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一八四八年の革命 センハッピャクヨンジュウハチネンノカクメイ

デジタル大辞泉の解説

せんはっぴゃくよんじゅうはちねん‐の‐かくめい〔センハツピヤクよんジフハチネン‐〕【一八四八年の革命】

1848年から1849年にかけてヨーロッパ各地に起こった革命の総称フランス二月革命、ドイツの三月革命、英国のチャーチスト運動など。

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大辞林 第三版の解説

せんはっぴゃくよんじゅうはちねんのかくめい【一八四八年の革命】

1848年前後にヨーロッパ各地で起きた諸革命および労働・民族運動の総称。具体的にはフランスの二月革命、ドイツの三月革命、イギリスのチャーチスト運動などをさす。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

一八四八年の革命
せんはっぴゃくよんじゅうはちねんのかくめい

1848年のヨーロッパのさまざまな地域に発生した一連の革命を、総体としてこのように称する。それぞれの革命は同じ性格をもっていたわけではないが、これらの革命はヨーロッパ近代史における重要な転換点を表現しており、ヨーロッパ資本主義は、この革命の波を克服することなしには、自らを確立することはできなかった。[喜安 朗]

革命の広がりと特徴

1848年の諸革命は、おおよそ次のような広がりをもって展開した。1848年1月、イタリアのミラノ、パレルモ、メッシーナで民衆蜂起(ほうき)が発生し、2月から3月にかけてイタリア諸邦で自由憲法が発布される。このイタリアの動きは、後述のようにフランスで二月革命が発生し、またウィーンでメッテルニヒの支配体制を覆す三月革命が起こるという状況によって促進されるなかで、オーストリアの支配からイタリアを解放しようという目的が明確になっていき、イタリア解放戦争(イタリア・オーストリア戦争)が始められる。一方、フランスの二月革命は、議会内の政府反対派による制限選挙制度を改革しようとする運動がパリの労働者蜂起を促し、共和制を樹立すると同時に、社会革命を目ざす運動に転化していったものであった。この革命に促されるように2月末から3月にかけてドイツ各地で動揺がおこり、ベルリンとウィーンに三月革命が発生した。この状況下でのオーストリア帝国の動揺は、イタリアのみでなく、この帝国の支配下にあった諸民族の独立運動を誘発した。すなわち、チェコでは民族運動が発生し、6月のプラハでの労働者蜂起に至る。ハンガリーでも4月に独立運動が生まれ、コシュートを中心とする独立政府がオーストリアと対決することになる。またイギリスのチャーティスト運動は、同月に大請願デモを計画したが武力により規制され、その後後退することになるが、アイルランドでは自治を要求する運動が起こっている。
 これらの諸運動・諸革命は、その置かれた歴史的また地域的条件の特殊なあり方を反映してきわめて多様であり、また複雑な性格を帯びていた。そうしたなかで1848年総体としてとくに特徴的な点は、フランスの二月革命とその後のパリを中心とする民衆運動でもっとも鋭く提出された労働者の社会的解放という問題が、ヨーロッパ全体の未来に深くかかわるものとして、現実的な意味をもち始めたことである。と同時に、東ヨーロッパの諸地域やイタリアの民族運動に代表される民族の解放の問題がきわめて深刻化し、しかも多くの地域で労働者の社会的解放という階級の問題とこの民族の問題が、重層的に関連しあいながら、それが民衆運動や革命として突出してきた点に特徴がある。[喜安 朗]

矛盾の重層化

いまここでオーストリア帝国のもとでのボヘミアのチェコ人の場合を例にとってみることにする。ボヘミアはオーストリア帝国の工業生産にとって重要な地域であり、イギリスからの機械が導入された繊維工業では、19世紀初頭、工場制工業が生まれている。イギリスはすでに産業革命を経過しているが、ヨーロッパ大陸ではどの地域でも、ただちにこうしたイギリス資本主義の進展に対抗しうる工業生産力を発展させることはできず、イギリス資本の圧倒的な力に押されていた。ボヘミアの工業化のあり方はその一例にすぎない。まだ民族的な自立が実現しえず、民族間の問題が複雑になっているところに工業化が行われ、問題が深刻化する。多かれ少なかれ他の地域でも同様のことが起こったのである。ボヘミアでは、1847年にイギリスに起こった経済不況の影響をたちどころに受けて、物価上昇と失業者増大の危機が生まれ、不況にさらされた労働者層が48年の民族運動に合流したのであった。この民族運動は、封建的負担の廃止、市民的自由、ドイツ語と同じようにチェコ語を公用語として平等にすることなどを要求しているが、この場合、新興の工業家はドイツ人であり、労働者はチェコ人であったという事実を背後に置いてみる必要がある。このようにみてみると、チェコ人の民族運動は、イギリスの圧力を受けた工業化による階級の問題の発生によってより深刻化したと考えることができる。しかも封建的な体制からの脱却ということも、これに絡んで出ているのである。このような状況を矛盾の重層化とよぶことができる。
 19世紀前半のヨーロッパ大陸では、どの地域でも、イギリス資本主義の圧力を受けて、無理をしてでも工業化の道を切り開くことを迫られていた。その結果として、ボヘミアの例に表されるような、旧来からの問題の深刻化と、新しい矛盾の形成で、矛盾の重層化が進展していたのであって、その頂点に、1848年における諸革命の同時発生が位置するのである。[喜安 朗]

結果

しかし1848年の諸革命はいずれも敗北する。パリの労働者の運動は地方の農民層の支持を得られず、農民層の多くは地方の保守的な名望家層を支持し、成立した共和制の議会ではこの名望家層が多数を占め、労働者は六月蜂起において鎮圧される(六月事件)。民族運動も悲劇的な分裂を経験する。たとえば、ハンガリーの独立を目ざしたマジャール人は、領土内のルーマニア人やクロアチア人の南スラブ系諸民族の独立には反対し、民族間の対立が深まる。クロアチア人は独立を目ざしてオーストリア皇帝軍に力を貸し、ウィーン蜂起の鎮圧後、マジャール人の革命を倒すべくハンガリーに侵入した。ともに解放をかちとるべき民族間にこのような悲劇的な対立が存在したのである。49年6月ハンガリーにロシア軍が侵入し、同年8月にハンガリーは敗北した。かくて「一八四八年の革命」は全面的に終息する。
 革命の終息に最終的な力となったツァーリのロシアは、当時の革命家たちから「ヨーロッパ反動の砦(とりで)」とよばれた。しかしこの革命の波を克服するには、多くの国で新しい政治体制を必要とした。フランスではルイ・ナポレオンが人民投票によって独裁的体制をつくりあげねばならなかったし、ドイツではプロイセンのビスマルク、イタリアではサルデーニャのカブールによる上からの国家統一の道がつけられる。「1848年」を旧来からの自由主義的な議会政治を継続して乗り切ることができたのはイギリスのみであった。ブルジョア階級は、市民革命のような革命の道をたどって国家統一や民族自立を実現する力を失い、ヨーロッパの近代史は一つの転換点を迎えるに至った。[喜安 朗]
『良知力編『〔共同研究〕1848年革命』(1979・大月書店) ▽良知力著『向う岸からの世界史』(1978・未来社) ▽良知力著『青きドナウの乱痴気――ウィーン1848年』(1985・平凡社) ▽柳沢治著『ドイツ三月革命の研究』(1974・岩波書店) ▽喜安朗著『民衆運動と社会主義』(1977・勁草書房) ▽喜安朗著『パリの聖月曜日』(1982・平凡社) ▽河野健二著『現代史の幕あけ』(岩波新書)』

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