朝日日本歴史人物事典 「奥田正香」の解説
奥田正香
生年:弘化4.3(1847)
明治大正期の実業家。尾張(名古屋)藩士。藩校明倫堂で学び,明治1(1868)年,同校の国学助教見習になる。その後数年,伊勢,名古屋で役人生活を送った。そのころ大蔵省8等出仕に任ぜられたが,知人が7等であることを知るや,これを辞して名古屋で味噌醤油醸造業を始めたというエピソードに人となりをうかがうことができる。醸造業で得た資産を基盤として県会議員となり,一時期議長も務める。米商会所頭取,名古屋株式取引所理事長,名古屋商業会議所会頭なども務めるが,特に26年から大正2(1913)年まで長く商業会議所会頭職にあり,電話架設,鉄道建設,名古屋港築港工事の完成など,名古屋商工業の近代化に必要な経済環境整備に尽力した。 一方で多数の会社設立,経営に参画していった。最初に手がけたのが尾張紡績と名古屋電灯(ともに明治20年創業)である。日露戦争後には尾張地方紡績大合同の路線を敷くうえで大きな役割を果たした。このほか発起人,また社長ないしは重役に就任した主な企業に,明治銀行,日本車輌,名古屋倉庫,名古屋瓦斯などがある。名古屋財界は一般に土着派,近在派,外様派の3グループに分類されているが,外様派グループの中核的存在が奥田であった。奥田グループは構成企業数と兼任役員数では3グループのなかでも最大であったが,これを支えたのが県外から起用した上遠野富之助,兼松煕,安東敏之,岡本桜であった。また県知事深野一三,名古屋市長加藤重三郎とは,いわゆる三角同盟といわれる緊密な関係にあった。しかし熱田遊郭移転問題をめぐる稲永疑獄事件で盟友に嫌疑がかかったのを機に,大正2年職務一切を退き,覚王山で仏道生活ののち生を終えた。<参考文献>名古屋市教育委員会編『明治の名古屋人』,村上はつ「明治・大正期における名古屋旧有力商人の企業者活動」(『経営史学』14巻3号)
(西村はつ)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報