長門(読み)ナガト

デジタル大辞泉 「長門」の意味・読み・例文・類語

ながと【長門】

旧国名の一。今の山口県の北西部に相当する。長州。
山口県北西部、日本海に臨む市。水産業が盛んで、仙崎かまぼこの産地。青海おうみ湯本温泉など観光地が多い。平成17年(2005)3月に大津郡3町と合併。人口3.8万(2010)。
日本海軍の戦艦。陸奥むつと同型艦。大正9年(1920)八八はちはち艦隊の一番艦として竣工。排水量3万2700トン。第二次大戦敗戦後、ビキニのアメリカ原爆実験の標的艦とされ沈没。

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精選版 日本国語大辞典 「長門」の意味・読み・例文・類語

ながと【長門】

  1. [ 一 ] 山陽道八か国の一つ。大化改新で穴門(あなと)国となり、のち、長門国となる。鎌倉時代には土肥・佐々木氏らが守護となり、元寇以後は北条氏が支配。南北朝時代には周防国守護大内氏がその勢力を伸ばしたが、のち毛利氏が領有、江戸時代には毛利氏三六万九千石の長州藩が置かれた。明治四年(一八七一)の廃藩置県により山口・豊浦・清末の三県に分かれ、同年末岩国県を合わせて山口県となる。長州。
  2. [ 二 ] 山口県北西部の地名。日本海に面する。北長門海岸国定公園の観光基地。北部の仙崎港は漁業の基地。青海島(おうみしま)、湯本・俵山の温泉がある。昭和二九年(一九五四)市制。
  3. [ 三 ] 太平洋戦争開戦時まで最大の旧日本海軍の戦艦。「陸奥(むつ)」と同型。大正九年(一九二〇)の八八艦隊案の一番艦として同年完成。排水量三万二七二〇トン、改装後三万九一三〇トン。速力二六・五ノット。昭和二一年(一九四六)アメリカの原爆実験に供され、ビキニで沈没。

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改訂新版 世界大百科事典 「長門」の意味・わかりやすい解説

長門[市] (ながと)

山口県北西部の市。2005年3月旧長門市と日置(へき),三隅(みすみ),油谷(ゆや)の3町が合体して成立した。人口3万8349(2010)。

長門市中部の旧市で,日本海に面する。1954年市制。人口2万4092(2000)。三方を山に囲まれ,中央を深川(ふかわ)川が北流して深川湾に注ぐ。北東端の仙崎の砂嘴の先に青海(おうみ)島が浮かぶ。仙崎は近世以降北浦沿岸の海運の中心であり,捕鯨基地でもあった。水産加工ではとくに仙崎かまぼこが有名。深川平野は古代の深川郷(《和名抄》)の地で,中世には三条家領深川荘が置かれた。深川の正明市(しようみよういち)は近世には市場町として栄え,現在はJR山陰本線と長門市駅から南にのびる美祢(みね)線との分岐点となっている。深川の赤埼神社の例祭に奉納される南条踊の楽桟敷(がくさじき)は,国の重要有形民俗文化財。深川の大寧(たいねい)寺は,陶晴賢(すえはるかた)の謀反にあった大内義隆が自刃したところ。市内には俵山温泉湯本温泉がある。湯本温泉一帯は音信(おとずれ)川ゲンジボタル発生地(天)。青海島を中心とした海岸線一帯は風光にすぐれ,海上アルプスの異称をもち,北長門海岸国定公園に含まれる。
執筆者:

長門市北西部の旧町。旧大津郡所属。人口4668(2000)。北は日本海に面し,中央を掛淵川が西流する。古代は《和名抄》の日置郷の地で,中世には日置荘が置かれた。中心集落の古市は,萩から下関へ向かう赤間関街道の宿駅,また市場町として栄えた。掛淵川の沖積地は山陰有数の穀倉地帯で,北部の雨乞岳では開拓事業により松,杉,ヒノキなどの育苗が行われる。海岸部は北長門海岸国定公園に属し,深川(ふかわ)湾を臨む地に黄波戸(きわど)温泉(単純泉,22℃)がある。JR山陰本線が通じる。

長門市東部の旧町。旧大津郡所属。人口6419(2000)。東は萩市,西は旧長門市に接し,北は仙崎湾に臨む。中央を三隅川が北西流し,川沿いの平たん地に集落が分布する。南は天井山(602m),権現山(560m)などの山地である。中世には伊勢神宮領三隅御厨が置かれていた。米作中心の農業が行われ,スイカやイチゴの施設園芸,養鶏,養豚が盛んである。また仙崎湾を利用した浅海養殖が盛んで,カキ,ノリの養殖が行われる。木工,食料品などの工場があり,かまぼこを特産。仙崎湾最奥の沢江に,長州藩の天保改革を推進した村田清風の旧宅と墓(史)がある。三隅川沿いの湯免温泉はラジウム含有量の多い単純放射能泉で,近くにプールや公園がある。三隅八幡宮の例祭には,古くから伝わる腰輪踊が奉納される。海岸部は北長門海岸国定公園に含まれ,JR山陰本線,国道191号線が通じている。

長門市西部の旧町。旧大津郡所属。人口8294(2000)。油谷湾を抱いて日本海に突出する向津具(むかつく)半島と,その対岸山地からなる。油谷湾に注ぐ掛淵川とその支流の流域に沖積地が開ける。半島一帯は,平安時代末期の京都新日吉(いまひえ)社領向津奥(むかつく)荘とされている。油谷湾沿岸は天然の良港で,また外海に面する川尻や津黄(つおう)では江戸時代,捕鯨が行われていた。農業,水産業が中心で,ビワ,モモの栽培,肉牛の飼育,養鶏,クルマエビ,ハマチなどの養殖も進められている。新別名(しんべつみよう)や向津具には柿本人麻呂来住伝説が伝わり,新別名には八幡人丸神社が鎮座し,山陰本線人丸駅もある。向津具半島北側,外海に面して〈竜宮の潮吹〉(名・天)とよばれる海食崖がある。激浪が岩壁の穴に突入して平常時には高さ10m,強風時には200mに及ぶ噴潮現象を起こす。半島突端の油谷島に接する俵島(名・天)は玄武岩からなる小島で,柱状節理板状節理によって米俵を積み重ねたような奇観を呈する。JR山陰本線に沿って国道191号線が通じる。
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長門(長野) (ながと)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「長門」の意味・わかりやすい解説

長門(市)
ながと

山口県北西部に位置し、日本海に臨む農水産観光都市。1954年(昭和29)仙崎(せんざき)、深川(ふかわ)の2町と通(かよい)、俵山(たわらやま)の2村が合併して市制施行し、旧国名を市名とした。2005年(平成17)三隅(みすみ)、日置(へき)、油谷(ゆや)の3町を合併。沿岸を東西にJR山陰本線、国道191号が走り、正明市(しょうみょういち)から南へJR美祢(みね)線と国道316号が分岐する。また、油谷で国道191号から491号が分岐する。深川平野は『和名抄(わみょうしょう)』の深川郷の地で、条里遺構を残す開発の古い農村地域。中世には三条家の荘園(しょうえん)となり、深川庄(しょう)と称した。近世の市場町から発展した正明市は大津地方の商業、交通の中心をなし、市役所の所在地。仙崎は長州藩時代西廻(にしまわり)海運の寄港地として栄えた要津で、日本海捕鯨の基地でもあった。第二次世界大戦直後は引揚げ港として知られ、現在は北浦沿岸第一の漁港で、小型底引網や刺網漁業の母港となっている。水産加工も盛んで、特産はかまぼこ。東部の三隅地区は『和名抄』の三隅郷の地で、農林業のほか、沿岸漁業が盛んである。西部の日置地区は『和名抄』の日置郷、中世の日置庄(しょう)の地で、米どころとして知られる。また、西端の油谷地区は米作が盛んで、向津具(むかつく)半島の海女(あま)漁業は有名である。市内には俵山温泉や湯本温泉、黄波戸(きわど)温泉、湯免(ゆめん)温泉、油谷湾温泉など、および北長門海岸国定公園の中心をなす青海(おうみ)島(国の名勝、天然記念物)、俵(たわら)島(国の名勝、天然記念物)などがある。県史跡大寧寺(たいねいじ)や萩(はぎ)焼深川窯もある。湯本南条踊は県指定無形民俗文化財。そのほか、長門市出身の童謡詩人金子みすゞの記念館、洋画家香月泰男(かづきやすお)の美術館、古式捕鯨を解説した「くじら資料館」などがある。面積357.31平方キロメートル、人口3万2519(2020)。

[三浦 肇]

『『長門市史』全2巻(1979、1981・長門市)』



長門(旧町名)
ながと

長野県中東部、小県郡(ちいさがたぐん)にあった旧町名(長門町(まち))。現在は長和(ながわ)町の東部を占める。旧長門町は1956年(昭和31)長窪古(ながくぼふる)町、長久保新町(ともに1889年町制施行)と大門(だいもん)村が合併して成立。2005年(平成17)和田(わだ)村と合併し長和町となる。千曲(ちくま)川の支流依田(よだ)川上流部にあり、旧町域の82%は山林。谷底は米作のほか薬用ニンジンも栽培される。国道142号(中山道(なかせんどう))、152号(大門街道)、254号が走る。中心の長久保新町は中山道の長窪宿で、当時の民家が残り昔のおもかげをとどめ、また東へ1キロメートルほど行くと中山道の松並木のある笠取峠(かさとりとうげ)に至る。笠取峠付近から北の、上田(うえだ)市境界にかけての地域は学者村とよばれる別荘地。南部の茅野(ちの)市との境にある大門峠は古代、中世を通じ、諏訪(すわ)方面と上田・長野方面を結ぶ重要な峠で、戦国末期武田氏はこの峠を北へ越えて上田方面へ進攻した。峠を下った姫木平(ひめきだいら)も別荘地となっている。

[小林寛義]

『『長門町誌』(1961・長門町)』


長門(戦艦)
ながと

かつて日本海軍が保有した戦艦。第一次世界大戦の戦訓を取り入れ世界初の40センチ砲を採用、1920年(大正9)11月竣工(しゅんこう)した。基準排水量3万2720トンで26.5ノットの高速を誇り、姉妹艦陸奥(むつ)とともに連合艦隊のシンボルとされ、長く旗艦をつとめた。この長門型八隻と巡洋戦艦八隻の八八艦隊を主力として対米洋上決戦に勝利を収めるとするのが日本海軍の基本戦略であった。軍縮条約失効後、大改造を行って排水量を6410トン増加させ、航続力と水中防御力を強化したが、大艦巨砲の威力を発揮する機会には恵まれなかった。陸奥は瀬戸内海の泊地で火薬庫の爆発により沈没(1943)。長門は横須賀(よこすか)で損傷のまま終戦を迎えたのち、アメリカ核実験の標的艦として中部太平洋ビキニ環礁に引航され、1946年(昭和21)7月1日と26日の原爆実験で礁湖の底に沈んだ。

[前田哲男]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「長門」の意味・わかりやすい解説

長門
ながと

長野県中部,長和町東部の旧町域。蓼科山の北西斜面に位置し,千曲川の支流依田川の中・上流域を占める。 1956年長窪古町,長久保新町,大門村が合体して長和町が成立。 2005年和田村と合体して長和町となった。北部にある中心集落の長久保は近世中山道の宿場町で,当時の面影を残す。北東部の笠取峠付近は別荘地に開発された。ほとんどが山林原野で,高原に点在する牧場で酪農が行なわれる。白樺湖に通じる南部の大門峠付近には,国指定史跡の星糞峠黒曜石原産地遺跡があり,観光開発が進んでいる。一部は八ヶ岳中信高原国定公園に属する。

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デジタル大辞泉プラス 「長門」の解説

長門

日本海軍の戦艦。長門型戦艦の1番艦。1919年進水、1920年就役の超弩級戦艦。40センチ主砲を積んだ日本初の戦艦。太平洋戦争開戦時の連合艦隊旗艦。ミッドウェー海戦、マリアナ沖海戦などに参加。大戦末期、横須賀停泊中にアメリカ軍の攻撃により中破。敗戦後、賠償艦としてアメリカに引き渡される。1946年、ビキニ環礁での原爆実験の標的艦として使用され、沈没。

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防府市歴史用語集 「長門」の解説

長門

 山口県西半分の旧国名です。国府[こくふ]や国分寺[こくぶんじ]は下関市長府にありました。奈良時代には銅銭[どうせん]を造る鋳銭司[じゅせんし]も置かれていました。

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