山口県北西部の市。2005年3月旧長門市と日置(へき),三隅(みすみ),油谷(ゆや)の3町が合体して成立した。人口3万8349(2010)。
長門市中部の旧市で,日本海に面する。1954年市制。人口2万4092(2000)。三方を山に囲まれ,中央を深川(ふかわ)川が北流して深川湾に注ぐ。北東端の仙崎の砂嘴の先に青海(おうみ)島が浮かぶ。仙崎は近世以降北浦沿岸の海運の中心であり,捕鯨基地でもあった。水産加工ではとくに仙崎かまぼこが有名。深川平野は古代の深川郷(《和名抄》)の地で,中世には三条家領深川荘が置かれた。深川の正明市(しようみよういち)は近世には市場町として栄え,現在はJR山陰本線と長門市駅から南にのびる美祢(みね)線との分岐点となっている。深川の赤埼神社の例祭に奉納される南条踊の楽桟敷(がくさじき)は,国の重要有形民俗文化財。深川の大寧(たいねい)寺は,陶晴賢(すえはるかた)の謀反にあった大内義隆が自刃したところ。市内には俵山温泉と湯本温泉がある。湯本温泉一帯は音信(おとずれ)川ゲンジボタル発生地(天)。青海島を中心とした海岸線一帯は風光にすぐれ,海上アルプスの異称をもち,北長門海岸国定公園に含まれる。
執筆者:三浦 肇
長門市北西部の旧町。旧大津郡所属。人口4668(2000)。北は日本海に面し,中央を掛淵川が西流する。古代は《和名抄》の日置郷の地で,中世には日置荘が置かれた。中心集落の古市は,萩から下関へ向かう赤間関街道の宿駅,また市場町として栄えた。掛淵川の沖積地は山陰有数の穀倉地帯で,北部の雨乞岳では開拓事業により松,杉,ヒノキなどの育苗が行われる。海岸部は北長門海岸国定公園に属し,深川(ふかわ)湾を臨む地に黄波戸(きわど)温泉(単純泉,22℃)がある。JR山陰本線が通じる。
長門市東部の旧町。旧大津郡所属。人口6419(2000)。東は萩市,西は旧長門市に接し,北は仙崎湾に臨む。中央を三隅川が北西流し,川沿いの平たん地に集落が分布する。南は天井山(602m),権現山(560m)などの山地である。中世には伊勢神宮領三隅御厨が置かれていた。米作中心の農業が行われ,スイカやイチゴの施設園芸,養鶏,養豚が盛んである。また仙崎湾を利用した浅海養殖が盛んで,カキ,ノリの養殖が行われる。木工,食料品などの工場があり,かまぼこを特産。仙崎湾最奥の沢江に,長州藩の天保改革を推進した村田清風の旧宅と墓(史)がある。三隅川沿いの湯免温泉はラジウム含有量の多い単純放射能泉で,近くにプールや公園がある。三隅八幡宮の例祭には,古くから伝わる腰輪踊が奉納される。海岸部は北長門海岸国定公園に含まれ,JR山陰本線,国道191号線が通じている。
長門市西部の旧町。旧大津郡所属。人口8294(2000)。油谷湾を抱いて日本海に突出する向津具(むかつく)半島と,その対岸山地からなる。油谷湾に注ぐ掛淵川とその支流の流域に沖積地が開ける。半島一帯は,平安時代末期の京都新日吉(いまひえ)社領向津奥(むかつく)荘とされている。油谷湾沿岸は天然の良港で,また外海に面する川尻や津黄(つおう)では江戸時代,捕鯨が行われていた。農業,水産業が中心で,ビワ,モモの栽培,肉牛の飼育,養鶏,クルマエビ,ハマチなどの養殖も進められている。新別名(しんべつみよう)や向津具には柿本人麻呂来住伝説が伝わり,新別名には八幡人丸神社が鎮座し,山陰本線人丸駅もある。向津具半島北側,外海に面して〈竜宮の潮吹〉(名・天)とよばれる海食崖がある。激浪が岩壁の穴に突入して平常時には高さ10m,強風時には200mに及ぶ噴潮現象を起こす。半島突端の油谷島に接する俵島(名・天)は玄武岩からなる小島で,柱状節理と板状節理によって米俵を積み重ねたような奇観を呈する。JR山陰本線に沿って国道191号線が通じる。
執筆者:清水 康厚
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
山口県北西部に位置し、日本海に臨む農水産観光都市。1954年(昭和29)仙崎(せんざき)、深川(ふかわ)の2町と通(かよい)、俵山(たわらやま)の2村が合併して市制施行し、旧国名を市名とした。2005年(平成17)三隅(みすみ)、日置(へき)、油谷(ゆや)の3町を合併。沿岸を東西にJR山陰本線、国道191号が走り、正明市(しょうみょういち)から南へJR美祢(みね)線と国道316号が分岐する。また、油谷で国道191号から491号が分岐する。深川平野は『和名抄(わみょうしょう)』の深川郷の地で、条里遺構を残す開発の古い農村地域。中世には三条家の荘園(しょうえん)となり、深川庄(しょう)と称した。近世の市場町から発展した正明市は大津地方の商業、交通の中心をなし、市役所の所在地。仙崎は長州藩時代西廻(にしまわり)海運の寄港地として栄えた要津で、日本海捕鯨の基地でもあった。第二次世界大戦直後は引揚げ港として知られ、現在は北浦沿岸第一の漁港で、小型底引網や刺網漁業の母港となっている。水産加工も盛んで、特産はかまぼこ。東部の三隅地区は『和名抄』の三隅郷の地で、農林業のほか、沿岸漁業が盛んである。西部の日置地区は『和名抄』の日置郷、中世の日置庄(しょう)の地で、米どころとして知られる。また、西端の油谷地区は米作が盛んで、向津具(むかつく)半島の海女(あま)漁業は有名である。市内には俵山温泉や湯本温泉、黄波戸(きわど)温泉、湯免(ゆめん)温泉、油谷湾温泉など、および北長門海岸国定公園の中心をなす青海(おうみ)島(国の名勝、天然記念物)、俵(たわら)島(国の名勝、天然記念物)などがある。県史跡大寧寺(たいねいじ)や萩(はぎ)焼深川窯もある。湯本南条踊は県指定無形民俗文化財。そのほか、長門市出身の童謡詩人金子みすゞの記念館、洋画家香月泰男(かづきやすお)の美術館、古式捕鯨を解説した「くじら資料館」などがある。面積357.31平方キロメートル、人口3万2519(2020)。
[三浦 肇]
『『長門市史』全2巻(1979、1981・長門市)』
長野県中東部、小県郡(ちいさがたぐん)にあった旧町名(長門町(まち))。現在は長和(ながわ)町の東部を占める。旧長門町は1956年(昭和31)長窪古(ながくぼふる)町、長久保新町(ともに1889年町制施行)と大門(だいもん)村が合併して成立。2005年(平成17)和田(わだ)村と合併し長和町となる。千曲(ちくま)川の支流依田(よだ)川上流部にあり、旧町域の82%は山林。谷底は米作のほか薬用ニンジンも栽培される。国道142号(中山道(なかせんどう))、152号(大門街道)、254号が走る。中心の長久保新町は中山道の長窪宿で、当時の民家が残り昔のおもかげをとどめ、また東へ1キロメートルほど行くと中山道の松並木のある笠取峠(かさとりとうげ)に至る。笠取峠付近から北の、上田(うえだ)市境界にかけての地域は学者村とよばれる別荘地。南部の茅野(ちの)市との境にある大門峠は古代、中世を通じ、諏訪(すわ)方面と上田・長野方面を結ぶ重要な峠で、戦国末期武田氏はこの峠を北へ越えて上田方面へ進攻した。峠を下った姫木平(ひめきだいら)も別荘地となっている。
[小林寛義]
『『長門町誌』(1961・長門町)』
かつて日本海軍が保有した戦艦。第一次世界大戦の戦訓を取り入れ世界初の40センチ砲を採用、1920年(大正9)11月竣工(しゅんこう)した。基準排水量3万2720トンで26.5ノットの高速を誇り、姉妹艦陸奥(むつ)とともに連合艦隊のシンボルとされ、長く旗艦をつとめた。この長門型八隻と巡洋戦艦八隻の八八艦隊を主力として対米洋上決戦に勝利を収めるとするのが日本海軍の基本戦略であった。軍縮条約失効後、大改造を行って排水量を6410トン増加させ、航続力と水中防御力を強化したが、大艦巨砲の威力を発揮する機会には恵まれなかった。陸奥は瀬戸内海の泊地で火薬庫の爆発により沈没(1943)。長門は横須賀(よこすか)で損傷のまま終戦を迎えたのち、アメリカ核実験の標的艦として中部太平洋ビキニ環礁に引航され、1946年(昭和21)7月1日と26日の原爆実験で礁湖の底に沈んだ。
[前田哲男]
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出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…旧日本海軍の代表的な戦艦。長門型の2番艦であり,両艦は1917‐18年に起工,1920‐21年に完成した。基準排水量3万2720トン,全長212m,世界で初めて40cm主砲を搭載し,完成当時世界最大最強の戦艦であった。…
※「長門」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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