ドイツの作曲家。ハンブルクに生まれ,同市の管弦楽団のコントラバス奏者であった父から音楽の手ほどきをうけ,幼時から才能を示した。ピアノと作曲理論を学んだマルクスゼンEduard Marxsenからはバッハ,ベートーベンをはじめ古典音楽の真髄を伝授され,音楽形成にとって決定的な影響をうける。1853年ハンガリー生れのバイオリン奏者レメーニイReményi Edeと知り合い,いっしょに演奏旅行に出かけるが,このときに彼からハンガリー・ジプシーの音楽様式を教えられ,以後ジプシー音楽に深い関心を抱くようになる。同年バイオリンの大家J.ヨアヒムを知る。そして同年秋デュッセルドルフにシューマン夫妻を訪ねる。R.シューマンはブラームスの作品とピアノ演奏に深い感銘をうけ,雑誌《音楽新時報》に《新しい道》と題する評論を草して彼を世に紹介し,さらにシューマンの推薦により彼の最初期のピアノ・ソナタ,歌曲集などが出版された。その後デトモルトの宮廷の指揮者,ハンブルクの女声合唱団の指揮者を務めるかたわら創作に専念する。この間,デトモルトではいくつかの合唱曲のほかに2曲の管弦楽曲《セレナード》(1858,59),《弦楽六重奏曲第1番》(1860)を,またハンブルク時代にはピアノ変奏曲の金字塔ともいうべき《ヘンデルの主題による変奏曲とフーガ》(1861),全5集の歌曲集《マゲローネ》の最初の2集(1861,62)などを作曲し,また《ピアノ協奏曲第1番》(1858)の初演を行った。60年彼はF.リストを中心とする新ドイツ派と呼ばれた革新的なグループに対して,彼らと芸術的・美学的信条を異にする旨の宣言文をヨアヒムらと連名で発表し,のちにR.ワーグナーたちからの非難を招くことになる。
62年9月生活の本拠をウィーンに移し,64年まで同市のジングアカデミーの指揮者を務める。63年ポーランド生れのピアノの巨匠C.タウジヒとの親交から,ピアノのためのきわめて技巧的な《パガニーニの主題による変奏曲》を作曲。68年畢生の大作である《ドイツ・レクイエム》によって作曲家としての地位を確立した。この曲は着想から10余年にわたる紆余曲折(うよきよくせつ)を経て完成されたのであるが,その背景にはシューマンの悲劇的な死(1856)と母親の死(1865)の体験が深くかかわっている。彼はこの曲の成功に力を得て《ラプソディ》(1869。アルト独唱,男声4部,管弦楽という編成から《アルト・ラプソディ》と通称される),《運命の歌》(1871)などの壮大な合唱曲を次々に完成する。
72-75年ウィーン楽友協会の芸術監督として同協会の管弦楽団と合唱団を指揮し,自作の発表のみならず当時まだ一般に知られていないバロック音楽の紹介に貢献した。73年《ハイドンの主題による変奏曲》を管弦楽用と2台のピアノ用の2稿作曲,76年夏には着想から実に20余年の歳月を費やして《交響曲第1番》を完成する。それに続く数年間は彼の創作活動における最も多産な時期で大規模な作品が集中的に書かれた。すなわち,《交響曲第2番》(1877),《バイオリン協奏曲》(1878),《バイオリン・ソナタ第1番》(1879)と続き,79年ブレスラウ(現,ブロツワフ)の大学から名誉哲学博士の称号が贈られ,その返礼として《大学祝典序曲》(1880)を,また前後して《悲劇的序曲》(1880)を作曲する。81年には恩師マルクスゼンのために《ピアノ協奏曲第2番》を書いて献呈する。さらに同年合唱曲《哀悼の歌》,83年《交響曲第3番》,84年《交響曲第4番》が次々に誕生した。86-88年の夏はスイスのトゥーン湖畔に滞在し,《チェロ・ソナタ第2番》(1886),二つの《バイオリン・ソナタ》(1886,88),《ピアノ三重奏曲第3番》(1886)などの重要な室内楽曲を作曲した。
それ以後彼は大規模な管弦楽曲や合唱曲の作曲に興味を失い,もっぱら室内楽曲やピアノ曲,歌曲などの創作に専念するようになる。89年ハンブルク市から名誉市民に推され,オーストリア皇帝からレオポルト勲章を授与される。翌年《弦楽五重奏曲》を作曲後,みずから創作力の衰えを悟り,91年には遺書を書いた。しかし,マイニンゲンの宮廷管弦楽団の優れたクラリネット奏者ミュールフェルトRichard Mühlfeldとの出会いから再び創作欲を燃やし,クラリネットのための一連の室内楽曲,《クラリネット三重奏曲》《クラリネット五重奏曲》(ともに1891),二つの《クラリネット・ソナタ》(ともに1894)を完成する。96年聖書に基づく歌曲《四つの厳粛な歌》の完成と前後して,ブラームスの生涯の心の友であったクララ・シューマンが死去。その悲しみと極度の衰弱からみずからも死を予期したかのように,《ああ世よ,私は去らねばならない》という曲で結ばれるオルガンのための《11のコラール前奏曲》を同年夏に作曲。これが絶筆となった。
ブラームスはロマン主義音楽の爛熟期のさなかにあって,時代の風潮に流されず,ドイツ古典音楽の伝統に深く根ざした独自の様式を確立した作曲家である。すなわち,彼は当時一般に顧みられなくなっていたソナタ,変奏曲,室内楽曲,交響曲などの古典的形式をいま一度蘇生しようと努めた。〈過去500年間の音楽作品の総体がブラームスの作品のうちに総計されている〉と彼の評伝を書いたガイリンガーKarl Geiringerも述べているように,中世の教会旋法,ネーデルラント楽派のカノン,パレストリーナ様式,フーガ,パッサカリア,無伴奏モテット,コラールなど遠く中世,ルネサンス時代にまでさかのぼる過去の遺産が彼の音楽作品のなかで新たな光のもとに復活している。例えば,《交響曲第4番》の緩徐楽章には教会旋法が使用され,終楽章は厳格なパッサカリアで書かれている。それゆえに,彼はしばしば〈古典的ロマン主義者〉とか,〈反ロマン的ロマン主義者〉などと呼ばれている。
ブラームスはオペラや交響詩には手を染めず,いくつかの例外(初期のピアノ・ソナタなど)はあるけれども,当時流行の標題音楽的傾向に走らなかった点でリストやワーグナーたちとは対立する立場をとった。とはいえ,彼が当時のロマン的風潮にまったく無関心であったわけではなく,むしろ同時代の音楽を知悉(ちしつ)しその行く末を深く洞察していた。とくに彼のピアノの小品や歌曲には,きわめて個人的,主観的な感情表現が多くみられる。しかしブラームスの音楽の独自性は,そのようなロマン的感情が直接的ななまのかたちで提示されたり,形式を無視した極端に走らず,つねに綿密な構成原理によって知と情の均衡を保っている点にある。このことは彼が用いた作曲技法から明らかである。彼は動機的展開の技法,変奏の技法,対位法的技法の大家であった。さらに彼の音楽の独自性を示すもう一つの点は,この音楽がドイツ民謡の精神的風土から生まれはぐくまれているという事実である。ブラームスは自国の民謡ばかりでなく,他のさまざまな国の民俗音楽も数多く収集し研究して創作の糧とした。12集にのぼるドイツ民謡の編曲や全4集21曲からなるピアノ連弾のための《ハンガリー舞曲》(1852-69)はそのような成果の一例である。事実,彼の声楽曲はもとより,器楽曲の多くの主題やモティーフのなかに民謡風な性格が見いだされる。さらに彼の《バイオリン・ソナタ第1番》《同第2番》には,それぞれ自作の歌曲《雨の歌》(1873)と《歌の調べのように》(1886)の旋律が転用されている。一般に彼の管弦楽曲や室内楽曲が複雑・精緻な構造をもっているにもかかわらず,きわめて自然で親しみやすいのは,このような主題やモティーフのもっている民謡風,歌曲風な性格に由来しているといえよう。
執筆者:本田 脩
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ドイツの作曲家。19世紀後半の爛熟(らんじゅく)したロマン主義を代表する1人であると同時に、古典主義的な造形感を重視するドイツ音楽の伝統の継承者でもあった。
[土田英三郎]
1833年5月7日、ハンブルクに生まれる。父ヨハン・ヤーコプは町楽師で、のちにハンブルク・フィルハーモニーのコントラバス奏者となる。父から音楽の手ほどきを受け、オットー・F・W・コッセルにピアノを学ぶ。早くから楽才を示し、10歳でピアニストとしてデビュー。エドゥアルト・マルクスゼン、イグナツ・ザイフリートらから作曲・音楽理論を学ぶ。家計を助けるために苦学するが、20歳のときに最初の転機が訪れる。すなわち1853年春、ハンガリー出身のバイオリン奏者、エドゥアルト・レメーニー(ドイツ名ホフマン)とドイツ各地を演奏旅行したおり、名バイオリニスト、ヨーゼフ・ヨアヒムや楽界の有力者フランツ・リストらと知り合い、とくにヨアヒムは、一時の仲たがいを別にすれば、生涯の友人、助言者となった。デュッセルドルフにおけるシューマン夫妻との歴史的な出会いは同年9月30日で、シューマンはその直後に『音楽新報』誌でこの若き才能を紹介。年末には自作が初めて出版された(ピアノ・ソナタ第一番)。1856年に恩師シューマン没、その妻クララへの思慕と友情は生涯にわたり続いた。
1857年、デトモルト宮廷のピアニスト兼合唱指揮者として初めての公職につく。この時期、ソプラノ歌手アガーテ・フォン・ジーボルトと婚約するが、やがて解消。1859年辞職、以後も束縛を嫌って一つの職に長くとどまることをせず、有力な地位への就任要請をいくつも断ることになる。続いてハンブルクに戻り女声合唱団を組織、のちに同団員ファーバーのために有名な『子守唄(うた)』を作曲している。また、ウィーン出身の団員ベルタ・ポルブスキーを通じてこの都市への関心を高め、1862年あこがれのウィーンを初めて訪問。翌年からはこの地が活動拠点となった。1863~1864年に合唱団ジングアカデミー指揮者、1872~1875年には楽友協会演奏会指揮者として活躍、17、18世紀の音楽を積極的に発掘、紹介してゆく。ウィーンでは多くの重要な音楽家、知識人との交友に恵まれたが、とくに音楽評論家で反リスト‐ワーグナー派の論客エドゥアルト・ハンスリックの支持するところとなり、ワーグナー派・ブラームス派の対立図式が生まれた。しかしブラームス自身はそうした党派的思想対立とは無縁で、個人的にはワーグナーの芸術を高く評価していた。ウィーン時代初期にピアノを教えたエリーザベト・フォン・シュトックハウゼン(のちにフォン・ヘルツォーゲンベルク夫人)はブラームスのよき理解者となる。1865年に母が亡くなる。1868年に大曲『ドイツ・レクイエム』を完成、初演は大成功を収める。1871年プロイセン・フランス戦争の勝利に際しては、ビスマルクに敬意を表して皇帝に合唱曲を捧(ささ)げ、愛国者的な一面をのぞかせた。
1872年に父親が亡くなり、故郷との縁が薄れたのを契機にウィーン永住の意向を固める。そして1870年代後半からは、春と秋はウィーンにとどまり、冬は演奏旅行にあて、夏期にはペルチャッハ、イシュルなどの風光明媚(めいび)な保養地で作曲にいそしむという習慣ができた。1878年からは、春のイタリア旅行がときどきこれに加わるようになる。1876年夏、21年の歳月をかけた交響曲第一番ハ短調が完成。1877~1879年のペルチャッハ滞在はとくに多産で、交響曲第二番ニ長調、バイオリン協奏曲ニ長調をはじめ、多数の歌曲、いくつかのピアノ小品と室内楽が生まれた。1878年ボヘミア出身のドボルザークの才能に目を留め、積極的に後援する。1879年ブレスラウ大学から名誉博士号を授与され、返礼として『大学祝典序曲』を贈る。1881年から数年間、不本意なままにヨアヒムと絶交。彼の離婚訴訟をめぐり結果的に夫人側の証人となってしまったことが原因だった。同じころ、マイニンゲン宮廷楽団指揮者ハンス・フォン・ビューローとの本格的な交友が始まる。ビューローの好意で、この当時もっとも優秀な合奏能力を誇っていた楽団が自作の試演に提供された。以後ブラームスとこの宮廷および楽団との関係は深まってゆく。ピアノ協奏曲第二番変ロ長調(1881)、交響曲第四番ホ短調(1885)はその間の成果である。1883年若いコントラルト歌手ヘルミーネ・シュピースを知り、その才能に創作意欲を刺激される。1880年代末には故郷ハンブルク市から名誉市民の称号を、ドイツ、オーストリアの両皇帝からは勲章を授与されている。
1890年にいったん引退を考え、翌年には遺書を作成。厳格な自己批判から、過去の気に入らない作品や未完作品の草稿を多数破棄した。1891年にマイニンゲン宮廷のクラリネット奏者リヒャルト・ミュールフェルトの演奏に感銘を受けてからは、この楽器のための室内楽を数曲書いている。1896年シューマン未亡人クララが没し、心の痛手をいやすまもなく自らも肝臓癌(がん)に冒され、オルガンのための『11のコラール前奏曲』を最後の作品として、翌1897年4月3日、64年の生涯を終えた。
[土田英三郎]
ブラームスの音楽は、はでな自己表出を嫌う彼の内向的な性格を反映して、つねに沈潜したメランコリーをたたえている。作風はきわめてロマン的だが、他方で客観的・絶対音楽的な態度に貫かれ、とくに器楽作品ではソナタ形式、変奏曲、パッサカリアなどの伝統的な形式や技法に新たな生命が吹き込まれている。バッハやベートーベン、シューベルト、そしてシューマンからの影響、歌曲群に認められる深い文学的センス、民謡やワルツ、ハンガリー音楽などに対する高い関心も無視できない。
彼の創作活動は、〔1〕ピアノ大曲が中心で激しい感情表出を特徴とする初期(1851~1855)、〔2〕様式的過渡期(~1860年代中ごろ)、〔3〕管弦楽や合唱曲、室内楽などの大曲と多数の歌曲に代表される様式的完成期(~1890)、そして〔4〕瞑想(めいそう)的な室内楽やピアノ小品に彩られた晩年、の四期に区分することができる。創作のジャンルは、オペラなどの劇音楽を除く主要な領域の多くにまたがっている。なお、ブラームスの影響を直接受けた作曲家としては、とくにドイツのマックス・レーガーの名があげられる。
ブラームスはまた、音楽史や音楽理論への高い関心でも知られる。バッハをはじめバロックや古典派の大家の作品を研究、貴重な自筆楽譜を収集したほか、いくつかの学問的な全集版楽譜の校訂にも携わっている。
[土田英三郎]
『K・ガイリンガー著、山根銀二訳『ブラームス――生涯と芸術』(1975・芸術現代社)』▽『J・ブリュイール著、本田脩訳『ブラームス』(1985・白水社)』▽『三宅幸夫著『ブラームス』(新潮文庫)』
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出典 (社)全日本ピアノ指導者協会ピティナ・ピアノ曲事典(作曲者)について 情報
1833~97
ドイツの作曲家。ハンブルクに生まれ,1863年以後ウィーンに定住。ロマン主義華やかな時代に古典様式を守り,抒情的で重厚な独自の作風を創り,交響曲4,ヴァイオリン協奏曲,ピアノ協奏曲,室内楽など多数作曲した。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…その成果を踏襲したリストは2曲の標題交響曲を残したほか,1848年から交響詩のジャンルを開拓している。 楽劇の運動にも関連するこうした〈進歩的〉な一派に対して,19世紀後半のドイツ,オーストリアにおいてなお純粋な絶対音楽の堡塁を堅持したのが,ブラームスとブルックナーである。ブラームス(全4曲。…
※「ブラームス」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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