宇津木昆台(読み)うつき・こんだい

朝日日本歴史人物事典 「宇津木昆台」の解説

宇津木昆台

没年嘉永1(1848)
生年:安永8(1779)
江戸後期の医者。名は益夫,号は天敬。尾張(名古屋)藩に生まれ,松田棣園を師として学に励むとともに,考証派の医家,浅井貞庵と平野竜門に学ぶ。18歳で上京して諸大家と交わり,京都車屋町御池に医業を開いて,古医方家として一世を風靡した。明清の復古考証派の影響のもと,『傷寒論』を古代の『風寒熱病方』経篇だとし,『金匱要略』をその補篇としてとらえ,文章を組み換えてその本旨を究めようとした。著書は『古訓医伝』『日本医譜』『解荘』『詩文集』など多数がある。神儒釈老医の五学に通じ,五足斎と自称する博学の人であった。<参考文献>大塚敬節「『近世漢方医学書集成』24巻解説」

(石田秀実)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「宇津木昆台」の解説

宇津木昆台 うつき-こんだい

1779-1848 江戸時代後期の医師。
安永8年生まれ。尾張(おわり)名古屋藩医浅井貞庵らにまなぶ。京都で研究をかさね,妙法院門跡の侍医となる。神,儒,仏,老,医の五つをおさめたとして,五足斎と称した。嘉永(かえい)元年5月8日死去。70歳。尾張出身。名は益夫。字(あざな)は天放。通称太一郎。著作に「古訓医伝」,編著に「日本医譜」など。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

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