愛媛県中北部、松山(道後)平野の北部に位置する市。県庁所在地で、四国総合通信局、NHK四国地域拠点局などの機関が集まり、人口は51万1192(2020)で四国第一である。
1889年(明治22)市制施行(人口3万3000)。1926年(大正15)素鵞(そが)、朝見(あさみ)、御幸(みゆき)、雄郡(ゆうぐん)の4村、1940年(昭和15)三津浜(みつはま)町と堀江、和気(わけ)、久枝(ひさえだ)、潮見(しおみ)、桑原、味生(みぶ)の6村、1944年道後湯之(どうごゆの)町と生石(しょうせき)、垣生(はぶ)の2村、1954年興居島(ごごしま)、余土(よど)の2村、1955年五明(ごみょう)、伊台(いだい)、湯山(ゆやま)、久米(くめ)の4村、1959年浮穴(うけな)村、1961年小野村、1962年石井村、1968年久谷(くたに)村を編入。2000年(平成12)中核市に移行。2005年北条市、温泉(おんせん)郡中島町を編入。JR予讃(よさん)線、伊予(いよ)鉄道の高浜線・郡中(ぐんちゅう)線・横河原(よこかわら)線、市中心部で運行される同鉄道の軌道市内線、国道11号、33号、56号、196号、317号、379号、437号などが通じ、松山自動車道の松山インターチェンジがある。1999年、中心市街地の混雑を避けるために松山環状線が全通した。松山観光港、高浜港、三津浜港などからは中国地方を中心とする多くの航路があり、松山空港は国際線ではソウル、上海(シャンハイ)、国内線では北海道、東京、名古屋、大阪、福岡、鹿児島、沖縄などと結ばれる。
市域は重信(しげのぶ)川と石手(いして)川のつくる松山平野の大部分を占め、西部は瀬戸内海の斎灘(いつきなだ)に臨み、忽那(くつな)諸島などの島嶼(とうしょ)を含む。北東部には高縄(たかなわ)山地があり、南部は四国山地の一部黒森山(1154メートル)に及ぶ。面積429.35平方キロメートル。
[横山昭市]
『和名抄(わみょうしょう)』の風早(かざはや)郡の地。近世は松山藩に属した。条里制にちなむ地名が多い。関ヶ原の戦い後、正木(まさき)(松前(まさき))城主加藤嘉明(よしあき)は戦功により伊予松山20万石に封じられ、松山平野北部の丘陵勝山(かつやま)(味酒(みさけ)山)に築城、城下町を建設し、1603年(慶長8)正木城(伊予郡松前町)から移り、以後勝山を松山と称した。城下町は正木から移した特権商人の町(松前町)をはじめ、松山丘陵を囲むように武家屋敷、町人町を配置し、寺町を北西部に置いた。南側の町人町は外側(とがわ)と称し、松前町に比べ自由な商業活動を行い、これが現在の大街道(おおかいどう)や銀天街、千舟(ちふね)町などの中心商店街発展の基礎となった。旧市街地の南を流れる石手川は、城下町建設にあたって上流を改修したもので、藩政期には架橋を許さず、防御線でもあった。一方、水運の発展を図り外港三津(三津浜)を建設した。長崎の出島を模して砂州を埋め、船奉行(ふなぶぎょう)や御船場を置き、藩の軍港、商港とした。1635年(寛永12)には桑名から松平氏が15万石で入封し明治に至った。北条辻(つじ)や、その南の柳原(やなぎはら)は近世に在町(ざいまち)として発展し、当時の地割が残っている。第二次世界大戦末期の1945年(昭和20)7月、空襲により市街地の70%を焼失し、城下町のおもかげは鉤(かぎ)型道路や堀端の内堀に残るのみとなった。また、忽那諸島は、南北朝から近世初めまで瀬戸内水軍の雄であった忽那氏の根拠地で、近世は松山藩領、大洲(おおず)藩領、天領に三分されていた。
[横山昭市]
かつては銀行が集中し、1888年に日本最初の軽便鉄道が松山から三津浜間に開通したのも経済力の豊かさを示したものである。地場産業は伊予縞(じま)または伊予絣(がすり)と称された木綿織物で、久留米(くるめ)や備後(びんご)の絣とともに西日本有数の産出を誇った。近代工業は明治中期に松山紡績、昭和初期に井関農機が立地したが、本格的な工業化は第二次世界大戦後で、三津浜から吉田浜への沿岸に臨海工業地区が出現し、丸善石油(現、コスモ石油)、大阪曹達(ソーダ)(現、大阪ソーダ)、帝人などの化学工業が集中した。松山平野は溜池灌漑(ためいけかんがい)により穀倉地帯をなし、市は豊かな農村や瀬戸内海沿岸の漁村の中心として繁栄してきた。平野部は米作のほか野菜、ミカン栽培が盛ん。近年は住宅団地の建設も多い。沿岸には漁港が多く、タイやアジ、サバなどの漁獲があり、北条港はその拠点。ほかに化学、電気、機械工業、紡績、衣類製造、食料品製造、観光も盛ん。忽那諸島は、内海航行の風待ち港として発展し、海運業が栄えたが、近年はミカン栽培と漁業、そして観光が基幹産業である。
[横山昭市]
松山藩は文教に力を入れたため、明治以降も多くの文人を輩出した。とくに俳人正岡子規(まさおかしき)は有名で、市立子規記念博物館があり、句碑も多い。夏目漱石(そうせき)の小説『坊つちやん』にちなむ旧跡は大きな観光資源となっており、市内には明治時代の軽便鉄道をモデルにしてつくられた「坊っちゃん列車」(伊予鉄道)も走る。1989年には「坊っちゃん文学賞」が制定されている。
久米官衙遺跡群(くめかんがいせきぐん)は古代の官衙関連遺跡と古代寺院跡であり、国の史跡。松山城跡(国の史跡)には天守、櫓(やぐら)、門、塀など国の重要文化財に指定された建築物が多い。大宝寺(だいほうじ)の本堂(国宝)は鎌倉前期の県最古の建造物である。道後温泉は、聖徳太子(しょうとくたいし)や舒明(じょめい)天皇が来湯したと伝えられる日本最古の温泉の一つ。明治中期から昭和初期にかけての大規模木造建築である道後温泉本館は、1994年に国の重要文化財に指定された。道後公園はかつての湯築城跡(ゆづきじょうあと)(国史跡)で、中世に河野(こうの)氏が伊予国支配の本拠とした所である。温泉の周囲には古社寺が多く、宝厳寺(ほうごんじ)は時宗(じしゅう)の開祖一遍上人(いっぺんしょうにん)の生誕地で、木造一遍上人立像(2013年焼失)は国指定重要文化財。四国八十八か所第51番札所石手寺(いしてじ)には国宝の二王門のほか本堂、三重塔など鎌倉時代の国指定重要文化財が多い。このほか、太山(たいさん)寺の本堂(国宝)・仁王門、浄土寺本堂、伊佐爾波(いさにわ)神社本殿、江戸時代の豪農豊島(としま)家住宅、庄(しょう)地区が保管する木心乾漆菩薩(ぼさつ)立像、木造菩薩立像など多くの国指定重要文化財がある。下難波(しもなんば)地区には国指定天然記念物のエヒメアヤメ自生南限地帯がある。
忽那諸島や安居島(あいじま)、鹿島(かしま)などの島々、海岸一帯は瀬戸内海国立公園域。興居島の船踊りは国の選択無形民俗文化財。鹿島では野生のシカ(県指定天然記念物)が生息し、鹿島神社の神輿渡御(みこしとぎょ)祭礼「鹿島の櫂練り(かいねり)」は県指定無形民俗文化財。伊予万歳(いよまんざい)は有名。ほかに、種田山頭火(たねださんとうか)ゆかりの一草庵(いっそうあん)、藩校講堂であった明教館(めいきょうかん)、大正時代の欧風建築萬翠荘(ばんすいそう)(国指定重要文化財)、城山公園、松山総合公園、坊っちゃんスタジアム(松山中央公園野球場)、釣島(つるしま)灯台などがある。高等教育機関には、旧制松山高校(1919年設置)などを母体とする愛媛大学、松山高商(1923年設置)を前身とする松山大学のほかに、聖カタリナ大学、松山東雲(しののめ)女子大学がある。
[横山昭市]
『『松山市誌』(1962・松山市)』▽『『松山市史料集』全12巻(1980~1988・松山市)』▽『愛媛新聞社編・刊『松山市制100周年記念誌 創造都市まつやま』1~2部(1989)』▽『『松山市史』全5巻(1992~1995・松山市)』
山形県北西部、飽海郡(あくみぐん)にあった旧町名(松山町(まち))。現在は酒田市の南東部を占める地域。1955年(昭和30)松嶺(まつみね)町と上郷(かみごう)、内郷(うちごう)の2村が合併して松山町となる。2005年(平成17)八幡(やわた)、平田の2町とともに酒田市に合併。庄内(しょうない)平野の中西部に位置し、東部の出羽(でわ)山地と西端を流れる最上(もがみ)川に挟まれた南北に長い農村地帯。地域の南東部では初夏に最上峡から吹き出す清川だしとよばれる強風がみられ農作物に被害を与える。国道345号が南北に縦貫する。中心地の松嶺は近世には庄内藩から分知された松山藩の城下町として発展し、1869年(明治2)版籍奉還の際、松嶺藩と改称した。松山城大手門(県の重要文化財)は県下唯一の城門遺構。松山藩が習得したという松山能が伝わり、県指定無形民俗文化財。江戸時代中期の完成と考えられる総光寺の庭園は国指定名勝。米作中心の農業のほか、藩政期に藩士の副業として始められた板麩(いたふ)を特産する。
[中川 重]
『『松山町史』上下(1987~1989・松山町)』▽『『松山町史年表』(2005・松山町)』
宮城県中部、志田郡(しだぐん)にあった旧町名(松山町(まち))。現在は大崎(おおさき)市の東南部を占める地域。1890年(明治23)町制施行。2006年(平成18)古川市(ふるかわし)、志田郡三本木町(さんぼんぎちょう)、鹿島台町(かしまだいまち)、玉造(たまつくり)郡岩出山町(いわでやままち)、鳴子町(なるこちょう)、遠田(とおだ)郡田尻町(たじりちょう)と合併して、大崎市となった。JR東北本線が通じる。旧町域の南部は丘陵、北部を鳴瀬(なるせ)川が流れる。1603年(慶長8)以後、仙台藩の重臣茂庭氏(もにわうじ)が幕末まで居住した。農業が主産業となっている。地場産業として酒造りが行われる。金谷亀井囲(かなやかめいがこい)横穴古墳群、中世末の山城(やまじろ)千石(せんごく)城跡、茂庭氏の上野館跡がある。
[後藤雄二]
『『松山郷土誌』(1958・松山町)』▽『『松山町史』(1980・松山町)』
鹿児島県東部、曽於郡(そおぐん)にあった旧町名(松山町(ちょう))。現在は志布志(しぶし)市の北西部を占める。旧松山町は1958年(昭和33)町制施行。2006年(平成18)有明(ありあけ)町、志布志町と合併、市制施行して志布志市となった。松山の名は1593年(文禄2)志布志郷から分離した郷名にちなむ。平安末期に平家の一族が領したと伝え、近世には島津氏の直轄地で新橋(しんばし)に地頭仮屋(じとうかりや)があった。旧町域の大半がシラス台地で、耕地の70%を畑地が占めるが、1967年の灌漑(かんがい)水路完成で水田も増えた。メロンやピーマンなどの施設園芸のほか肉牛や養豚などが盛ん。
[白石太良]
『『松山町郷土史』(1969・松山町)』
愛媛県中部にある県庁所在都市。2005年1月旧松山市が北条(ほうじょう)市と瀬戸内海にある中島(なかじま)町を編入して成立した。人口51万7231(2010)。
松山市北西部,瀬戸内海に浮かぶ忽那(くつな)諸島の中心で,古くは忽那島とよばれた。大小の島々からなる愛媛県温泉郡旧中島町最大の島で,面積22km2,中島町全体の人口は6340(2000)。忽那島は奈良時代には法隆寺領で,平安時代には馬牛牧が置かれ,左右馬寮に馬牛を貢進している。のちには長講堂領忽那島荘となる。中世には忽那氏が水軍を擁して活躍した。花コウ岩からなる島は浸食地形がみられ,海岸線は屈曲する。島の東部,湾入する中島港は東にある睦月(むづき)島が風防となる良港で,旧松山市三津浜や広島方面への船が発着する(広島方面は廃止)。かんきつ類の栽培が盛んで,中島ミカンとして有名。島の北部の泰山(たいのやま)(289m)には忽那氏の城跡がある。南部の姫ヶ浜は海水浴場となっており,源義経が鎧を掛けたという伝説を伝える松などがある。島の大部分は瀬戸内海国立公園に含まれる。
執筆者:穐岡 謙治
松山市北部の旧市。1958年市制。人口2万8547(2000)。市域南東部に高縄山(986m)がそびえ,立岩川が西流して斎(いつき)灘に注ぐ。《和名抄》記載の古代風早郡5郷(粟井,河野,高田,難波,那賀)はいずれも市域内に比定される。河野郷は伊予の名族で中世に水軍を擁して勢威をふるった河野氏の根拠地で,高縄山上の高縄城をはじめ各所に城砦跡が残る。南北朝初期,河野通盛の建立という善応寺や,高縄寺,高縄神社など河野氏ゆかりの社寺もある。市街中心の北条と辻は,江戸時代には今治(いまばり)道に沿う街村であった。市街地周辺の北条平野は水田地帯で,米作とタマネギ,キャベツなどの野菜栽培が盛ん。1937年に誘致された倉敷紡績の工場があり,製瓦業も行われる。市域南部粟井地区は旧松山市のベッドタウン化している。北条港から約400mの海上に浮かぶ鹿(か)島は瀬戸内海国立公園に含まれる。斎灘上の安居(あい)島は江戸末期に風待港として繁栄した。八反地にある国津比古命(くにつひこのみこと)神社は風早国造物部阿佐利の創建という伝えのある古社で,秋祭は〈火事祭〉〈半鐘祭〉の異名がある。南にある櫛玉比売命(くしたまひめのみこと)神社とともに式内社。櫛玉比売命神社の境内地は前方後円墳で,その規模から有力な首長の墳墓とみられている。西部海岸沿いにJR予讃線が通る。
執筆者:篠原 重則
松山市中南部の旧市で,重信川流域の松山平野北部にある県庁所在都市。1889年市制。人口47万3379(2000)。中心市街地は近世初期,加藤嘉明が北部の分離丘陵勝山(132m)に居城を建設して松山と改称して以来,その城下町として発展した。愛媛県の発足(1873)によって松山は県庁所在都市となったが,第2次大戦前は人口10万人台で,産業も伊予絣(いよがすり)が特産であったにすぎない。戦後は周辺町村の合併と,臨海部に丸善石油,大阪曹達,帝人など化学工業が立地する。1980年には40万人を超え四国最大の都市となった。県の行政・経済・文化の中心をなすばかりでなく,四国地方の行政・情報の一中心となり,総務省四国総合通信局,NHK四国本部やNTT四国支社などもある。また,松山藩時代の外港として建設された三津浜は,瀬戸内海沿岸の商港として栄えてきたが,明治初期に阪神との間の定期船が寄港するようになり,その後広島(宇品)や九州との間にも航路が開け,県の重要な貨客ターミナルとなった。1888年に全国最初の軽便鉄道(現,伊予鉄道高浜線)が松山と三津浜間に開通したが,予讃線の高松~松山間の開通は1927年で著しく立ち遅れた。松山を中心とした鉄道網は現在,伊予鉄道によって3線が開設されており,市内電車も伊予鉄道により運行されている。
市内には松山城(史)をはじめ史跡が多く,日本最古の温泉といわれる道後温泉が中心部から市電で15分のところにあり,四国最大の温泉観光地となっている。松山城は,平野にそびえているため松山平野の交通標識ともなり,とくに夜景が美しい。戦災を受けたため,城下町の面影は城山周辺の内濠と市中心部の狭い道路,かぎ形道路などに残るにすぎない。市域周辺には四国八十八ヵ所51番札所石手寺など四国霊場の名刹が多く,遍路客は道後温泉観光客の1割にも相当する。旧松山藩は教育に熱心で,その文化的風土から正岡子規,河東碧梧桐など文人が輩出し,夏目漱石の《坊っちゃん》の舞台となった地でもある。人口の急増に伴って新しい住宅地が市の南郊農村地帯などに進出し,松山市の都市圏は拡大している。松山自動車道のインターチェンジがある。中国・四国地方で最初にジェット機が就航した松山空港は,この地方最大の乗降客を誇る空港となっている。
執筆者:横山 昭市
伊予国松山藩の城下町。1602年(慶長7)伊予郡正木(松前)(まさき)城主加藤嘉明が勝山に松山城とその城下町の建設を始め,翌年に移住した。次いで,蒲生氏,松平(久松)氏の城下町となった。松山城は嘉明の臣足立重信を普請奉行として起工された。勝山の山上に本丸,西麓に二の丸,その西に堀之内,三の丸が配置され,二の丸の一部と堀之内に土塁と堀をめぐらし,北麓に北ノ郭(くるわ),東麓に東ノ郭を築いた平山城で,総面積は26町余であった。城主の居館は元来二の丸邸であったが,87年(貞享4)三の丸邸に移り,さらに94年(元禄7)には西の丸邸を建てている。
家中町は藩主邸と上級武士の屋敷のある堀之内を中心とし,城西・城南に町人町,城北に寺院が集中した。嘉明の築城当初の町人町は古町30町であった。元禄年間には,そのほかに外廻(そとまわり)町23町,城下町と郷村の境界に水呑町18町が成立していて,合計71町となり,幕末には100町に達している。町人町71町は新町組,府中町組,本町組,魚町組,松前町組,松屋町組(以上古町分),南古萱町組,藤原町組,河原町組,唐人町組,壱万町組(以上外廻町と水呑町)の11組に分かれ,それぞれの組に4~9町が含まれていた。町政は最初,府中町に町奉行所と町会所が置かれた。町奉行所は,1702年に東西町奉行所に分割され,東町奉行所は,98年(寛政10)には代官町に移された。町奉行は町方の統制・検察のため,その下に町方改役,同心小頭,同心を置いていた。町会所は町方の自治機関で,藩の監督の下に大年寄,大組頭,町年寄,組頭を置いた。大年寄は富商のうちから選任され,大組頭は大年寄を補佐する役職で,11組から2人ずつ選出された。町年寄は村方の庄屋役に相当する。また,城下町と郷村の境界の要衝には番所が設置された。松山城下の外港三津に通じる三津道には三津口,堀江・和気方面の木屋町口,道後・湯山(ゆのやま)方面の壱万口,西条方面の新立(しんだて)口,砥部(とべ)・久万(くま)方面の立花口,松前・郡中方面の土橋口の6ヵ所がそれである。1784年(天明4)の町家総数は4251軒(本家1868,借家2383)であり,職種は大工,刻煙草屋,荒物屋など122種に達している。このほかに日雇495軒(本家88,借家407),武家奉公人443軒(本家255,借家188),出商売283軒(本家97,借家186),田作り258軒(本家126,借家132)があった。このことは,水呑町には半商半農の者も居住し,城下周辺の郷村部との交易に従事していたことを示している。古町などには,唐人町の茶屋吉蔵らの豪商の存在が知られているが,城下町周辺には郷村における商品経済の発展によって,新興商人層が多く生まれた。このため城下町商人との間に対抗関係も生じたようで,1867年(慶応3)には藩が伊予絣の製造を道後村湯之町に限っている。
執筆者:三好 昌文
武蔵国比企郡の中心部(現,埼玉県東松山市)。松山本郷ともいう。鎌倉期この地域一帯には押垂(おしだれ),小代(しようだい),高坂,野本らの鎌倉御家人や小代仏師,岩殿山,光福寺,野本寺などが知られるが,松山の名は確認できない。南北朝期にこれら諸氏は滅びこの地域は足利氏領となり,諸寺領等に分与され,一部は関東管領上杉氏の重臣上田氏の所領となるか。松山本郷の初見は1409年(応永16)だが領主は未詳。戦国初期には市ノ川を隔てた対岸の比企丘陵先端(横見郡。現在の比企郡吉見町)に築かれた扇谷(おうぎがやつ)上杉方の松山城主として太田氏,上田氏,難波田氏などが見え,後期には後北条氏の領国となり直属の松山衆が駐留し,ついで上田氏が松山城主となる。その支配領域は松山領と呼ばれ,ほぼ松山城・松山本郷以西の比企郡域に及ぶ。松山本郷は松山領の経済中枢として,伝馬の宿駅,5日,10日の六斎市,新宿も立てられる町場として松山宿と呼ばれ,町代官が置かれ〈町人さばき〉にゆだねられるが,戦国末しだいに城下町化の傾向を強める。1590年(天正18)後北条氏の滅亡後は徳川領となり,松平(桜井)家広が松山城1万石を領するが,1600年(慶長5)廃城となり,松山町約2000石は幕領,旗本嶋田氏領(1641-),川越(1866年前橋に移封)松平氏領(1811-)と変遷し,幕末には陣屋も置かれた。1954年に東松山市となる。
執筆者:藤木 久志
備中国の城下町。現在の岡山県高梁(たかはし)市の中心部。町の北方にある臥牛(がぎゆう)山(478m)の山頂には中世に山城が築かれ,秋庭(あきば),上野,庄,三村の諸氏が相次いで城主となった。関ヶ原の戦後に小堀正次,政一(遠州)が備中代官として松山在番となった。1617年(元和3)池田長幸が松山藩6万5000石を領し,次の藩主水谷(みずのや)氏時代(1642-93)に松山城下町がほぼ完成した。歴代藩主の居城は臥牛山頂にあり,山麓に設けられた〈御根小屋〉が藩主の居館かつ政庁である。これを中核として侍屋敷,町家(22町)が逐次成立し,寺町および愛宕山麓に20の寺社があり,藩校有終館や教諭所も江戸後期に設置された。1869年(明治2)松山を高梁と改称した。現在でも城下町の遺構は多く,備中松山城,頼久寺庭園などがある。
執筆者:谷口 澄夫
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…竜門山地の南東斜面と宇陀川流域に発達した宇陀盆地からなり,平均標高350mの高原地帯である。中心集落の松山は,近世初期は織田氏の城下町として栄え,六斎市も開かれた市場町であった。明治以降も郡役所が置かれるなど,宇陀郡の中心地である。…
…人口2万6072(1995)。旧称を松山といい,1240年(仁治1)秋庭氏が高梁川左岸の臥牛(がぎゆう)山に築城,14世紀に高橋氏に代わったころより備中の政治中心地となった。以後,城主の交代が激しく,17世紀後半に水谷(みずのや)氏が松山城の改築,城下町の整備を行い,1744年(延享1)板倉氏が入封,幕末にいたった。…
…伊予国(愛媛県)和気郡,伊予灘に臨む松山城下町の外港。1603年(慶長8)加藤嘉明の時代に初めて船場を設け,船奉行を置いた。…
※「松山」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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