守部庄(読み)もるべのしよう

日本歴史地名大系 「守部庄」の解説

守部庄
もるべのしよう

平安期よりみえる庄園。「宇佐大鏡」に万寿三年(一〇二六)に立庄された「守部庄」がみえ、生葉いくは郡内で、本田一五町、起請田一八町七反余、用作一町(舂米一二石)からなっていた。庄司は安倍成末。鎌倉期の宇佐神領次第案(到津文書/大分県史料三〇)にも庄名が記される。モンゴル襲来の頃、筑後国の御家人に守部弥次郎盛通・同四郎盛時・同六郎光盛らがおり(建治三年七月五日「大友頼泰書下」斑島文書/鎌倉遺文一七)、当地を拠点とする領主か。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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