守部村(読み)もりべむら

日本歴史地名大系 「守部村」の解説

守部村
もりべむら

[現在地名]尼崎市南武庫之荘みなみむこのそう一丁目・同三―一一丁目・水堂町みずどうちよう二―四丁目・武庫町むこちよう一―四丁目・武庫之荘西むこのそうにし二丁目

西武庫村の南に位置し、西は武庫川を隔てて久右衛門きゆうえもん新田。「山槐記」によると、治承四年(一一八〇)七月二二日中山忠親は福原ふくはらから京への帰路西宮から守部を歴覧し、河尻かわじりに向かっている。八月一〇日福原に向かうため河尻から輿に乗り守部庄に着いた忠親は、同庄が美作権守雅長の預(領か)で、河尻の乾(北西)に位置し、都からの距離は一里であると記す。正治二年(一二〇〇)五月二六日の広田ひろた(現西宮市)領神郷田への国役賦課停止を命ずる官宣旨案(壬生家文書)によれば、源邦長所領字守部田畠においては、なお国衙による賦課が続いており、国役が停止されていない。貞和元年(一三四五)に起きた生魚売買をめぐる同社神人と浜崎はまざき庄神人との傷害事件に際し、翌二年一〇月に出された広田社神官等陳状(広田社旧記)によると、森部村地頭細川七郎三郎入道代官の水野平七致国の書状が浜崎側の証拠として提出されている。


守部村
もるべむら

[現在地名]大刀洗町守部、北野きたの守部もりべ

筑後川右岸に位置し、北は菅野すがの村に接する。東寄りを小石原こいしわら川が南北に流れる。中世は守部庄などとしてみえる。文禄四年(一五九五)一二月一日の小早川秀俊充行知行方目録(萩藩閥閲録)では三井郡「守部村」の三五二石余など二千石が草苅重継の領知となっている。正保四年(一六四七)の大小道之帳によれば、片瀬かたのせ(現田主丸町)までの小道筋に筑後川の舟渡りがあり、広さ一〇〇間・深さ一間二尺。本高は四三七石余(元禄国絵図)。宝永七年(一七一〇)床島とこしま堰渠築造を出願した二一ヵ村のうちで、正徳二年(一七一二)普請では庄屋秋山善太郎は御手伝御用聞を務めた(「床島井堰出来発端書留」床島堰渠志料)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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