カージャール朝(読み)カージャールちょう(英語表記)Qājār

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「カージャール朝」の意味・わかりやすい解説

カージャール朝
カージャールちょう
Qājāriyya

イランのトルコ系王朝(1794~1925)。ザンド朝を倒したカージャール族のアーガー・ムハンマドによって開かれた。初期にはホラーサーン地方の統治ロシアの侵入の撃退に成功を収めたが,ロシアとの再度の戦いに敗れ,1828年のトルクマンチャイ条約によってその治外法権を認めてのち,これが諸列強にも適用され,イランの植民地化が開始された。北西部における失地アフガニスタン方面で回復しようとしてイギリスと対立したが,1857年パリ条約でアフガニスタンを承認し,ヘラート地方(→ヘラート)をも最終的に失った。一方,1876年までに中央アジアを併合したロシアはさらに南下政策を推進しようとし,イランをめぐるイギリスとロシアの確執が激化した。これに対しイラン内部では,バーブ教ジャマール・ウッディーン・アルアフガーニーによる民族解放運動に続いて,1905年頃から立憲運動が開始され,1906年ついに立憲君主制が採用された。しかしこの間にもイギリスとロシアの帝国主義的侵略は進展し,1907年両国のイラン分割協定の締結によりイランの半植民地化は確定的となった。1917年ロシア革命勃発のためロシアが引き揚げると,イギリスはイランを保護国化する協約批准を迫った。さらに 1920年,白衛軍を追う赤軍のカスピ海沿岸のエンゼリー港(→バンダレアンザリー占領およびラシュト進出に,イラン国内における危機感はいっそう高まったが,カージャール朝はこれに対しなんらなすすべをもたなかった。このとき赤軍との交戦に敗退したコサック旅団の一将校レザー・ハーンは兵を率いて 1921年テヘランを占領,新内閣を組織してこの危機を乗り切り,1925年イラン国王に推戴されレザー・シャーと名のった。ここにカージャール朝は滅び,パフラビー朝成立をみた。(→イラン史

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「カージャール朝」の意味・わかりやすい解説

カージャール朝
かーじゃーるちょう
Qājār

近代イランの王朝(1779~1925)。カスピ海南東部ゴルガーン地方に遊牧していたトルコ系のカージャール部族が、アーガー・モハンマドに率いられて1779年ザンド朝を倒してイランを統一した。1786年首都をテヘランに移した。同朝の国家構造は遊牧分封制に基づく中世的なものであり、19世紀になると、イギリス、ロシアを中心とするヨーロッパ列強の経済的、政治的侵略にさらされた。二度にわたる対ロシア戦争の結果、1828年のトルコマンチャーイ条約によってカフカス領土を失い、41年のイギリスとの通商条約締結によって資本主義の市場に組み込まれた。1848~51年の宰相アミール・カビールによる近代改革は実効をあげず、70年代以降のヨーロッパ人投資家に対する各種利権譲渡によって王朝の体制は弱体化した。1891~92年のたばこボイコット運動、1905~11年の立憲革命によって王朝の支配権は揺らぎ、第一次世界大戦後の1921年のレザー・ハーンの軍事クーデターで事実上、崩壊した。

[坂本 勉]

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