日本大百科全書(ニッポニカ) 「宇陀松山藩」の意味・わかりやすい解説
宇陀松山藩
うだまつやまはん
大和(やまと)国宇陀郡松山(奈良県宇陀市大宇陀地区の主邑(しゅゆう))に存した小藩。中世期北畠(きたばたけ)氏に属した秋山氏の居城を受け、1592年(文禄1)多賀出雲守(いずものかみ)秀家が入部、99年(慶長4)に至り福島掃部頭(かもんのかみ)正頼が入部したが、大坂の陣の際に落城。その後1615年(元和1)7月、織田信雄(おだのぶかつ)が宇陀郡3万1200石を領したが、自らは京にあり、重臣生駒範頼(いこまのりより)、田中清安を送って旧城北西の丘に居館を置き統治にあたらせた。その後の藩主は松山に住し、2代高長を経て、3代長頼のとき弟の式部長政に福知村ほか8か村3000石を分与。4代信武に至り藩財政窮乏、打開策をめぐって家中が対立。1694年(元禄7)信武は、創業功臣の裔(すえ)である重臣生駒三左衛門、田中五郎兵衛を討ち果たしたが自らも自害を遂げた(宇陀崩れ)。このため翌年、後継の信休(のぶやす)は丹波(たんば)国氷上(ひかみ)郡柏原(かいばら)(兵庫県丹波市柏原町)2万石に国替となり、宇陀松山藩は終焉(しゅうえん)した。
[平井良朋]
『『大宇陀町史』(1959・同書刊行会)』▽『『奈良県宇陀郡史料』(1917・宇陀郡役所)』