宮津村(読み)みやづむら

日本歴史地名大系 「宮津村」の解説

宮津村
みやづむら

[現在地名]阿久比町宮津

はぎ村の北にある。東部一帯は六〇―七〇メートルの丘陵乙川おつかわ(現半田市)に続く。「尾張国地名考」に宮津は宮の津で、古く熱田社のあった地で河港の用を果すの意とある。二子ふたご山は当時の灯明場と伝えられる。

文永・弘安の役後、新海淳茂は弘安九年(一二八六)村内秋葉あきば山に柳審りゆうしん城を築いた(新海氏系図)。城は天文一二年(一五四三)緒川おがわ(現東浦町)城主水野信元に攻略され焼失した。

宮津村
みやづむら

[現在地名]魚津市宮津

かど川右岸の山麓部にあり、北は大海寺野だいかいじの村、西は慶野けいの村・いで村など。天保郷帳に「古者 宮津村・大海寺野村弐ケ村」と注記される。正保郷帳では高一九九石余、田方一二町七反余・畑方六反余、新田高四四石余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印によると草高二八四石・免五ツ二歩、小物成は山役五五匁・鮎川役五匁、鮭役四匁(退転)である(三箇国高物成帳)。貞享元年(一六八四)に九〇石の検地引高があり、一方享保四年(一七一九)など八度の手上高があって天保一一年(一八四〇)の打銀高二六六石、ほかに当村領として宝永三年(一七〇六)開発分など計一五石余の新開高があった(「高免帳」杉木家文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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