精選版 日本国語大辞典 「天野桃隣」の意味・読み・例文・類語 あまの‐とうりん【天野桃隣】 江戸前期の俳人。本名藤太夫、別名桃翁、太白堂。伊賀上野の人。芭蕉の従弟とも。江戸に出て芭蕉に学ぶ。編著「陸奥鵆(むつちどり)」など。寛永一六~享保四年(一六三九‐一七一九) 出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例 Sponserd by
朝日日本歴史人物事典 「天野桃隣」の解説 天野桃隣 没年:享保4.12.9(1720.1.18) 生年:生年不詳 江戸前期の俳人。享年は70歳余か。別号は太白堂など。伊賀国(三重県)上野の人。各務支考の言によれば松尾芭蕉の従弟だという。15年ほど大坂で「利をいとひ遊民となつて」暮らしていたと自ら語っている。その後江戸へ出て,40歳を過ぎてから芭蕉の援助を得て俳諧師として独立した。その将来を危惧していた芭蕉が元禄7(1694)年に没し,後ろ盾を失ってからは次第に零落,晩年は惨めな暮らしであった。好色本作家の桃林堂蝶麿と同一人物であるとする説がある。<参考文献>荻野清『俳文学叢説』 (田中善信) 出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報 Sponserd by
デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「天野桃隣」の解説 天野桃隣 あまの-とうりん ?-1720* 江戸時代前期-中期の俳人。松尾芭蕉の従弟(いとこ)とも,朋友(ほうゆう)ともいわれる。元禄(げんろく)4年芭蕉にしたがって江戸にでて点者(判者)となる。芭蕉三回忌には「陸奥鵆(むつちどり)」を,十七回忌には「粟津原」を刊行した。桃林堂蝶麿と同一人とする説がある。享保(きょうほう)4年12月9日死去。伊賀(いが)(三重県)出身。通称は藤太夫。別号に太白堂(初代),桃翁,呉竹軒など。 出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例 Sponserd by
世界大百科事典(旧版)内の天野桃隣の言及 【桃林堂蝶麿】より …桃の林,桃隣堂ともいう。芭蕉門の天野桃隣の筆名とする説とそれを否定する説がある。1695年(元禄8)ころより1705年(宝永2)にわたり,江戸で《好色赤烏帽子(あかえぼし)》(1695),《好色美人角力(ずもう)》(1696)など10余の浮世草子を発表。… ※「天野桃隣」について言及している用語解説の一部を掲載しています。 出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」 Sponserd by