宮城彦助(読み)みやぎ・ひこすけ

朝日日本歴史人物事典 「宮城彦助」の解説

宮城彦助

没年:文久3.8.27(1863.10.9)
生年:文化10(1813)
幕末の長州(萩)藩の奇兵隊士。名は御楯,書室の号として夜雨草庵,彦助は通称。長州藩八組士の子として平安古(萩市)に生まれた。禄高500石。国学を修め,和歌を学んだ。文久3(1863)年,中山忠光の長州藩潜伏に従い,次いで下関随行。同年5月には対外国船砲撃に参加した。6月奇兵隊に入隊。奇兵隊は士庶混交の有志隊である。武士だけの先鋒隊はこれに反発,外国船砲撃の件で侮辱を受けたとして,宮城宿舎を襲うと威嚇した。それにより奇兵隊士が先鋒隊屯所の教法寺に押しかけた教法寺事件が発生。藩庁は,事を穏便に収めるため宮城に切腹を命じた。

(三宅紹宣)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「宮城彦助」の解説

宮城彦助 みやぎ-ひこすけ

1813-1863 幕末の武士。
文化10年生まれ。長門(ながと)(山口県)萩(はぎ)藩士。門閥家臣であったが奇兵隊にはいり,門閥家臣団の先鋒隊士と対立。文久3年8月16日に両隊が衝突し,事件の責任をとわれて同年8月27日切腹。51歳。名は御楯(みたて)。号は対鳧(ついふ)。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

今日のキーワード

焦土作戦

敵対的買収に対する防衛策のひとつ。買収対象となった企業が、重要な資産や事業部門を手放し、買収者にとっての成果を事前に減じ、魅力を失わせる方法である。侵入してきた外敵に武器や食料を与えないように、事前に...

焦土作戦の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android