ドイツの共産主義思想家・運動家,いわゆるマルクス主義の祖。
ライン・プロイセンのトリール市でユダヤ人の家庭に生まれた。両親の家系はいずれも代々ラビ(ユダヤ教の教師)を出してきた由緒ある家族,父ヒルシェルは弁護士であった。カールは6歳のときプロテスタントに改宗させられたが,正規の初等教育を受けたかどうかは不明。1830年にトリール市内の名門ギムナジウムに入学,35年にボン大学法学部に入学,翌36年にベルリン大学法学部に移る。当初は詩人になることを志していたが,ベルリン時代に神学講師B.バウアーらとの交友もあり,ヘーゲル左派(ヘーゲル学派)の一員として思想形成の途につく。41年にイェーナ大学で哲学の学位を取得。学位論文は《デモクリトスとエピクロスとの自然哲学の差異》。マルクスは大学の教師になる計画を立てたが,おりしもプロイセン当局のヘーゲル学派退治が始まったこともあり,教職に就くことは断念した。42年の秋から翌年の3月まで《ライン新聞》の編集者を務め,そのおりの体験から,社会経済問題や社会主義思想を研究する必要を感じるようになった。43年の夏,かねて家族的交際のあったウェストファーレン男爵の令嬢イェンニー・フォン・ウェストファーレンJenny von Westphalen(1814-81)と結婚,同年秋パリに赴いてA.ルーゲと共同して《独仏年誌》を創刊したが挫折,以後,文筆で生計を立てる。
46年に革命運動の組織的実践を開始,当時在住したブリュッセルを本拠にF.エンゲルスたちと組んで〈共産主義(国際)通信委員会〉を設立,その中心となった。その当時,ドイツ人労働者(職人)の共産主義組織〈義人同盟〉に分派闘争が発生,旧来のカリスマ的指導者W.ワイトリングを追い落とした新指導部のK.シャッパーやJ.モルたちと連携して〈共産主義者同盟〉に改組(1847),この組織の綱領として《共産党宣言》(1848)を執筆した。48年,ドイツ三月革命が勃発すると帰国,ケルンを拠点にして活躍し,《新ライン新聞》を刊行する。しかし,革命運動の敗北後,亡命地ロンドンで再結集した共産主義者同盟中央指導部が50年秋に分裂,マルクス,エンゲルスたちは中央委員会でこそ多数を制したものの実質的には少数派に転落,やがて〈ケルン共産党裁判〉で組織が壊滅した。そこで,マルクスは,52年以後しばらく組織的活動から身をひき,アメリカで発行されていた在米ドイツ人向けの進歩的新聞紙上などで時事的な政治・経済評論を行うかたわら,永年の懸案であった経済学の研究に復帰することになった。57年から翌年にかけてかなりまとまった草稿《経済学批判要綱》を作成,59年には《経済学批判》第1分冊をようやく刊行,ひきつづき続刊のための研究と執筆を続けたが,63年ころには《資本論》という新しい著作の構想が固まってきた。
ところで,64年には,チャーチスト,プルードン主義者,バクーニン主義者など思想的には雑多であるが,とにもかくにも国際的な労働者運動の連帯組織〈国際労働者協会〉(いわゆる〈第一インターナショナル〉)が結成され,旧共産主義者同盟系の在ロンドン亡命者グループもこれに参加することになった。マルクスは,ロンドンに置かれた暫定委員会を牛耳ることに成功,やがて中央評議会の主導権をにぎる。この時期に《資本論》の第1巻を公刊した(1867)。71年にパリ・コミューンが敗北して後,第一インターナショナルもやがて解体,マルクスは再び直接的な組織活動からは退いたが,ドイツおよびフランスでようやく伸張しはじめたいわゆるマルクス派の運動に指針を与え続けた。健康を害しながらも晩年にかけて《資本論》体系の完成に努めたほか,新しい思想的展開を胎動させたのであったが,83年3月,肝臓癌(がん)にたおれた。
著述はノート類も含めて膨大な量にのぼるが,主要なものとして上記のほか,《ヘーゲル法哲学批判序説》《経済学・哲学手稿》(通称《経哲手稿》,ともに1844),《哲学の貧困》(1847),《ルイ・ボナパルトのブリュメール18日》(1852)などがある。《聖家族》(1845),《ドイツ・イデオロギー》(1845-46)のほか,エンゲルスとの共同執筆も多くあり,それらはいずれも《マルクス=エンゲルス全集》として刊行されている。
マルクスの思想は〈科学的社会主義〉と呼ばれ,哲学的立場は〈弁証法的唯物論〉と呼ばれる。彼はまた〈マルクス経済学〉と呼ばれる経済学批判体系を築いた。マルクスの思想は,もちろん,一気に成立したものではない。研究者たちは,1845年ころを境にして,ヘーゲル左派の大枠内にあった時期と唯物史観(史的唯物論)の新しいパラダイムが確立した時期とに分けるのが普通である。とはいえ,両者の連続性を強調する者もあれば,前者から後者への飛躍を強調する者もあり,マルクスの思想像は専門の研究者たちにおいてすらまだ一義的でない。40年代後半以後の固有思想といっても,唯物史観ひいては世界観全般の基本的視座の確立が先鞭となり,それとほぼ並行して共産主義革命の理論が形成されたのち,経済学の体系がしだいに整うにつれて共産主義理論もさらに具体的に肉付けされるといった,かなり複雑な形成過程の所産である。が,達成された理論的地歩を思想史的に位置づけていうかぎり,マルクスの思想はいわゆる〈三つの源泉〉すなわち,第1にドイツ古典哲学,第2にフランスを中心に台頭した社会主義思想,第3にイギリスで完成された古典派経済学の学問的成果を,一種独特の仕方で総合的に統一したものということができよう。
しかし,マルクスの思想は,近代知の諸成果を単に総括したものではない。それは近代知の地平を内在的に止揚するものとなっている。いうところの〈三つの源泉〉に即していえば,古典派経済学は資本主義経済のメカニズムをそれなりの仕方で科学的に究明したとはいえ,当の機制を永遠の自然法則であるかのように扱っていたのに対して,マルクスの経済学は当の法則性が特殊歴史的なものであることを批判的に剔抉(てつけつ),古典派から継承した労働価値説に定位しつつも,近代資本主義経済体制が内在的な矛盾によって没落せざるをえない必然性を究明してみせ,〈近代の超克〉をその必然性に即して説く。また,先行社会主義思想が自由・平等といった近代市民主義的な理念に立脚して,それを真に実現するためにはいかなる社会体制が必要とされるかという視角から社会主義,共産主義を説いたのに対して,マルクスの共産主義理論は先行理論の前提する〈近代市民的理念〉そのもののイデオロギー的基盤を自覚的に退けつつ,社会経済の歴史的動態に即して社会主義社会の到来を予見し,それに定位して近代を超克すべき革命的実践の戦略・戦術を立てる。マルクスの思想体系はこのような歴史的相対性の洞見とそれへの定位にもとづいて,狭義の哲学的世界観の次元においても,ヘーゲル学派,とりわけその左派がそれなりの仕方で志向していたところの近代主義的二元論の超克(主観性と客観性,個別性と普遍性,自由と必然,実存と本質,等々の二元性の超克)を真に実現しようと図るものになっている。マルクス思想の最大の特質は,近代知の地平を超克する新しいパラダイムを提示したところにある,ということもできよう。
マルクスは日本の社会主義運動はもとより,思想界一般に対して強い影響を及ぼしており,その意味において日本と関係の深い思想家である。1903年(明治36)には,幸徳秋水や片山潜によってはやくもマルクスの思想が部分的に紹介され,06年には《共産党宣言》の全訳も出ている。また,07年には山川均によって《資本論》第1巻の紹介が行われている。しかし,マルクスの思想が本格的に紹介されるようになったのはロシア革命(1917)以後であり,22年には〈日本共産党〉(委員長堺利彦)が結成され,コミンテルン第4回大会において承認された。
昭和に入ると,福本和夫,三木清,河上肇などによるマルクス論が左翼的インテリのあいだで強い影響を及ぼすようになり,28年(昭和3)には世界で最初の改造社版《マルクス・エンゲルス全集》の刊行が開始された(全27巻30冊,補巻1,別巻1。完結1935)。30年代になると,ロシア・マルクス主義の解釈体系が日本のマルクス主義者のあいだでも主流を占めるようになったが,それでも野呂栄太郎の日本資本主義論をはじめ,歴史的研究の分野でマルクスの理論を創造的に適用する一連の業績が現れたし,河上肇や櫛田民蔵らをはじめとするマルクス経済学や社会理論,歴史理論の独創的解釈が試みられ,戸坂潤に指導された〈唯物論研究会〉のマルクス主義哲学の分野での意欲的な展開も行われた。しかし,日本におけるマルクス主義は,日本軍国主義体制の徹底的な弾圧により,社会運動の方面はもとより理論活動の方面でも第2次世界大戦の終戦(1945)まで雌伏を余儀なくされた。
終戦後の日本においては,一時期,インテリ層のあいだでマルクス主義の理論的権威が諸外国に例をみないほど高まり,アカデミズムにおいても,経済学界や歴史学界ではマルクス派が席巻するほどの勢いを示した。マルクス研究,とくにマルクス経済学の研究に関しては,日本は国際的水準に達しているといわれ,宇野経済学(宇野弘蔵)のような独創的解釈体系も生み出されている。また,マルクスの理論は,大塚史学(大塚久雄)や川島法学(川島武宜)などにも多大の影響を与えている。社会運動の指導理念という場面においても,日本ではマルクス主義が主流であることが注目される。いわゆる先進資本主義諸国においては,共産党以外の社会主義党派はマルクス主義を指導理念とはしていないのが普通であるが,日本では社会党も少なくともたてまえ上はマルクス主義を指導理念としているという国際的にみて例外的な事実が現にあるからである。昨今では日本でも〈マルクス離れ〉が云々され,一時期ほどの思想的・理論的な権威をもたなくなっているにしても,マルクスの理論体系がもろもろの社会主義的理論に比べて格段と高い評価を受けていることには変りないように見受けられる。日本における左翼的な思想運動,実践運動は,当分のあいだ,マルクスを離れてはありえないであろう。
→共産主義 →資本論 →マルクス経済学 →マルクス主義
執筆者:廣松 渉
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科学的社会主義の創始者、資本主義の政治経済学的批判の大著である『資本論』の著者、国際労働運動と革命運動の指導者。5月5日プロイセン領ライン州のトリール市で、富裕なユダヤ系ドイツ人の家庭に生まれる。父は弁護士で自由主義的思想の持ち主であった。トリールの高等学校(ギムナジウム)を卒業して、ボン大学、ついでベルリン大学に進み、そこで法学、歴史学、哲学、とくに当時圧倒的な影響力をもっていたヘーゲル哲学を学び、ブルーノ・バウアーを中心とする青年ヘーゲル派に属していた。大学を卒業後、ボン大学の哲学教授になりたいという希望をもっていたが、親交のあったバウアーが教職から追放されたのをみてこれを断念した。この前後、マルクスは、ヘーゲル左派から出発して唯物論者となっていたルートビヒ・フォイエルバハの『キリスト教の本質』を研究し、その強い影響を受けた。
1842年初め、ライン地方の急進的な人々によって『ライン新聞』が発刊されるが、マルクスは初めその寄稿者、のちには主筆となって、ライン州の政治・経済問題に批判を加え、「木材窃盗取締法に関する討論」などを執筆する。プロイセン政府はマルクスの批判を忌み嫌い、同紙に厳重な検閲を課し、ついで発行を禁止し、彼は退社のやむなきに至る。
1843年夏、クロイツナハで「ヘーゲル法哲学の批判から」を執筆し、同地で婚約者イェニー・フォン・ウェストファーレンJenny von Westphalen(1814―1881)と結婚し、10月末アルノルト・ルーゲと『独仏年誌』を刊行するためパリに移った。『独仏年誌』は1号で停刊のやむなきに至ったが、これにはマルクスの「ユダヤ人問題によせて」「ヘーゲル法哲学批判序説」のほか、エンゲルスの「国民経済学批判大綱」が載っており、これが両者が生涯の交友関係を結ぶ機縁となった。マルクスはパリで経済学の体系的・批判的研究を始め、1844年には「経済学・哲学手稿」を書く。また同年マルクスとエンゲルスは彼らの最初の共同労作として、B・バウアー批判を企図した『聖家族』を執筆する。
1845年、パリから追放されてブリュッセルに移り住むが、ここで翌1846年にはエンゲルスとの共著『ドイツ・イデオロギー』を書いて、フォイエルバハ、B・バウアー、シュティルナー、「真正社会主義」などを批判し、史的唯物論の立場を確立した。また同年末から1847年の前半にかけて、プルードンの『貧困の哲学』批判を企図した『哲学の貧困』を執筆した。
1847年春、マルクスとエンゲルスは「共産主義者同盟」に加わり、この同盟の第2回大会(ロンドン)に参加して重要な役割を果たし、またこの大会の依頼に応じて有名な「共産党宣言」を書いた。1848年2月『共産党宣言』がロンドンで出版されるのと同じころ、フランスで二月革命が勃発(ぼっぱつ)する。マルクスはベルギーを追放されてパリに移り、ついでドイツでの革命に直接に参加するためケルンに赴き、そこで『新ライン新聞』を発刊して編集にあたった。六月事件のあとドイツでも反動の波が高まり、『新ライン新聞』も1849年5月廃刊を余儀なくされ、マルクスも追放令によって結局パリに赴き、やがてフランスからも追われて同年8月末ロンドンに移り、死ぬまでそこで亡命生活を続けた。ロンドンでのマルクス一家の生活は貧窮の連続であった。マルクスとともにイギリスに亡命していたエンゲルスは、マンチェスターにある父の紡績工場に勤め、マルクスに生活費を送り、彼の研究を支えた。
1850年、のちに『フランスにおける階級闘争』にまとめられる三つの連続論文を書くが、これは、『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』(1852)および『フランスの内乱』(1871)とともに「フランス三部作」をなし、彼の政治的現状分析論文として重要なものである。またマルクスは1864年、ロンドンで創設された「第一インターナショナル」で創立の宣言や規約の作成に携わり、翌1865年、総会の席上で「賃金、価格および利潤」と題する講演を行った。1871年3月樹立されたパリ・コミューンに対しては、支援活動を行うとともに第一インター総評議会の委託によってフランスの内乱についての呼びかけを起草し、その世界史的意義を解明した。また1875年には、将来の合同したドイツ社会民主労働党のための綱領草案への批判的評注を書くが、この評注は「ゴータ綱領批判」として知られ、マルクスの共産主義観をうかがうための重要文献となっている。
以上のような実践活動や政治的著述に費やす以外のいっさいの時間を、マルクスは大英博物館に通っての経済学の研究に費やした。かくして1857~1858年には『経済学批判要綱』のための7冊のノートが完成し、1859年には、多年の研究によって構想された彼の政治経済学批判体系の一部として『経済学批判』が出版された。しかしその後も研究に研究を重ね、1867年に『資本論』第1巻をハンブルクで公刊した。それはいうまでもなく、資本主義経済の構造を全面的・批判的に解釈することによって、科学的社会主義の理論的基礎を据えるものであった。マルクスはその後も『資本論』第2巻のための研究を続行し、また第1巻の完成に努めたが、その実践活動と健康状態が、彼自身の手による資本論=政治経済学批判体系の完成を許さなかった。マルクス自身の手により改訂された『資本論』第1巻は、フランス語版として1872~1875年に分冊されて出版された。それは独自の学問的価値を有するものである。
マルクスは1883年3月14日、ロンドンの自宅でエンゲルスらに見守られながら64年の生涯を閉じた。『資本論』関係の遺稿はエンゲルスによって整理され、死後2年目の1885年に『資本論』第2巻として、それからさらに9年たった1894年に『資本論』第3巻として公刊された。さらにエンゲルスが『資本論』第4巻として予定していたマルクスの遺稿は、カウツキーによって『剰余価値学説史』としてまとめられ、1905年から1910年にかけて3巻に分けて出版された。なおマルクスの著作はエンゲルスのそれとともに、ドイツのマルクス‐レーニン主義研究所の編集した『マルクス‐エンゲルス全集』に収められている。
[田口富久治 2015年4月17日]
『『マルクス=エンゲルス全集』全52冊(1981・大月書店)』▽『D・マクレラン著、杉原四郎他訳『マルクス伝』(1976・ミネルヴァ書房)』▽『土屋保男編訳『マルクス回想』(大月書店・国民文庫)』▽『大月書店編集部編『マルクス=エンゲルス略年譜』(大月書店・国民文庫)』
アメリカの喜劇チーム。長男チコChico(本名レナード、1887―1961)、次男ハーポHarpo(本名アドルフ、1888―1964)、三男グルーチョGroucho(本名ジュリアス・ヘンリー、1890―1977)、四男ガンモGammo(本名ミルトン、1892―1977)、五男ゼッポZeppo(本名ハーバート、1901―1979)。兄弟はマンハッタンのユダヤ人居住区で生まれ、幼くしてボードビル芸人となった。ガンモを除く4人が『ココナッツ』(1929)でパラマウント社から映画デビュー。奇怪な口ひげに眼鏡、早口で詭弁(きべん)をまくし立てるグルーチョ、彼に対抗してイタリア語訛(なま)りで無茶苦茶な反論をするチコ、ひとこともしゃべらず、コート姿で欲望のままに行動するハーポを中心に、『けだもの組合』(1930)、『いんちき商売』(1931)、『御冗談でショ』(1932)、『我輩(わがはい)はカモである』(1933)などで、論理や常識を覆す超現実的な世界を創造した。ハーポのハープ演奏、チコの指一本でのピアノ演奏などの芸や、ハーポがグルーチョの動きを模倣し鏡像と錯覚させるギャグなどドタバタを超えた深みもある。MGMに移籍しゼッポが抜けたあとの『オペラは踊る』(1935)からは、物語に沿った展開を重視し、『マルクス一番乗り』(1937)、『マルクスの二挺拳銃』(1940)、『マルクス兄弟デパート騒動』(1941)などに出演したが、『マルクス捕物帖』(1946)を最後に映画から撤退、解散した。グルーチョはラジオやテレビに活動の場を移し、ハーポとチコは時々、テレビなどに姿を見せた。1960年代に再評価が起こった。
[出口丈人]
『P・D・ジンマーマン著、中原弓彦・永井淳訳『マルクス兄弟のおかしな世界』(1972・晶文社)』▽『グルーチョ・マルクス著、諸岡敏行訳『グルーチョ・マルクスの好色一代記』(1993・青土社)』▽『いとうせいこう監訳『マルクス・ラジオ』(1995・角川書店)』▽『小林信彦著『世界の喜劇人』(新潮文庫)』
ドイツの政治家。司法界で活動するかたわら、第一次世界大戦前よりカトリック中央党の議員を務め、ワイマール共和国では1921年から1928年まで同党国会議員団長の地位にあった。政治家としての個性には乏しいが、中道派の要(かなめ)としての中央党の位置と、彼自身の取りまとめの巧みさから、1923年11月首相となって、ドーズ案成立を導き、1926~1928年にも二度にわたり中道少数内閣を組織した。
[木村靖二]
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1818~83
ドイツの社会主義者。トリーアに生まれる。大学で哲学を学び急進的な民主主義者となる。『ライン新聞』によって政府批判を行ったが禁止されてパリに行き,文筆活動を続けながら経済学を勉強し,プロレタリアートの歴史的使命と資本主義没落の必然論を説くマルクス主義理論を完成。ベルギーで国際共産主義運動を始め,『共産党宣言』を起草し,「共産主義者同盟」の指導者となる。1848年の革命(二月革命)ではパリに,ついでドイツに行き,『新ライン新聞』の主筆として活躍。革命失敗後パリをへてロンドンに亡命,終生ここに住んだ。64年「国際労働者協会」(第1インターナショナル)ができるとその理論的指導者となり多くの宣言を起草。しかしバクーニンら無政府主義者との対立は激しく,パリ・コミューンののち協会の活動は停止した。大英博物館の図書館で研究を続け,彼の主著『資本論』を執筆,第1巻のみ生前刊行,2,3巻は死後エンゲルスの編で出された。その続きは『剰余価値学説史』としてカウツキーが編集した。
1863~1946
ドイツの政治家。1910年に中央党に入り,21~28年には党首。23年首相となり(~25年),シュトレーゼマン外相とともにドーズ案を受け入れた。25年の大統領選挙では,中央党,民主党,社会民主党に推されてヒンデンブルクと争ったが落選。26~28年,再度首相を務め,のち引退。
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…彼らはこの〈イデオロジー〉をもって正しい人知の開発と社会の変革のための指導要綱としたのであるが,のち政敵となったナポレオンから〈イデオローグ〉,つまり大言壮語する空論家,と蔑称されるにいたって,イデオロギーは多かれ少なかれ現実と遊離し,政治的実践にとって無用の空疎な観念体系,という意味合いを一方でもつようになった。ヘーゲル主義哲学を〈ドイツ・イデオロギー〉と呼び,その幻想性,非現実性を批判したマルクス,エンゲルスのイデオロギー論にもこうした観点は継承されている。しかし,虚偽意識という狭い意味だけでなく,社会科学的な意味でも観念や意識の研究に重要な一つの方法を編み出すことによって〈イデオロギー〉概念に市民権を与えることになったのがマルクス,エンゲルスのイデオロギー論である。…
…集会では,労働者の国際的な協会associationの設立とその規約を作成する〈臨時中央評議会〉の設置が決議された。 評議会(1866年以降,総評議会)の一員に選ばれ,新生の国際組織の性格づけに決定的な影響を与えたのは,その集会に招かれて出席していたドイツからの亡命文筆家マルクスだった。64年11月,臨時中央評議会が満場一致で採択した二つの基本文書はいずれもマルクスの筆になる。…
…K.マルクスとともにマルクス主義(いわゆる科学的社会主義)の創設者。マルクスの単なる協力者ではなく,独自の理論的傾向をもち,今日のマルクス主義(ことに正統派マルクス主義)に,むしろマルクス以上の影響を与えている。…
…また,階級間関係は定義によって相互に不平等な関係であることから,他階級に対する敵対感情,自階級内部での連帯感情をともなうことが多く,これが階級意識と呼ばれるものである。
[サン・シモンの階級論]
階級論への着目は,西ヨーロッパ諸国における近代化革命,とりわけフランス革命をつうじて形成され,初めにサン・シモン,次いでマルクスとエンゲルスによって一つの理論へと定式化されるにいたった。 最初の定式化を示したサン・シモンは,その著《産業者教理問答Catéchisme politique des industriels》(1823‐24)の中で,フランス革命以前のアンシャン・レジームの下では,フランスは貴族・ブルジョア・産業者の3階級から成っていたとし,貴族を支配する階級,産業者を服従する階級,そしてブルジョアを中間階級とした。…
…階級社会に必然的な階級間の闘争,具体的には支配階級と被支配階級との闘争をいう。歴史における階級闘争を重視したのはマルクスとエンゲルスである。彼らは,原始共産制や未来の共産主義社会を除いて〈今日までのすべての社会の歴史は階級闘争の歴史である〉(《共産党宣言》1848)ととらえた。…
…1789年7月14日の夜,ルイ16世が〈これは反乱だ〉と叫んだのに対し,リアンクール公爵が〈いいえ陛下,これは革命です〉と訂正したという挿話はこのことを物語る。革命のこの〈不可抗力性〉の概念は,19世紀になると,絶対者は歴史的過程を通じてあらわれるとするヘーゲルの歴史哲学を通じて〈歴史的必然〉という観念に鋳直され,マルクスをはじめとする19世紀,20世紀の革命家たちに直接的影響を与えたのである。革命は〈政治権力の根本的変革を中心とする社会の大変動〉というふうに定義されて,同一支配関係内部における権力担当者ないしグループの交替としてのクーデタなどと区別される。…
…適度人口に比し多すぎる人口が過剰人口ということになるが,マルサスの絶対的過剰人口(人口を扶養するに足る食糧供給量以上に増加した人口)論に対し,マルクスは相対的過剰人口relative surplus‐population論を主張した。マルクスのこの概念は主として社会経済的なものであって,次のようなものである。…
…A.マーシャルらによる正常価格normal priceの概念はこのことをよりはっきりと示しており,その場合,正常価格に等置される価値はたとえば長期平均価格とほとんど区別しえぬものである。このような傾向の対極にあって,D.リカードを経てK.マルクスにいたる系譜の経済学は価値論を価格論とは異なった概念の次元に組み立てようとする。したがって,今日,価値論が独特の重要性をもって議論されているのはマルクス派においてだといってよい。…
…その後,産業革命を経たイギリス資本主義は,一方で自由主義政策のもとで周期的恐慌としての全般的過剰生産現象を反復し,リカードらの理論的期待を裏切るとともに,他方で恐慌を反復しつつ自立的な経済成長も達成していき,シスモンディらの主張にも反する状況を示していた。それをうけて,自由主義段階の典型的恐慌に抽象の基礎をおき,特殊な歴史過程としての資本主義経済の運動法則を解明しつつ,周期的恐慌の原理に体系的考察をすすめたのがK.マルクスであった。恐慌の性格は時代によって大きく変化し,資本主義の初期や末期には経済外的な戦争や政治過程との関連が大きく,周期性や経過の一様性も認めがたいので,資本主義経済自体の発展から内的にしかも周期的に恐慌が発生する法則的原理は,マルクスとともに自由主義段階に抽象の基礎をおくことによってのみ明確にしうる。…
…同じ時期のイギリス,フランスで社会主義という言葉が用いられるようになっていたが,社会主義がもっぱら生産手段の社会的所有ないし国有化を唱えたのに対して,共産主義は消費財を含めた財産のより徹底した平等化を主張した。マルクスとエンゲルスが1847年に共産主義者同盟Bund der Kommunistenの委嘱を受けて《共産党宣言》を執筆したときには,社会主義と共産主義の区別は明確に意識されていた。1888年にエンゲルスが英語版《共産党宣言》のために書いた序文によると,社会主義がイギリスのオーエンやフランスのサン・シモンとフーリエの思想のような空想的社会主義を指し,これらの思想家が労働運動の外に立っていたのに対して,〈労働者階級の中にあって,たんなる政治的革命では無力であると信じ,社会の根本的変革が必要であると宣言した人々は,いずれもみずから共産主義者と称した〉という。…
…さらに,リカードはスミスの地代論を批判して,地代を決定するものは,限界的土地との間の生産力の格差であるという主張をした。
【貧困,分配の問題を真正面から取り上げたマルクス】
アダム・スミスの経済学は,各人の利己心が最大限に発揮することのできる自由放任の経済のもとで社会的な見地からしても望ましい資源配分が求められるという主張に基づいていた。そこには,経済学の本来的な問題意識である貧困ないしは分配の問題は影をひそめている。…
…そして,近代産業技術と近代資本主義の企業制度の間の矛盾を重視し,経済活動の社会的統制により経済的福祉を向上させようとする改良主義的立場であるといえよう。 しかし,古典派経済学に対する最大の批判者はK.マルクスであった。マルクス主義の三つの源泉は,ドイツ古典哲学,イギリス古典派経済学,そしてフランス社会主義であったといわれる。…
…経済史学は,世界史的な経済発展にみられる普遍史的な規則性の解明のみでなく,それとの関連において,国民経済・地域経済の諸類型の比較史的な検討をも課題とする。
[マルクス]
ドイツ歴史学派の経済発展段階説には,リストが提唱した〈狩猟(未開)→牧畜→農業→農工業→農工商業〉のほか,B.ヒルデブラントの〈自然経済→貨幣経済→信用経済〉,K.ビュッヒャーの〈封鎖的家内経済→都市経済→国民経済〉および〈家内仕事→賃仕事→手工業(代金仕事)→家内工業(問屋制度)→工場制工業〉などの図式があり,経済史研究上,国際的にも大きな影響をあたえてきた。しかし,それ以上に重要な意義をもったのは,K.マルクスの経済発展段階説と,その背後にある唯物史観(史的唯物論)である。…
… 化学工場のばい煙に対する住民運動と,その裁判闘争の勝利を経て,63年,大気汚染防止のための〈アルカリ工場法〉が成立,また1847年以降,新興資本家たちの反対を押し切って各地方に数十の公害防止条例が出現したものの,公害問題の改善には直接は結びつかなかった。F.エンゲルスは《イギリスにおける労働者階級の状態》の中で,公害を〈社会的殺人・傷害〉と名付け,これは不作為犯であるが,犯人はこの社会の支配者である資本家階級であると述べ,また,K.マルクスは,《資本論》の中で,このようなたくさんの公害防止の法律や条例と熱意のある行政官の行動にもかかわらず,事態はいっこうに改善されていないと述べている。 イギリスの公害問題は,20世紀に入っても,1960年代後半まで基本的改善をみなかった。…
…マルクスが資本制経済の再生産の仕組みを,(1)生産部門を生産手段生産部門(第1部門)と消費手段生産部門(第2部門)に分割し,(2)各部門の生産物価値(W)を不変資本(C)(不変資本・可変資本),可変資本(V)および剰余価値(M)からなるものとして表示したのが再生産表式である。再生産が単純再生産と拡大再生産に分かれるのに対応して,再生産表式も単純再生産表式と拡大再生産表式とに分かれる。…
…(1)マルクス主義の学問体系の一部門。マルクス,エンゲルスは自己の学問体系の構案を明示的には提示していないが,後継者たちにおいては,弁証法的唯物論(唯物弁証法)という原理的部門が立てられ,これを自然界とその認識とに適用したものとして自然弁証法なる部門が置かれる。…
…ただし各国史における時代区分はそれぞれ違う場合が多いので注意を要する。 一方,マルクスは近代資本制の本質を明らかにすることによって人間による人間の搾取なき社会の建設を革命の目標としたため,社会の全体的構造の変革を可能にする方法概念として〈経済的社会構成体〉(あるいはたんに〈社会構成〉)なる範疇をつくりあげた。そして人類の歴史を社会の経済構造を基礎とする社会構成の相次ぐ交替としてとらえ,原始共同体に後続する歴史時代の区分原理を,当該社会の社会構成によって規定される階級関係の質,搾取形態の質に求めた。…
…マルクス主義の社会・歴史理論ないし社会・歴史哲学を表す用語。ただしマルクス本人はこの表現を一度も用いておらず,マルクス主義者たちのあいだにおいてもこの言葉の概念内容の規定に関して見解がかなり分かれている。…
…それは,現実には,一様な拡大の過程ではなく,好況・不況の繰返しという景気循環の過程をとりながら発展し,高度な生産力水準と生活水準を実現することになった。
[資本主義のマルクス・モデル]
資本主義の概念は論者によりさまざまな内容をもつが,なかでもなお大きな影響力をもっているのがK.マルクスによる資本主義の概念である。彼は,F.ケネー,A.スミス,D.リカードといった古典派経済学者の成果をうけつぎながら,これを批判的に体系化しなおす作業を行った。…
…しかし近代的な意味での社会主義という用語は,およそ1830年前後に,フランスではフーリエとサン・シモン,イギリスではオーエンの思想を指す言葉として最初に登場する。他方で1840年代のパリでは,徹底した財産の共有と国家権力の奪取をめざす共産主義者の結社が生まれており,1848年にマルクスがイギリスの経済学,フランスの社会主義をドイツの観念論哲学と批判・融合して《共産党宣言》(エンゲルスと共著)を発表し,マルクスはそれまでの社会主義を空想的社会主義と呼んでみずからの科学的社会主義をそれに対置させた。それまでの社会主義が資本主義の悪弊にたいして人間主義的,道徳的な非難を向けたのにたいして,マルクスは過去の歴史と資本主義の現実にたいする科学的分析のうえに社会主義を構想した。…
…その結果,進化論的な見方によれば,宗教は迷信もしくは呪術の発達した形式であるとともに,哲学ないし科学によって取って代わられる思考様式であると考えられた。そしてその立場をさらに徹底させたK.マルクスは,人類の未来には宗教が死滅する段階がくることを予想した。一方,これに対しS.フロイトは,宗教現象のいっさいは無意識に潜む性愛エネルギー(リビドー)によって説明されるとして宗教の聖性を相対化ないし否定した。…
…価値とは,それに対し,ものが商品という社会的形態をとることによってもつ商品としての価値のことであり,貨幣によって測られ価格という形で表されるものである。需要と供給によって変動する商品の価格が究極には何によって決定されるのか,つまり商品の価値が何によって規定されるのかという問題に関しては,古典派やK.マルクスのように生産に要する労働量にそれを求める労働価値説・客観的価値論と,C.メンガー,W.S.ジェボンズらにおけるように効用という心理学的事象から説明する効用学説・主観的価値論の系譜がある。今日では,労働時間や効用という特定の生理学的・心理学的実体に価値・価格を結びつけるのではなく,需要と供給からなる市場のシステマティックな相互作用によって価格が決定されるという均衡論的説明が一般的である。…
…マルクス主義の社会理論ひいては歴史理論における基本概念の一つ。下部構造(土台)Basisと対概念をなす。…
…所有形態は所有主体の側と所有対象の側からとらえることができるが,まず所有主体の側から見ると,所有主体が私的個人であるか社会集団であるかによって,私的所有と社会的(集団的)所有が区別される。この区別を強調したのはマルクスであるが,マルクスにとってはここで財一般ではなく,生産手段の所有形態こそが問題とされた。というのは,生産関係(生産,分業の方式)と生産力の関係が社会の歴史的段階を決定する中心的要因であり,生産関係を決定するものは生産手段の所有形態だからである。…
…市民社会の社会的自治の下,〈チープ・ガバメント(安価な政府)〉が主張された時代を背景に,政治とは社会的利益の対立の究極的な調整機能であるとか,犯罪者や外敵からの防衛のためにのみ必要とされるという見方が一般的だった。このような政治観が,市民国家の階級的役割を粉飾するのに役立っているとしたK.マルクスは,政治すなわち成員全体を拘束する統一的な決定は,権力を握る支配階級の利益のために形成され維持されると論じた。政治を,かぎられた社会的価値の権威的な配分過程と定義する現代のD.イーストンや,政治は社会的価値を争奪してエリートが上昇していく過程だとするH.D.ラスウェルらは,階級社会観を前提としていないものの政治の役割を限定的に考える点で,市民社会以来の伝統を継いでいる。…
… 政治学のこのような状況を一変させたのは,労働者階級を中心とする大衆が政治の舞台に登場し,政治が市民の理性的な合意をこえるものによって動かされていることが,広く認識されるようになってからである。マルクスは政治が経済的な下部構造によって規定された上部構造であり,制度論が市民階級のイデオロギーでしかないと批判して,政治における構造論やイデオロギー論への道を開いた。M.ウェーバーは,政治がその民族社会のエートス(社会倫理)によって規定されていることを分析して,政治文化論や政治人類学の基礎をつくった。…
…この再帰用法を名詞化すると〈自己疎外Selbstentfremdung〉となるが,ヘーゲルにこの〈自己疎外〉という名詞形の語法はない。古くから離反Entfremdung,断念・譲渡Entäusserungの意で日常語として用いられ,またラテン語のalienatio(譲渡)の訳語としても用いられ,〈神からの人間の離反〉という意味で神学上の用語ともなったが,哲学的にはフィヒテが用いて以後,ヘーゲルの《精神現象学》で重要な術語として確立され,マルクスの《経済学・哲学草稿》の中心概念となる。人間が自分に固有の本質を,自己の外に彼岸化し,対象化しているあり方を指す。…
…マルクスが価値と生産価格の関係を〈価値の生産価格への転化〉として論じて以来,マルクス的価値(体化労働)を基礎にして生産価格(均等利潤率を成立せしめる価格)を導出する議論が転化問題,あるいは転形問題とよばれるが,この問題の歴史は長い。マルクスの転化論はつぎの三つの総計一致命題からなる。…
…これがのちのA.コントによる再定義を受け,〈フェティシズムは,世界に対する人間の本源的態度〉であり,人間精神史の最初の段階であるところの〈神学的状態〉における人間の心性であるとみなされたため,19世紀の実証主義時代を風靡した〈原始宗教=フェティシズム〉という定説が生まれたのであった。
[経済学]
K.マルクスは,ド・ブロス,A.スミス,コント,L.A.フォイエルバハに通底する,以上のような人間の自然的感情を前提とした原始宗教論に疑問符を付し,フェティシズムの成立を社会的関係性,歴史性から解明しようとした。彼が《資本論》において展開したフェティシズムの対象は,資本制下において商品となった生産物である。…
…ヘーゲル批判の論点それ自体がヘーゲルの概念に依存している点に,ヘーゲル学派としての特色を示す。この立場は,マルクス,エンゲルスをはじめ同時代人に強い影響を与え,宗教批判の方法を政治批判にまで徹底するという形で,彼らの思想的出発点を形づくった。また,同時代の別の流派には,フォイエルバハの愛の思想にもとづいて博愛主義的な社会主義の立場をとる者(T.H.グリーン)があり,マルクス,エンゲルスとの間に論争が生じた。…
…こうした列強相互の発展・成長の不均等がもたらす矛盾の解決は,破局的な相互の戦争以外に道はなく,これは社会主義革命の必然性とその勝利を示すものとされた。以上のようなレーニンの認識と比較すると,K.マルクスは《資本論》第1巻の序文にみられるように,各国の資本主義の発展段階の差異が時の経過とともに解消され同質化するとみていたと考えられる。また近年の有力な発展段階論の唱道者W.W.ロストーは,各国の経済発展・成長の不均等性はニュートン力学を社会的に採り入れることができるかどうかにあるとし,テイク・オフ(離陸)を実現した社会は工業化を妨げる困難を克服したのであり基軸工業の交代を経て〈高度大衆消費社会〉に至ると考え,不均等発展の問題は〈離陸〉のできない〈伝統的社会〉と工業社会の同時併存にあると考えている。…
…資本主義社会における,自らの労働力を賃金と引換えに資本家に売る以外に生活の手段をもたない,賃金労働者階級全体を指すマルクス主義の基本概念。〈無産階級〉ともいう。…
… 筆者は右派が希望を託したB.バウアーだった。彼は一躍,左派を代弁する危険人物となり,その周りにはマルクスなど,若手の急進主義者が群がった。エヒターマイヤーE.T.Echtermeyerとルーゲの編集する《ハレ年誌》には,シュトラウス,L.A.フォイエルバハ,バウアーが結集した。…
…この存在観のもとでは,いわゆる〈実体〉や〈本質〉でさえ変化するものとされ,しかもその変化は〈否定の否定〉を通じて,正・反・合の段階的進展相を呈するものとされる。
[マルクス,エンゲルス]
マルクスは,ヘーゲル弁証法の〈観念論的倒錯〉を是正しつつ,合理的核心を継承しようとする。ヘーゲルにおいて弁証法が同時に存在の理法でもあったのは,それが世界理性,つまり,主体=実体たる絶対精神の自己疎外と自己回復のらせん的進行過程の軌跡ともいうべきものだったからであるが,マルクスは現実界を超越的イデーの自己疎外的実現とみる観念論を退けることによって,弁証法的な過程的構造は現実界そのものの過程的・構造的な一般的法則性にほかならないものとみる。…
…マルクスとエンゲルスの密接な協力のなかから生まれた思想であり,そもそも近代ブルジョア社会の内在的批判とその克服を目的とする。しかしその影響力はたんなるブルジョア社会批判の枠をこえて,19世紀の最後の四半世紀から現代にいたるまで世界の革命運動のなかで主導的役割を果たしてきた。…
…だから,人間が自己の存在を実現するためには,疎外された類的本質を自己に奪回することが必要であり,神の否定こそが真の人間存在の実現の先決条件である,と彼は説いた。 フォイエルバハの宗教批判は,マルクスに宗教的疎外の観念を提供した。しかし,マルクスにとって,宗教的疎外は人間疎外の一側面にすぎない。…
… イギリス植民地行政官は,この村落共同体が政治権力の交替による影響や政治権力による干渉も受けずにその経済的完結性と政治的自立性を維持してきたとし,太古以来不変のインド村落共同体観とインド社会の停滞性を導き出し,この共同体を土台とする専制国家論が展開されることになる。こうした学説の代表としてK.マルクスがあげられる。なお,イギリス植民地行政官は,土地制度の観点から大別して二つのタイプのむら――一つは〈個別農民保有村落raīyatwārī village〉,もう一つは〈共同所有村落joint village〉――の存在を主張した。…
…こうしてシオニズムは,ヨーロッパ社会がその胎内から生み出したユダヤ人問題になんらかの解決を見いだすというよりは,未解決のまま問題をヨーロッパ以外の地域に輸出することにより,むしろこれを拡大し複雑化してしまったといえる。
[マルクス主義とユダヤ人]
ユダヤ教徒解放をめぐる論議に触発されて《ユダヤ人問題によせて》を著したマルクスは〈ユダヤ教徒の社会的解放はユダヤ教からの社会の解放である〉という論理を提示し,やがてそこからプロレタリアートの解放こそが普遍的・人間的解放であるとの立場に移行することになる。そこでは,ヨーロッパ啓蒙思想に内在し,ヘーゲル左派のB.バウアーによって明示されたユダヤ教徒解放否定の論理,すなわちキリスト教より低い発展段階にあるユダヤ教徒はそのままではついに解放されえないし,解放されうるとすれば彼らのキリスト教徒への改宗を通じてであるという議論はなお完全に克服されるにはいたっていない。…
…生産過程の全体が人間の意志の貫通したものとしてあらわれる。K.マルクスの〈自然を搾り取る〉という言葉に典型的にみられるように,自然と人間の関係は逆転する。労働は何かに従うものではなく,人間を主人とする行動と意識されるのである。…
… それ以後の経済学の展開は,たとえばマカロックJohn Ramsay McCulloch(1789‐1864)の《経済学原理》(1825)にみるように,労働とは一つの作用であって人間以外の下等動物によってなされようと,自然力によってなされようと同じであるというような独断的主張によって,リカードの労働価値説の矛盾を糊塗しようとして,かえってその崩壊を促進する結果しかもたらさなかったのである。
【マルクスの労働価値説】
したがって労働価値説においてリカード以後,それを再構成し新たな次元に立って発展させるためには,K.マルクスの登場をまたなければならなかった。マルクスは《資本論》(第1巻1867,第2巻1885,第3巻1894)において,リカードに代表されるイギリス古典学派の労働価値説を基本的には継承しながらその難点を克服し,投下労働量による商品の交換価値の決定原理としてそれをより精緻(せいち)なものに仕上げた。…
…労働能力ともいう。労働者が商品として所有するものという観点からK.マルクスによって定義された。資本主義のもとで大量の商品として現れる労働力は,ある特定の能力ではなく,無差別で一般的な能力である。…
※「マルクス」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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