デジタル大辞泉 「芭蕉」の意味・読み・例文・類語
ばしょう【芭蕉】[人名・書名]
山本健吉によるの評論。昭和30年(1955)から昭和31年(1956)にかけて「その鑑賞と批評」「奥の細道まで」「終焉まで」の全3部を刊行。著者は本作の功績などにより、第22回芸術院賞(評論部門)受賞。
多田裕計の小説、およびそれを表題作とする作品集。昭和39年(1964)刊行。作品集にはほかに「長江デルタ」などを収める。
古くはハセヲの形であったが、「二十巻本和名抄‐二〇」に「芭蕉 発勢乎波」、「色葉字類抄」に「芭蕉(ハセウ) ハセヲハ」とあるように、字音語ハセウと国語化したハセヲとが共存したものと思われる。セウ(簫)・アウ(襖)がセヲ・アヲになったのと同じ変化。
江戸前期の俳人。日本近世文学の最盛期をなす元禄(げんろく)期(1688~1704)に活躍した井原西鶴(いはらさいかく)、近松門左衛門(ちかまつもんざえもん)、芭蕉は、それぞれ小説、浄瑠璃(じょうるり)、俳諧(はいかい)の分野を代表する三大文豪として評価されている。さらに詩歌部門に限っていえば、和歌文学の頂上に位置する万葉の柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)に対して、俳諧文学の頂上として芭蕉が対峙(たいじ)し、中間の新古今時代を西行(さいぎょう)と藤原定家(ていか)とが世の評価を二分している。しかも芭蕉自身は、己がつながる伝統を先人のうえに数え上げて、「西行の和歌における、宗祇(そうぎ)の連歌(れんが)における、雪舟の絵における、利休が茶における、其(その)貫道する物は一(いつ)なり」(『笈の小文(おいのこぶみ)』)といいきり、文学のみならず、絵や茶も視野のうちにとらえて、風雅全般の伝統の継承者として、自分を任じていた。
[山本健吉]
芭蕉は寛永(かんえい)21年伊賀上野(いがうえの)の赤坂農人町(三重県伊賀市上野赤坂町)に、松尾与左衛門の子として生まれた。兄半左衛門のほかに、4人の姉妹があり、家格は無足人(むそくにん)級(一種の郷士・地侍級の農民)であった。藤堂(とうどう)藩の侍大将であった、食禄5000石の藤堂新七郎良精(よしきよ)の嗣子(しし)、良忠(よしただ)に子小姓として出仕、時に19歳。2歳年長の良忠(俳号蝉吟(せんぎん))とともに、貞門の北村季吟(きぎん)系の俳諧を学び、宗房(むねふさ)の名のりを音読して号に用いたらしい。作品の初出は1662年(寛文2)だが、まだいうに足りない。66年4月、良忠は病没、やがて致仕して兄の家に戻った。
漂泊の詩人といわれた芭蕉が、いつも帰ろうと思えば迎えてくれる母郷の家をもっていたことを重視したい。芭蕉の帰郷は生涯10回にも及んでいて、滞在はおおかた2~3か月の長期にわたり、旅のついでに立ち寄ったという程度をはるかに超えている。これは「郷愁の詩人」(萩原朔太郎(はぎわらさくたろう))といわれた蕪村(ぶそん)の郷愁が、慈母の懐袍(ふところ)のように、いまは存在しない毛馬(けま)村の生まれ故郷を恋うた、浪漫(ろうまん)的なものでしかなかったのと、まるで違う。芭蕉における故郷は現在に存在する故郷であり、彼は意外に土着的発想が強い。彼が故郷をいうとき、山家・山中・山里などといつも山ということを強調するが、芭蕉にとっては上野そのものが「山家ノケシキ」であり、とくに半左衛門の家をさすことが多い。懐かしいとともに貧しく寒々として悲しい故郷の様相ということだった。
[山本健吉]
1672年正月、宗房の名で伊賀上野の産土(うぶすな)神、天満宮に、三十番句合(くあわせ)を編んで奉納(『貝おほひ』の題で翌年刊)。菅公(かんこう)七百七十年忌にあたり、発句(ほっく)の作者はすべて伊賀の住人、芭蕉の生涯での唯一の著述である。そのころ行われていた小唄(こうた)や奴詞(やっこことば)(六方詞)や流行語などを縦横に駆使した判詞が珍しく、あたかも胎動期にあった談林(だんりん)流の無頼ぶりに一歩先んじている。この年の春、「雲とへだつ友かや雁(かり)のいきわかれ」の留別吟を残して、江戸へ赴いた。落ち着き先は日本橋界隈(かいわい)で、卜尺(ぼくせき)あるいは杉風(さんぷう)方。おりから東下した宗因(そういん)が談林の新風の気勢をあげたのに呼応する形で、同じ志の素堂(そどう)と、自分は桃青(とうせい)と号して、新風合流の意図をあらわにした「両吟二百韻」を興行した。大名俳人内藤風虎(ふうこ)らの後援を得、東下した言水(ごんすい)、才麿(さいまろ)、信徳(しんとく)らとも交流し、門弟にも杉風らのほか、其角(きかく)、嵐雪(らんせつ)のような若い俊秀が集まり、独吟歌仙や句合を催し、立机披露(りっきひろう)の万句興行もやったらしい。神田(かんだ)川上水の普請に水役として、生活の資も得ていた。
1679年(延宝7)ごろから芭蕉は老荘思想や、杜甫(とほ)、蘇東坡(そとうば)、黄山谷(こうさんこく)、白楽天、寒山などの漢詩風に関心をみせ始め、作風も晦渋奇矯(かいじゅうききょう)な句風に転換しだした。それも談林風の雑駁(ざっぱく)を脱する一時の方途であり、80年冬には芭蕉は市井雑踏の地を離れ、閑寂の地を求めて、深川六間堀の魚商杉風の生け簀(いけす)の番小屋に移り、門下から一株の芭蕉を贈られて芭蕉庵(あん)とよび、芭蕉翁と尊称され、しばしば「はせを」と自署した。漢詩調はしだいに格調の高さを増し、其角撰(せん)の『虚栗(みなしぐり)』で頂点に達する。「芭蕉野分して盥(たらひ)に雨を聞く夜かな」「枯枝に烏(からす)のとまりたるや秋の暮」「世(よ)にふるはさらに宗祇のやどり哉(かな)」など、延宝(えんぽう)末から天和(てんな)にかけ、徐々に純化の度は深まってゆく。
[山本健吉]
1684年(貞享1)の『野ざらし紀行』の旅から、本格的な漂泊時代が始まる。ときに芭蕉41歳、生涯余すところわずか11年にすぎない。だがこのわずかの期間が、芭蕉を同時代の言水、才麿、来山(らいざん)、鬼貫(おにつら)らを決定的に超えさせる。「野ざらしを心に風のしむ身哉」の一句に旅への決意を秘めながら、名古屋では待ち受けていた荷兮(かけい)、野水(やすい)、杜国(とこく)らの面々と打てば響くような五歌仙を巻いて、それが荷兮の手で刊行され、「芭蕉七部集」の第一冊『冬の日』となる。続いて86年、同じ尾張(おわり)の連衆によって『春の日』が出され、その三歌仙に芭蕉は加わっていないが、発句「古池や蛙(かはづ)飛こむ水のをと」がみえ、七部集第二冊とされる。87年の旅には、3年前の悲壮な決意と違って「旅人と我(わが)名よばれん初しぐれ」との留別吟に心の余裕がみられる。この紀行は『笈の小文』と称されるが、やはり荷兮によってこのときの収穫をも含めて、七部集第三集『阿羅野(あらの)』が89年(元禄2)に刊行される。だが、芭蕉の遊意は一刻も止(や)まず、その年3月末には門弟曽良(そら)を伴って『おくのほそ道』の旅に出立する。芭蕉の紀行文の傑作であり、その定稿が完成したのは93、4年かと推定される。曽良は忠実に『随行日記』『俳諧書留』をつけていて、紀行の本文との間にいくつかの虚実がみられ、芭蕉が文に打ち込んだ志のほどをほのみせている。この旅は、西行、能因(のういん)の跡を訪(と)いながらの、歌枕(うたまくら)巡りの観をも呈したが、裏日本へ越えてから歌枕的意識は薄まり、直截(ちょくせつ)の感動が句中に打ち出されるようになる。「閑(しづか)さや岩にしみ入(いる)蝉(せみ)の声」「さみだれを集て早し最上(もがみ)川」「荒海や佐渡によこたふ天河(あまのがは)」など。旅中の昂揚(こうよう)した詩心がそのまま上方(かみがた)滞在中に持ち越され、90年には珍碩(ちんせき)(洒堂(しゃどう))ら湖南連衆を相手に『ひさご』刊、七部集第四冊となり、91年には京の去来、凡兆(ぼんちょう)を直接指導して『猿蓑(さるみの)』刊、七部集第五冊として、華実兼備の蕉風(しょうふう)俳諧の頂点に位置した。そのことは「初しぐれ猿も小蓑(こみの)をほしげ也(なり)」以下の発句についていえるが、去来、凡兆らを相手に心を込めて捌(さば)いた歌仙についても妥当する。「発句は門人にも作者あり。附合(つけあい)は老吟のほね」(『三冊子(さんぞうし)』)とは、芭蕉の強い自負であった。
[山本健吉]
「不易流行」や「さび、しをり、細み」など俳諧常住の心構えは、「ほそ道」の旅中に胚胎(はいたい)し、上方滞在中、門人との問答のうちに漏らされたもので、『去来抄』『三冊子』など、そのような意味で芭蕉の俳論の精髄であった。それだけに、支考(しこう)、許六(きょりく)らがあげつらったこちたき議論より、よほど含意が深く、読む者によって受け取り方も多岐に分かれやすい。1691年冬、江戸へ帰還後は、旅中の心労その他が重なって、老衰を意識し、門戸を閉じて保養に努めたが、やがて野坡(やば)ら町人俳人を相手に「軽み」の新風を唱導し、「浅き砂川を見るごとく、句の形、付心ともに軽き」(『別座鋪(べつざしき)』序)を志向した。心の粘りや甘みや渋滞を去って、三尺の童子の無私の態度に倣おうとした。いわば大自然に身をゆだねる随順の態度だが、それは「軽み」の具現とされる七部集第六冊『炭俵(すみだわら)』の撰者野坡たちにも、平板な庶民性、通俗性と受け取られる傾きがあった。
1694年5月、最後の旅へ出、その終わりに近く、芭蕉自身「軽み」の神髄ともいうべき作風に到達する。「此(この)道や行人(ゆくひと)なしに秋の暮」「此秋は何で年よる雲に鳥」「秋深き隣は何をする人ぞ」など、芭蕉の理念の昇華して至った句境であろう。10月12日、大坂の旅舎花屋で生涯を閉じた。病中吟、「旅に病んで夢は枯野をかけ廻(めぐ)る」。粟津(滋賀県大津市)義仲寺に葬られた。七部集最後の『続猿蓑』は98年に刊行された。伊賀市に芭蕉翁記念館がある。
[山本健吉]
『潁原退蔵他著『芭蕉講座』全9巻(1943~51・三省堂)』▽『山本健吉著『芭蕉――その鑑賞と批評』上下(1959・新潮社)』▽『阿部喜三男・荻野清・大谷篤蔵編『校本芭蕉全集』全10巻(1962~69・角川書店)』▽『幸田露伴著『評釈芭蕉七部集』全7冊(1983・岩波書店)』▽『井本農一・中村俊定他校注・訳『完訳日本の古典 54 芭蕉句集』(1984・小学館)』▽『井本農一他校注・訳『完訳日本の古典 55 芭蕉文集・去来抄』(1985・小学館)』
能の曲目。三番目物。五流現行曲。金春禅竹(こんぱるぜんちく)作。中国の湘水(しょうすい)の山中、日夜『法華経(ほけきょう)』を読経する僧(ワキ)のもとに、1人の女性(前シテ)が現れ、経の聴聞を願い、草木成仏のいわれを尋ね、自分は芭蕉の精であることをほのめかして消える。夜もすがら読経する僧の前にふたたび姿をみせた芭蕉の精(後シテ)は、仏を賛美し、芭蕉が人生のはかなさを象徴していることを語り、四季の推移を舞い、秋風とともに消えていく。晩秋の季節を背景に、寂しい中年の女性の姿を借りて、無常感そのものを舞台に造形する。きわめて高度な能であり、もっとも抽象化を果たした演劇の例といえる。『法華経』の草木成仏の思想を軸に、王摩詰(おうまきつ)(王維(おうい))が雪の中の芭蕉を描いたという故事を踏まえた、禅竹独特の世界であり、また能だけが可能とした世界である。
[増田正造]
江戸前期の俳人。姓名は松尾宗房。俳号は,はじめ宗房を用い,江戸に下って桃青(とうせい)と号した。別号は,立机(りつき)後に坐興庵,栩々斎(くくさい),花桃夭(かとうよう),華桃園など,深川退隠後に泊船堂,芭蕉翁,芭蕉洞,芭蕉庵,風羅坊など。好んで,はせを,芭蕉とも署名した。伊賀上野(現,三重県上野市)の城東,赤坂の農人町に生まれ,元禄7年10月12日に大坂で客死,遺言によって近江の粟津義仲寺に葬られた。
父与左衛門は伊賀阿拝郡柘植(つげ)郷の人で上野に世帯をかまえた。その本家は平家末流の土豪の一支族で無足人(むそくにん)級の家柄。母は伊賀名張(なばり)の人と伝える。兄半左衛門のほかに1姉3妹がある。妻子はなかったが,〈猶子(ゆうし)〉桃印(とういん)(1661-93)を江戸に引き取り,その没後は〈若き時の妾〉と伝える寿貞の子二郎兵衛を最後まで身辺に置いた。
10代末から俳諧に手をそめ,最初の入集は1664年(寛文4)。当時,藤堂藩伊賀付士大将家の嫡男藤堂蟬吟(せんぎん)(1642-66)の連衆として季吟系の貞門俳諧に遊んだが,蟬吟の死で出仕の望みを失い,俳諧師を志し,72年宗房判の三十番句合《貝おほひ》を携えて江戸に下った。ただし,江戸に定住して活躍を始めたのは,74年(延宝2)に上京して北村季吟から《埋木(うもれぎ)》の伝授を受けた後と推定される。はじめ高野幽山の執筆(しゆひつ)となって磐城平藩主内藤風虎の江戸邸に出入りし,常連の信章(素堂)らを知り,風虎の招きで江戸に下った宗因と一座し,以後,宗因風の新進俳人として頭角をあらわした。78年に立机,日本橋小田原町で点業を始め,《桃青三百韻附両吟二百韻》(1678),《桃青門弟独吟二十歌仙》(1680),桃青判《田舎之句合》《常盤屋之句合》によって一門を確立したが,80年冬点業を廃止し,深川村に草庵をかまえて俳隠者となった。
この前後,宗因風の衰退するなかで《荘子》に心酔し,擬漢詩体の新風を率先して《次韻(じいん)》(1681)を刊行したが,82年(天和2)冬の大火で芭蕉庵を焼失し,以後,一所不住を志して行脚と庵住をくりかえしながら蕉風を樹立した。
《甲子吟行(かつしぎんこう)》によって知られる第1次行脚(1684年秋~85年夏)は,名古屋連衆との出逢いで《冬の日》(1684)の成果を生み,以後の吟行に擬連歌体の俳言(はいごん)のない発句が目だつ。旅の四季句集的性格をもつ《甲子吟行》と対をなすのが,第2次芭蕉庵の四季句集《あつめ句》(1687成)である。擬漢詩体,擬連歌体の表現をへて,和漢の伝統を混然とし,しかも〈擬〉意識を払拭した様式に到達しており,〈古池や蛙飛びこむ水の音〉もその一句。第2次行脚は,《笈の小文(おいのこぶみ)》(1709)によって知られる歌枕行脚(1687年冬~88年秋)から《おくのほそ道》(1702)によって知られる奥羽加越の行脚(1689年春~秋)へと続き,その体験をとおして,芭蕉は蕉風の思想と表現に開眼した。〈誠〉に基づく人生観と芸術観の統一的自覚であり,景と情の統一的表現である。その思索を深め,成果を世に問うために,伊賀,近江,京の各地になお2年の漂泊を続けた。《幻住庵記》や《嵯峨日記》を執筆し,近江連衆を後見して《ひさご》(1690),京連衆を後見して《猿蓑(さるみの)》(1691)を刊行したのは,その間のことである。江戸に帰ったのは91年(元禄4)冬。翌年夏,第3次芭蕉庵の新築が成り,ここでの2年間は,新しい自覚に基づく《おくのほそ道》の執筆と,新風を期待できる新しい連衆の育成に費やされ,彼らを相手に〈軽み〉を唱導した。景情融合の理想が,実際には景に情を託そうとはかる作為的な句作りにおちやすいのを懸念しての指導で,《炭俵》(1694)や《続猿蓑》(1698)がそうした指導の下に成った。
その成果を上方に及ぼすため最後の行脚に出たのは94年夏。前年50歳を迎えた芭蕉には老の自覚があった。健康の衰えもあり,桃印の死以来,心労も重なった。また俳壇の大衆化に棹さす業俳(職業俳人)に背を向けて,孤高を持する芭蕉に追随する者は蕉門でも多くなかった。俳風の変遷に遅れた古参の連衆の中には離反者も出,各地に軋轢(あつれき)も生じていた。〈かるみ〉の指導も伊賀で難渋した。そして,同門の不和をとりもつために訪れた大坂で病に倒れ,病中吟〈旅に病んで夢は枯野をかけ廻る〉を最後に,門人にみとられながら世を去った。その間の経緯は,随行の門人支考の《芭蕉翁追善之日記》や一門を代表する其角の追善集《枯尾花(かれおばな)》(1694)に詳しい。命日を時雨忌という。
上述のごとく《次韻》以後は《俳諧七部集》の各集を後見したのみで,一冊の撰集も刊行していない。また《猿蓑》所収の《幻住庵記》のほかは,生前に一編の文章も公表していない。俳文,紀行,日記のすべては没後刊行。今日知られる発句は約1000,一座する連句は歌仙形式以上のもの約160巻,それに約200通の書簡が伝存する。
→蕉風俳諧
執筆者:白石 悌三
能の曲名。三番目物。鬘物(かつらもの)。金春禅竹(こんぱるぜんちく)作。シテは芭蕉の精。唐土楚国(そこく)の瀟水(しようすい)に住む僧(ワキ)のもとに,年たけた女性(前ジテ)が来て仏縁に結ばれることを願うので,読経の聴聞を許す。女は,法華経の経文によれば,草木も成仏できることが頼もしいと喜び,実は自分は庭の芭蕉の仮の姿であると言って消え失せる。深夜になると芭蕉の精(後ジテ)がまた現れ,非情の草木もまことは無相真如の顕現で,仏教の哲理を示し,世の無常を現しているのだと言い(〈クセ〉),しみじみとした舞を舞って見せるが(〈序ノ舞〉),やがて再び姿を消す。クセと序ノ舞が曲の中心で,夏の巨大な葉が冬には枯れ尽くす植物の芭蕉に託して,世の無常を説いた能。若い女でも老女でもない中年の女性として演出するのが特色で,宗教的な情緒が一貫して流れている。その点,舞踊本位の一般的な精物の能とは大いに異なる。
執筆者:横道 万里雄
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1644~94.10.12
江戸前期の俳人。本名は松尾忠右衛門宗房。伊賀国上野の地侍クラスの農人の子として生まれ,津藩の侍大将藤堂良精(よしきよ)に仕えた。俳諧は10代半ば頃からたしなみ,北村季吟の指導をうけた。23歳のとき良精の子良忠(よしただ)の急死で辞し,1672年(寛文12)「貝おほひ」を編んだ。31歳頃,俳諧師として立つために江戸に下り,翌年談林派の総帥宗因に才を認められ,同派の江戸宗匠として活躍。いままでの戯笑俳諧にあきたらず,84年(貞享元)頃,新たに蕉風俳諧を打ちたて,俳諧を和歌と対等の地位に引きあげた。旅を好み「野ざらし紀行」「おくのほそ道」などの紀行文を残したが,九州にむかう途中,大坂で客死。一代の作風は「俳諧七部集」にまとめられている。
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…芭蕉の俳諧,紀行。1巻。…
…晩年の芭蕉が創作上のくふうとして,しばしば力説した言葉。発句にも連句にもいう。…
… 近世に入ると《竹斎》や浅井了意の《東海道名所記》(1658‐61)などの名所記物の仮名草子からはじまり,旅を主題とした小説が登場し,その極点に十返舎一九の《東海道中膝栗毛》(1802‐09)がある。しかし,近世の紀行文学の卓抜は《野晒紀行》(1685)から《おくのほそ道》に至る松尾芭蕉の一連の紀行文で,物見遊山的な旅を拒否するその風流への旅は後の紀行文学に強い影響を与えている。なお,江戸期には,学者,文人の紀行作品が多数刊行されており,林道春(羅山)《丙辰(へいしん)紀行》,賀茂真淵《旅のなぐさ》,本居宣長《菅笠日記》あるいは貝原益軒《岐曾路之記》,橘南谿《東遊記》《西遊記》などがあり,井上通女《東海紀行》のように女性によって書かれたものもある。…
…1553年(天文22)佐々木高頼が諸堂を建立し,寺観を整えた。義仲の塚のかたわらには,1690年(元禄3)当寺に滞在した松尾芭蕉の墓があり,境内に芭蕉の木像を安置した翁堂や多くの句碑がある。芭蕉ゆかりの寺として俳人の訪れが絶えない。…
…ただ,談林俳諧ではこの論に見合う優れた作品がないため,理屈倒れの観がないでもない。ところが,蕉風俳諧の時代になると,芭蕉の門人各務支考がこれを受け,〈言語は虚に居て実をおこなふべし。実に居て虚にあそぶ事かたし〉(《風俗文選》所収〈陳情表〉)と徹底し,さらに〈抑,詩歌連俳といふ物は上手に噓(うそ)をつく事なり。…
…俳文。芭蕉作。門人曲翠が提供した石山の奥の幻住庵に滞在したおりの俳文。…
…俳諧日記。芭蕉著。1巻。…
…2匁5分。編者は京蕉門の去来・凡兆であるが,おくのほそ道行脚の後,上方滞在中の芭蕉がこれを後見し,行脚による新風開眼の成果を盛って,俳壇の蕉門認識を新たにした。蕉門の許六・支考が〈俳諧の古今集〉と評しているように,蕉風円熟期を代表する撰集で,のちに《俳諧七部集》の第5集となった。…
…蕉風とは芭蕉によって主導された蕉門の俳風をいうが,それが,貞門時代,談林時代に次ぐ時代の俳風をいう俳諧史用語としても一般に通用している。貞門風(貞門俳諧),談林風(談林俳諧)に対して蕉風はたしかに異質であり,それが元禄期(1688‐1704)の俳風を質的に代表していることも認められるが,一般の俳風が芭蕉によって主導されたとみることは妥当でない。…
…談林の時代は大体,寛文年間(1661‐73)の台頭期,延宝年間(1673‐81)の最盛期,天和年間(1681‐84)の衰退期の3期に分けられる。
[台頭期]
貞徳の没後大坂・堺など地方俳壇の分派活動が目だち始め,俳書の刊行があいつぐなか,1671年には大坂の以仙(いせん)が《落花集》を編み,宗因の独吟千句を収めてこれに談林の教書的役割を果たさせ,翌72年には伊賀上野の一地方俳人宗房(そうぼう)(芭蕉)が,流行語や小唄の歌詞をふんだんに盛り込んだ句合(くあわせ)《貝おほひ》を制作。さらに翌73年には,世間から阿蘭陀流とののしられていた西鶴が,貞門の万句興行に対抗して,大坂生玉社頭に門人・知友を集め《生玉(いくたま)万句》を興行した。…
…付合にはさまざまな類型と手法があり,連歌の時代,すでに15体(二条良基著《連理秘抄》),80体(伝宗祇著《連歌諸体秘伝抄》)等と細分化されていた。芭蕉らの俳諧時代においても,ことば,意味をそれぞれ付合の契機とする〈物付(ものづけ)〉〈心付(こころづけ)〉のほか,余意,余情による〈移り〉〈響き〉〈匂ひ〉〈位(くらい)〉〈俤(おもかげ)〉〈推量〉などの名目が見いだされる。芭蕉自身にも〈付句十七体〉の伝授があったという(《去来抄》)。…
…俳諧の連句集。桃青(芭蕉)編。1680年(延宝8)刊。…
…西鶴は即興軽口の新風を誇示したその句風をそのまま反映する即興的表現を試み,俳画に新たな展開を与えた。〈軽み〉をきわめようとした芭蕉は,その句風にふさわしく,機知や諧謔味に富んだものというよりは,平明で気取らず,偽らぬ真摯な実感そのままを淡々と絵筆に託した。 芭蕉の平明な描写をそのまま受け継いだのは杉風や也有であったが,芭蕉への回帰を大きな目的としていた蕪村は,俳画の歴史の中ではその頂上をきわめた人物である。…
…しかし,社会の上下両階層をかかえこむ貞門では,新俗に過ぎる俳言の使用を禁じたため急激に下降し,拡大する作者層の要求にこたえることができず,俳言の規制を質量ともに撤廃した談林俳諧の流行を招いた。談林は俳言の通俗性を最大限にふくらませ,歌語までもそれに同化吸収せしめたが,そこから出た芭蕉は,“俗語を正す”理念を掲げ,俳言を詩語へと昇華させることによって,俳諧文学の革命を遂行した。貞門俳諧【乾 裕幸】。…
…季吟の《山之井》,元隣の《宝蔵》,友悦の《それぞれ草》などがある。 しかし俳文の文学的達成は,芭蕉をまたなければならなかった。彼は1690年(元禄3)〈誹文御存知なきと仰せられ候へ共,実文にたがひ候はんは,無念の事に候〉(去来宛書簡)と述べたが,〈俳文〉の語はこれが初出であろう。…
…1694年(元禄7)に出た其角編の芭蕉追善集《枯尾花》に収める,其角作の芭蕉追悼文。内容は,孤独貧窮と徳業に富むという点を芭蕉の生涯の基本とし,その生涯にわたって,旅や草庵における,あるいは古人や門人とのかかわりの中での芭蕉の行動を,その折々の句文を引用しながら述べる。…
…平安初期をやや下ったころに起こり,鎌倉初期盛んとなった文学的歌合において,複数判者や衆議判,判に対する反駁としての陳状,さらに改判,再判などが行われた。俳諧もこの形式をつぎ,貞門では立圃(りゆうほ),季吟が好んだが,蕉門ではことに重視され,芭蕉は《貝おほひ》において判詞の持つ批評性を新しい俳風の創出に生かし,以後も芭蕉判《俳諧合》,衆議判《蛙合》といったぐあいに,俳風の屈折点において句合を試み,新風の主張を行った。蕉門の句合には,嵐蘭判《罌粟(けし)合》,其角判《句兄弟》などがある。…
…1冊。野ざらし紀行(《甲子吟行》)の旅の途中の芭蕉が,名古屋でその地の俳人とともに成した作品。荷兮編だが,芭蕉の強い指導の下に成ったと思われる。…
…また近世では,ときの教学としての儒学,とりわけ朱子学がもてはやされた結果,〈誠者天之道也〉(《中庸》)の考えが広まり,〈誠〉は天地自然を生成運行する根源的な力,ないし人間の諸活動の源となる創造力の原理・本体として位置づけられるようになった。そして,芸術の分野では,あらゆる対象の中に宇宙の生命(小宇宙)を認め,その生命と感合することで自己の本性を明らかにしようとする芭蕉の〈風雅の誠〉論,あるいは〈まことの外に俳諧なし〉(《独ごと》)と喝破した鬼貫の俳諧論を生み出している。一方,和歌の世界でも新しい動きがみられ,復古神道の荷田春満(かだのあずままろ)は人情のまことを重んじ,その門下の賀茂真淵は心に思うことを理・非理にとらわれることなくそのまま表現すべきだという〈歌の真言(まこと)〉説を主張するようになった。…
… なお日本では,《懐風藻》などの漢文学の分野にまず老荘思想の影響がみられるが,その理解はいまだ皮相的である。鎌倉・室町期の禅文化の隆盛は,必然的に禅思想と親近な老荘思想普及の契機をなし,江戸時代に入ると,芭蕉の俳諧や文人画の世界で荘子的軽妙洒脱さと禅教との高度の一体化が遂げられ,老荘思想は知識人必須の教養となった。また,徂徠学派,折衷学派の手で文献学的研究が進められ,老荘の原義の追究に多大な成果が挙げられた。…
…後の千宗旦著《禅茶録》には〈其不自由なるも,不自由なりとおもふ念を不生(しようぜず),不足(たらざる)も不足の念を起さず,不調(ととのわざる)も不調の念を抱かぬを侘なりと心得べきなり〉と簡潔に示されている。近世の松尾芭蕉もその草庵生活や旅のことにふれて,しきりに〈わび〉を語っているが,彼の意図するところも,われわれの日常生活がもたらす擬制の秩序や価値観から自由になり,世界内のいっさいの事物の有様をそのあるがままの姿に認識したいという願いに発している。服部土芳(どほう)はその徹底ぶりを〈侘といふは至極也。…
※「芭蕉」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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