織田信雄(読み)おだ のぶお(のぶかつ)

美術人名辞典の解説

織田信雄

安土桃山・江戸前期の武将・茶人。尾張生。信長の次男、北畠具房の養子。名は信意・具豊、幼名茶筅(茶箋)丸・三介、通称は本御所、出家後常真と号す。信長の死後、弟信孝と争い、さらに徳川家康と結んで小牧・長久手の戦いを起こし、豊臣秀吉と戦った。のち内大臣となり、大坂の陣後、大和国五万石を領した。また、叔父有楽に茶道を学んだ。寛永7年(1630)歿、72才。

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百科事典マイペディアの解説

織田信雄【おだのぶかつ】

安土桃山時代の武将。織田信長次子。〈のぶお〉とも。伊勢(いせ)国司北畠具房(ともふさ)の養子となる。1574年長島の一向一揆(いっき)を攻撃,翌年伊勢国司となる。本能寺の変後,尾張清洲(きよす)城主。1583年徳川家康と結び,豊臣秀吉との小牧・長久手の戦を起こす。関ヶ原の戦では家康に味方し,のち大和(やまと)国宇陀(うだ)郡ほかで5万石を与えられる。
→関連項目織田氏田丸

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

織田信雄 おだ-のぶお

1558-1630 織豊-江戸時代前期の武将。
永禄(えいろく)元年生まれ。織田信長の次男。永禄12年伊勢(いせ)(三重県)国司北畠具房(ともふさ)の養子となる。本能寺の変後清洲城主となり,計100万石を領した。のち豊臣秀吉と対立,転封(てんぽう)命令をこばみ天正(てんしょう)18年領地没収。大坂の陣後,徳川家康から大和(奈良県)松山に5万石をあたえられた。寛永7年4月30日死去。73歳。尾張(おわり)(愛知県)出身。幼名は茶筅(ちゃせん)。通称は三介。号は常真。名は「のぶかつ」ともよむ。

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朝日日本歴史人物事典の解説

織田信雄

没年:寛永7.4.30(1630.6.10)
生年:永禄1(1558)
安土桃山時代の武将。織田信長の次男。母は生駒氏。尾張国清洲城に生まれる。幼名は茶筅,通称三介。名ははじめ具豊,のち信雄と改めた。「のぶお」とよむ場合もある。永禄12(1569)年,信長が伊勢国司家である北畠具教・具房父子を大河内城に攻めたとき,信雄を具房の猶子にする約束で講和が結ばれ,北畠氏を称した。以後,越前一向一揆討伐,紀伊雑賀攻め,石山本願寺との戦など,信長の主な戦いに参陣している。天正9(1581)年伊賀平定の功により伊賀3郡を与えられ,翌10年の本能寺の変のときは伊勢にいたが,近江土山まで出て光秀敗死の報を聞き,兵をもどしてしまった。そのころ北畠から織田に復姓している。同年6月27日の清洲会議の結果,織田家の家督は信雄でも,3男信孝でもなく,長男信忠の遺児三法師(秀信)が継ぐことになり,信雄はその後見役として清洲城と尾張・伊賀・南伊勢100万石を与えられた。その後,豊臣秀吉と組んで信孝を岐阜城に破り,その後切腹に追いこんだが,やがて秀吉と対立,天正12年には,徳川家康と結び,小牧・長久手の戦で秀吉と戦っている。しかしこのときは単独で秀吉と講和を結び,以後秀吉の越中攻め,小田原攻めに従軍した。ところが小田原攻めののち,家康旧領への転封を拒んで,秀吉の怒りを買い,下野烏山に配流され,出家して常真と号した。のちに家康のとりなしで秀吉の御咄衆となったが,一貫して家康サイドで動き,大坂夏の陣後,家康から大和国宇陀,上野国甘楽・多胡・碓氷郡のうちで5万石を与えられている。叔父の有楽斎(長益)に茶の湯を学び,茶人としても知られる。

(小和田哲男)

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世界大百科事典 第2版の解説

おだのぶかつ【織田信雄】

1558‐1630(永禄1‐寛永7)
安土桃山・江戸初期の武将。〈のぶお〉とも読む。信長の次子。幼名茶箋丸,のち三介。法名常真。伊勢国司北畠具房の養子となり名を具豊,さらに信意,信雄と改めた。本能寺の変後,清須城を中心に尾張,伊賀,南伊勢を領した。1583年(天正11)羽柴(豊臣)秀吉と絶ち徳川家康と結んで小牧・長久手に戦うが,講和する。小田原征伐後,領地のことで秀吉の怒りに触れ下野烏山に配流されるが,のちにゆるされる。関ヶ原の戦,大坂の陣では家康につき,戦後,大和国宇陀郡ほかで5万石を与えられた。

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大辞林 第三版の解説

おだのぶかつ【織田信雄】

〔「のぶお」とも〕 (1558~1630) 安土桃山・江戸初期の武将。信長の次男。本能寺の変後、尾張清洲城主。小牧・長久手に豊臣秀吉と対戦。のち秀吉と和解。大坂の陣後、家康より大和に五万石を与えられた。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

織田信雄
おだのぶかつ

[生]永禄1(1558).尾張,清洲
[没]寛永7(1630).4.30. 京都
安土桃山時代の武将。「のぶお」ともいう。信長の次男。幼名は茶箋丸または三介,入道して常真。永禄 12 (1569) 年,伊勢国司北畠具教の養子となり,名を具豊,のち信意,さらに信雄と改めた。天正3 (1575) 年,伊勢国司となり,本能寺の変後,清洲会議において弟信孝とともに兄信忠の遺児秀信 (幼名三法師) の後見として清洲を居城とし 100万石を領した。同 11年,信孝を岐阜に攻めて自刃させ,翌年徳川家康と結び,豊臣秀吉と対立し,小牧,長久手に対陣 (→小牧・長久手の戦い ) 。その後,和して秀吉のもとに服した。同 15年正二位内大臣となったが,同 18年除封され,のち家康の仲介により許され秀吉の御伽衆になった。豊臣氏滅亡後,関ヶ原の戦いでは西軍に加担したため,領地を失ったが,元和1 (1615) 年家康から大和国宇陀郡5万石を与えられた。なお信雄の系統は江戸時代を通じて存続した。 (→織田氏 )  

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世界大百科事典内の織田信雄の言及

【尾張国】より

…旧国名。尾州。現在の愛知県の西半部にあたる。
【古代】
 東海道に属する上国(《延喜式》)。面積の約6割が濃尾平野の南半部にあたる肥沃な沖積平野で,古墳の分布などから推察すれば,北部の犬山市や一宮市,北東部の春日井市あたりにも豪族の拠点があったと考えられる。しかし国全体を統轄する地位を確保したのは,平野南部の熱田台地に本拠をおく尾張国造たる尾張氏であろう。尾張氏は,ヤマトタケル伝説を媒介として,皇室とのつながりを誇示する豪族であった。…

【北畠氏】より

…鎌倉・室町時代の公家。三国司家の一つ。村上源氏。源通親の孫中院雅家が北畠氏を称し,その曾孫親房のとき,後醍醐天皇の信任をうけ,南朝の重鎮として活躍。さらにその三男顕能は1338年(延元3∥暦応1)閏7月初めて伊勢国司に就任し,以後戦国最末年に至るまでその拠城となった一志郡多気城に拠った。2代顕信は顕能の兄にあたる。彼は伊勢国司に関する基本文献,斎藤拙堂の《伊勢国司記略》には触れられていないが,残存史料から見てその在職は確実である。…

【玉丸城】より

…伊勢国度会(わたらい)郡にあった中・近世の城。田丸城とも書き,現,三重県度会郡玉城町田丸に城跡がある。1336年(延元1∥建武3)10月に伊勢の南軍である度会家行らが北畠親房・顕信とともに城に入り,以後42年(興国3∥康永1)に落城するまで南軍の拠点であった。その後北畠氏は多気(たけ)城に移るが,玉丸城も同氏の支配下にあり,北畠氏の家臣愛洲(あいす)氏,さらに北畠氏の庶流田丸氏の居城となる。田丸氏は田丸御所とも呼ばれ,その居城は大河内氏の拠る大河内(おかわち)城とともに,北畠氏の南勢支配の最重要拠点であった。…

【徳川家康】より

…江戸幕府初代将軍。1542年12月26日,三河国岡崎城内で生まれる。幼名は竹千代。父は岡崎城主松平広忠,母は刈谷城主水野忠政の娘(於大の方(おだいのかた),法号伝通院(でんづういん))。広忠は駿河の大名今川義元の勢力下で尾張古渡(ふるわたり)城主織田信秀と対立していたが,その渦中で於大の方の兄水野信元が今川氏に背いて織田氏と結んだので,於大の方は3歳の竹千代を残して離別され,まもなく尾張阿古居城主久松俊勝に再嫁し,竹千代19歳のときまで会うことがなかった。…

【松阪[市]】より

…71年(元亀2)には北畠具教は,細汲に釜をすえた他国の鋳物師(いもじ)の営業を禁止し,蛸路(たこじ)や阿波曾(あわそ)に居住する当国の鋳物師に保護を与えている。80年(天正8)織田信雄(のぶかつ)は新たに築城するとともに細汲を松ヶ島と改名したと伝えるが,《御湯殿上日記》同年9月16日条にはすでに〈松かしま〉とみえている。のち蒲生氏郷の松坂築城まで,松ヶ島は南伊勢の政治・経済・軍事の拠点であった。…

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