幕末・維新期,長州藩で編成され,維新の動乱に活躍した士庶混合の軍事組織。結成は1863年(文久3)6月で,場所は下関の豪商白石家。上海で中国の半植民地化をまのあたりにした長州藩士高杉晋作が,安政期以降の長州藩軍制改革の成果に立って,藩主の信任のもとにつくったのが奇兵隊である。ときに長州藩は,攘夷期限(1863年5月10日)の外船砲撃の結果,米・仏などの反撃によって武士階級の無力さを暴露されていた。高杉は,〈陪臣・雑卒・藩士〉の身分にかかわらず,志があれば,力量本位で奇兵隊への参加を認めた。
〈奇兵〉の意には,〈正兵〉(藩正規兵)に対する意味と,ゲリラ軍事力の二重の意味がこめられていたとみてよい。それは幕末期,外圧と幕藩体制の矛盾とが交錯した危機的状況の中で,伝統的停滞的社会の突破口ともなった軍事力である。《稿本もりのしげり》(1916刊,増補訂正版1932刊)所収の〈旧長州藩諸隊表〉には,161の諸隊(この隊編成は軍・団あるいは組・兵ともいう)が数えられるが,これには純然たる藩士の隊や農兵隊・商兵隊も含まれており,奇兵隊はそのひとつであると同時に,奇兵隊の名はこれら諸隊の総称としても使用される。《長藩奇兵隊名鑑》に奇兵隊員として載る622名中,不詳63名を除いた559名についての研究によると,士分格272名(48.6%),農民237名(42.4%),町人25名(4.5%),社・僧25名(4.5%)の比率を示す。奇兵隊は士,庶相半ばした士庶混合の軍事力であったことがわかる。この士分格には下士・陪臣・軽卒が多いが,農民は商品経済の発展した瀬戸内地帯における中下層農民の次・三男が多く参加している。町人には萩や馬関(下関)地方の者が多い。奇兵隊には武士的イデオロギーが要請されると同時に,庶民的要素を内包していた。奇兵隊の人員は,1865年(慶応1)初頭は300余名だったが,3月には定員は375名とされ,5月には400名とされた。総督(総管)には高杉のあと,河上弥市,滝弥太郎,赤根武人,山内梅三郎,山県有朋らがなっている。指揮系統は総督-伍長-隊員となっており,意見具申もこの系統によった。しかし,幹部級の指揮・合議の場である〈会議所〉をもっていたことは注目してよい。隊規は厳格で,陣中の他行や酒宴,遊興,淫乱,高声,けんか,口論を禁じ,敵味方の批判も禁止されていた。
奇兵隊は,1863年6月の結成後3ヵ月で下関から小郡(おごおり)宰判の秋穂に移ったが,その年末にはふたたび下関に戻り,翌64年(元治1)8月まで在陣,その年の暮れから65年のはじめにかけては,高杉の挙兵によって,諸隊解散令を出していた藩政府(いわゆる俗論派)から主導権を奪った。この藩内戦では宮市(みやいち)・生雲(いくも)・山口・萩などに転戦し,翌年7月にかけては吉田・長府に駐屯した。幕府との対決を目ざし,藩主導権を握った討幕派(いわゆる正義派)は,奇兵隊以下諸隊を軍事的基盤にしていたのである。奇兵隊は第2次征長においては幕府軍と果敢に戦い,豊前にも出陣した。また,戊辰戦争では伏見や北越などに転戦し,出陣した延べ620名中,戦死74,負傷121を数えた。69年11月の常備軍編成に端を発したいわゆる脱隊騒動(諸隊反乱)には,奇兵隊も他の諸隊と共に約半数が反乱した。これに農民一揆が同調し,内乱化をおそれた維新政府は,木戸孝允(たかよし)らを派遣してこれを鎮圧した。
一般には,奇兵隊を日本軍隊の原型としているが,それは奇兵隊以下諸隊を換骨奪胎させたこの諸隊反乱の過程を無視することになり,ひいては天皇制軍隊の本質を見誤ることにもなる。また,明治維新論にはつねに奇兵隊が二重写しに論じられているが,それは奇兵隊が,維新変革の権力と民衆の接点に立っているからにほかならない。
執筆者:田中 彰
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1863年(文久3)6月高杉晋作(しんさく)によって創設された長州藩最初の民兵隊。同年5月長州藩は攘夷(じょうい)を決行し、下関(しものせき)海峡を通航する外国船を砲撃した。このため同月から翌月にかけて米・仏艦から報復攻撃を受け、下関前田砲台が一時占領されるなど苦戦を強いられた。この難局を打開するため、藩府は謹慎中の高杉晋作を登用。高杉は下関の豪商白石正一郎宅で藩府の正規軍とは異なる民兵隊を組織し、奇兵隊と名づけた。奇兵隊は身分にこだわらず、武士、陪臣(ばいしん)、百姓、町人の中から、500名の有志の者を募って組織し、高杉が総督となり、幹部には実力のある者を任命した。庶民の参加者も多く、これまであった有志の集団、光明寺党などもこれに加わった。隊士は武器と俸給が藩から支給され、庶民出身者も苗字(みょうじ)帯刀が許された。奇兵隊の駐屯所は最初は下関に置かれたが、のち厚狭(あさ)郡吉田村(下関市大字吉田)に移った。1865年(慶応1)の藩内の内訌(ないこう)戦には諸隊方の主力となって戦い、翌年の第二次長州征伐時には豊前口(ぶぜんぐち)の戦いの主力軍として活躍し、小倉城を占領した。続いて68年(慶応4)戊辰(ぼしん)戦争では鳥羽(とば)・伏見(ふしみ)の戦いに参加、さらに北越戦争で奮戦した。このため戦死者77名、戦傷病死者61名、負傷者約199名を出した。翌年兵制改革により諸隊は解散された。奇兵隊はじめ諸隊士は解散に反対し、脱隊騒動を起こして藩府軍と戦ったが、やがて鎮圧解除された。
[広田暢久]
『『奇兵隊日記』全四巻(1918・日本史籍協会)』▽『田中彰著『幕末の長州』(中公新書)』
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幕末・維新期の長門国萩藩でうまれた軍事組織。高杉晋作(しんさく)が1863年(文久3)6月に下関で編成したのが最初。士庶混成の編成と幹部クラスの会議所による合議体制が特徴で,洋式化された藩軍制のなかに組み込まれ,正規兵に対して奇兵と称された。ほかの洋式部隊とともに諸隊とよばれ,その象徴的存在でもあった。隊は武士的理念で支えられ,65年(慶応元)中には定員400人であった。藩改革派の軍事的基盤となり,藩内戦や第2次長州戦争,さらに戊辰(ぼしん)戦争で活躍したが,維新後の集権的な常備軍編成の動きに反発し,69年(明治2)11月,他の諸隊とともに脱隊騒動をおこし,維新政府は農民一揆との結合を恐れ,徹底的に弾圧した。
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…長州藩士。松下村塾の逸材で,奇兵隊を創設したことで有名。萩の菊屋横丁,150石の家に生まれ(父は小忠太,母は道子),名は春風,字は暢夫(ちようふ),通称は晋作,東一または和助ともいう。…
…農兵隊のほとんどは平時には農業に従事する文字どおりの農兵であり,恒常的な隊をなしていないが,有志者を募り強固な隊組織を形成した,有志の草莽(そうもう)諸隊も見られる。長州藩の奇兵隊や遊撃隊などの諸隊は藩の正規軍に編入されたが,有志諸隊の代表的事例であり,下級武士,農民,町民,被差別部落民を動員し,戊辰戦争の軍事力の一翼となり,討幕派最強の軍隊となった。このほか,各地の郷士や豪農の率いる草莽勤王隊が戊辰戦争の官軍側に参戦した。…
※「奇兵隊」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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