーが分離・独立した。19世紀後半からは産業革命と対植民地貿易で繁栄の基礎を築き,資本主義が発展していった。第2次大戦後最大の海外領土インドネシアが独立した。第2次大戦で中立を表明したにもかかわらずドイツに占領されたことから,戦後は西側陣営に加わり,NATOの原加盟国となった。EC(現EU(ヨーロッパ連合))の原加盟国でもある。2002年安楽死合法化法が発効。イラク戦争では,約1300人の部隊をイラク南部に派遣。2013年4月30日,ベアトリックス女王が退位し,ウィレム・アレキサンダー新国王陛下が即位した。女王の退位式及び新国王の即位式は,同日アムステルダムにて行われた。〔経済・政治〕 1970年代はオイル・ショックなどの要因によって経済は悪化し,さらに北欧並みといわれる社会福祉が負担となり,〈オランダ病〉とよばれる低迷期が続いた。財政赤字と失業率が増大し,失業率は1980年代半ばに12%にまで悪化した。1982年から1994年まで3期にわたって,中道保守派のキリスト教民主連盟(CDA)を中心とする政権が失業手当の削減,公務員給などの財政支出大幅削減に取り組み,他方,民間投資への刺激策などにより経済回復策を打ち出した。とくに1982年,政府・労働者・企業家(政労使)の3者によって実現された〈ワッセナー合意Wassenaar Agreement〉が有名で,労働者側が賃金引き上げ要求を抑制し,かわりに企業家側がパートタイム就業を正規雇用として認めるワークシェアリング方式で,国外市場での競争力の維持・強化をはかるとともに雇用機会の拡大を実現した。この政策は効果を発揮し1989年には過去10年間でもっとも高い経済成長率と低い失業率を達成した。1990年代はヨーロッパの主要国が軒並みマイナス成長や高い失業率に悩むなかで,オランダは好調な対ドイツ輸出,減税による国内消費の増大,設備投資の増大などで周辺諸国に比べて良好な経済状態を維持し,1990年代後半は政府見通しを上回る景気回復を遂げた。2001年ごろからの世界的な経済不況の影響で2002年の経済成長率は0.1%にまで落ち込むが,その後再び回復,2007年の経済成長率は3.6%を達成した。失業率は1994年〜1996年の平均6.47%から,2005年〜2007年の平均3.9%へと向上。2008年第3四半期の失業率は3.82%とEU加盟国中でもっとも低かった。オランダはEUの優等生といわれ,オランダ国債の格付けはドイツ,フィンランド,ルクセンブルグとともに最上位のトリプルA(AAA)にランクされた。しかし,2008年の世界金融危機による不況でマイナス成長に落ち込み,2010年は1.7%のプラスとなったものの財政赤字は5%をこえ,失業率も次第に増大傾向に向かっている(2012年時点4.9%)。ギリシアの財政破綻に端を発するユーロ危機ソブリンリスクでは,ドイツ・フランスが進めるギリシア支援など,EU・IMFの金融支援負担には厳しい姿勢を取った。2010年6月の議会選挙で,財政削減を掲げる右派の野党・自由民主党が第1党となり,社会政策重視の労働党が第2党,イスラム移民排斥を掲げる極右政党の自由党が第3党に躍進した。連立協議は難航し,ようやく同年10月に自由党の閣外協力を得てマルク・ルッテ率いる自由民主党を中心に少数与党連立政権が発足した。しかし,与党が進める財政赤字削減策に反対して社会政策を重視する左派・野党勢力の合意がならず,さらに移民法の厳格な適用と排外主義を主張する極右・自由党も世論の支持率を背景に緊縮財政に反対を表明。2012年4月,ルッテ内閣は総辞職を表明し2012年秋に行われる総選挙までの暫定政権となった。2012年9月の総選挙で,自由民主党は党創立以来最多の41議席を獲得,第1党を維持し,自由党は大敗(15議席),労働党は38議席と躍進した。ルッテは労働党との連立交渉に成功し,11月,第二次ルッテ内閣が発足,連立合意による160億ユーロの財政支出削減と社会政策の改革に取り組むこととなった。EUの原加盟国であり,EUの優等生といわれたオランダの動向は欧州債務問題の長期化・深刻化のなかで注目されたが,ルッテ内閣の成立でEUと協調路線を取ることが明らかとなり,ドイツをはじめEU諸国から歓迎されている。
→関連項目アムステルダムオリンピック(1928年)環境税ベームステル干拓地

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「オランダ」の意味・わかりやすい解説

オランダ
Holland; The Netherlands

正式名称 オランダ王国 Koninkrijk der Nederlanden。
面積 4万1526km2
人口 1752万3000(2021推計)。
首都 アムステルダム

ヨーロッパ北西部の国。行政府と議会などはハーグに,王宮はユトレヒト州のスーストダイク(→スースト)にある。東はドイツ,南はベルギーに接し,西および北は北海に面し,国内は 12の州に分かれている。ほかに海外の自治領としてアルバキュラソーシントマールテンをもつ。南東部のリンブルフ州中生代の岩石からなる丘陵地帯(323m)があるほかは,全体に低平で,国土の 4分の1以上は海面より低く,多くの砂丘や堤防により海水の浸入を防いでいる。南部および東部には,氷堆石丘や泥炭地を交えた砂質土の地帯がある。東部中央の氷堆石丘地帯は厚い森林で覆われているが,北東部の泥炭地帯では開発が進んで耕地や放牧地が多い。南西部はライン川とマース川の沖積地で,沼沢地も多く,集落や耕地は自然堤防上に立地する。北海沿岸部は,砂丘や堤防を連ねて干拓が進められている,いわゆるポルダー地帯である。気候は海洋の影響を受けて温暖で,平均気温は冬でも氷点前後,夏は約 21℃であるが,天候はきわめて不安定で,晴天日数は年間約 25日にすぎない。西ないし南西の風が卓越し,沿岸部では強風に見舞われることが多い。オランダは人口密度が高いことで知られるが,1950年代中頃からは人口の都市集中も激しく,都市人口率は 90%近くに達している。公用語はオランダ語。キリスト教のプロテスタントが全人口の約 20%,カトリックが約 30%を占める。ロッテルダム,ハーグ,ライデン,アムステルダム,ユトレヒトなどの都市を含む半環状の地帯は,酪農地帯を取り囲んで,人口,産業の集中の著しい一大都市圏を形成しており,「ラントスタット」と呼ばれている。国土の 70%近くが農用地で,酪農と畜産,果樹とチューリップクロッカスなどの園芸農業に特色がある。工業化は,天然資源の産出がないため遅れたが,19世紀中頃から農産物加工,造船,織物,製紙などの伝統的工業の近代化に努め,さらに電気機器,機械などの部門が加わった。20世紀に入り,リンブルフ炭田の開発により製鉄,金属工業が発達,さらに第2次世界大戦後は,石油精製,石油化学,航空機製造などの近代工業も著しく伸び,工業製品の輸出は多い。オランダでは,内陸水路網の発達が顕著であるが,海運の面でも世界有数の船舶保有国である。ロッテルダムやアムステルダムが水運業の中心で,特にロッテルダム港湾地区に建設されたユーロポールトは,北西ヨーロッパで最重要の港である。ベルギー,ルクセンブルクとともにベネルックス経済同盟を結んでおり,経済的関係が深い。ヨーロッパ連合 EU,北大西洋条約機構 NATOの原加盟国。(→オランダ史

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「オランダ」の解説

オランダ
Nederlanden[オランダ],The Netherlands/Holland[英]

正式の国名はネーデルラント王国。オランダという呼び名は,16世紀末に独立した後の政治体制においてホラント州が優位を占めたことに由来する。ネーデルラントの一部を占めたこの地方は,中世において毛織物工業の繁栄を背景にして遠隔地を対象にする中継貿易を担ってヨーロッパの中枢としての地位を固め,スペイン・ハプスブルク家の圧政に抗してオランダ独立戦争を戦って,オランダ連邦共和国として1648年独立を達成。東インド会社によって東南アジアなどに進出,学問・芸術の分野でも黄金時代を迎えたが,17世紀後半以降はイギリス,フランスとの抗争に敗れてしだいに衰退した。1795年フランス軍の侵入によって共和国は解体させられ,バタヴィア共和国が成立。ナポレオンは弟のルイ・ボナパルトを国王に任命してオランダ王国とし,さらにフランスと合併した。1815年ウィーン会議の結果,ベルギーをあわせて王国として復活(のちにベルギーは独立)。1860~70年頃産業革命を達成。第一次世界大戦においては中立を守ったが,第二次世界大戦ではドイツ軍に占領され,主要都市は壊滅的な打撃をこうむった。1609年江戸幕府と通商関係を開き,長崎出島に商館をおいて鎖国下に交渉のあった唯一のヨーロッパの国として,日本とも深いかかわりを持ち,ヨーロッパ文化の伝達にも大きな影響を与えた。

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旺文社世界史事典 三訂版 「オランダ」の解説

オランダ
Holland (オランダ)
Netherlands (イギリス)

ヨーロッパ北西端,北海に面し,ベルギーに隣接する立憲君主国。首都アムステルダム
近代国家としてはネーデルラント王国を意味するが,俗称では中心的な州の名によりホラント(なまってオランダ)という。カール1世のときフランク領となり,ヴェルダン・メルセン両条約により東西フランクにまたがったが,14世紀にブルグント公領となり,さらに1477年,婚姻によりオーストリア−ハプスブルク家領となった。1556年ハプスブルク家の二分に際し,この地はスペイン領となる。1568年に独立戦争を起こし,81年北部7州はネーデルラント連邦共和国を形成,1648年ウェストファリア条約で正式に独立が承認された。17世紀にはアムステルダムを中心にヨーロッパ一の経済大国となり,海外領土も拡大し,文化も栄えた。しかし17世紀後半の英蘭戦争に敗れて衰退し始め,名誉革命後,一時イギリスと同君連合になった。さらにフランスのルイ14世の侵入をうけ,その後フランス革命・ナポレオン時代はフランスの支配下に置かれた。1815年ウィーン会議の結果,南ネーデルラント(ベルギー)をあわせてネーデルラント王国(オランダ立憲王国)となり,オラニエ家の世襲する統一国家の体制を整えた。1830年南ネーデルラントがベルギーとして分離独立。1848年全ヨーロッパに革命機運が高揚したなかで責任内閣制が確立し,立憲君主国となった。第一次世界大戦中は中立を守ったが,第二次世界大戦ではドイツにより中立が侵犯された。第二次世界大戦後は北大西洋条約機構(NATO)・ベネルクス同盟・ヨーロッパ連合(EU)の一員。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「オランダ」の解説

オランダ

ヨーロッパ北西部に位置する国。漢字表記は阿蘭陀・和蘭。16世紀,ネーデルラント連邦共和国として独立。商業国家として発展。海外へも進出したが,イギリスやフランスの台頭により衰退。19世紀には立憲君主国となった。日本との関係は1600年(慶長5)オランダ船リーフデ号の豊後海岸漂着に始まる。09年徳川家康の通商許可を得て平戸に商館を設立。41年(寛永18)商館を長崎出島に移転,鎖国期にはヨーロッパ唯一の通交国となる。同年以降世界の情勢を伝えるオランダ風説書が幕府に提出され,出島商館員や商館長の江戸参府などの交流が進み蘭学がおこった。1840年からのアヘン戦争を機に,44年(弘化元)国王ウィレム2世が軍艦パレンバンを派遣して開国を勧告するが,幕府は拒絶。ペリー来航後の55年(安政2)日蘭和親条約,58年日蘭修好通商条約を締結,両国は新たな外交関係に入り,62年(文久2)榎本武揚(たけあき)・西周(あまね)・津田真道らが幕府留学生として派遣された。第2次大戦では日本がオランダ領東インド(現,インドネシア)を占領,捕虜虐待などの関係から現在も対日悪感情が根強く残る。1951年(昭和26)サンフランシスコ講和条約に調印。正式国名はオランダ王国。立憲君主制。首都アムステルダム。

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知恵蔵mini 「オランダ」の解説

オランダ

ヨーロッパ北西部に位置する立憲王国。正式名称は「オランダ王国(Kingdom of the Netherlands)」。公式の英語表記は「the Netherlands(ザ・ネザーランズ)」で、2020年より通称の「Holland(ホランド)」は廃止された。構成国にカリブ海のアルバ、キュラソー、シント・マールテンなどがある。国土面積は4万1864平方キロメートルで、その4分の1は海面より低い。人口1738万4000人(2019年9月オランダ中央統計局)。公用語はオランダ語。首都はアムステルダムだが、政府機関はハーグに置かれている。ハプスブルク家やスペインによる統治の後、1648年にオランダ連邦共和国として独立。17世紀中頃にアジア諸国との貿易によって大きく発展した。その後、イギリス・オランダ戦争での敗北やフランスによる併合を経て、1815年にオランダ王国が成立。30年にベルギーが分離独立し、現在の国土となっている。

(2020-1-15)

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旺文社日本史事典 三訂版 「オランダ」の解説

オランダ
Holland

西ヨーロッパ,北海に面した立憲君主国
1581年スペインから独立。17世紀には世界貿易を支配。日本との交渉は,1600年リーフデ号の豊後漂着に始まり,'09年平戸に商館を開設,新教国として江戸期の日本貿易を独占した。幕末まで西洋文化の仲介者の役割を果たし,『和蘭 (オランダ) 風説書』を幕府に提出,蘭学興隆の源ともなった。

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デジタル大辞泉プラス 「オランダ」の解説

オランダ

大分県国東市の郷土料理。ナスと苦瓜(ゴーヤ)を炒めたものに水溶き小麦粉でとろみをつけたもの。味付けは醤油、味噌など家庭により異なる。野菜を炒めるときに大きな音がすることから、当地の方言で「叫んだ」を意味する“おらんだ”の名がついたとされる。

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世界大百科事典(旧版)内のオランダの言及

【ホラント】より

…オランダ西部の地方で,北海に面する。語源は,ホルトラントHoltland(木の国)。…

※「オランダ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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