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京都府北西部、日本海若狭(わかさ)湾西部の宮津湾に臨む市。中心市街は宮津湾奥にあるが、市域は東部の由良(ゆら)川左岸から北西部の丹後(たんご)(奥丹後)半島にまで及び、砂州(さす)の天橋立(あまのはしだて)が南北両岸にわたる市域を結んでいる。1954年(昭和29)与謝(よさ)郡宮津町と栗田(くんだ)、吉津(よしづ)、府中(ふちゅう)、日置(ひおき)、世屋(せや)、養老、日ヶ谷(ひがたに)の7村が合併して市制施行。1956年加佐郡由良村を編入。京都丹後鉄道宮舞線・宮豊線・宮福線、国道176号、178号、312号、京都縦貫自動車道が通じる。
古代、丹後半島基部にある府中は丹後国府が置かれた地と推定され、丹後国分寺跡は国の史跡に指定されている。中心地区の宮津は中世、長講堂領宮津荘(しょう)の地で守護所があった。天正(てんしょう)年間(1573~1592)細川忠興(ただおき)は宮津城を築き、1622年(元和8)京極(きょうごく)氏が城を建て直し、以後、京極、永井、阿倍(あべ)、奥平、青山の各氏を経て、江戸中期以降は本庄(ほんじょう)氏7万石の城下町として発達した。また西廻(まわり)航路の、とくに風待ち港として丹後随一の港町でもあり、「縞(しま)の財布(さいふ)が空(から)になる」とうたわれたほど繁栄した。現在は京阪神と直結する鉄道や道路を欠き、湾内も大型船の停泊できる規模をもたないため、港湾都市としての地位は東に接する舞鶴(まいづる)市に譲っている。商業都市としては、奥丹後の縮緬(ちりめん)機業地を後背地に控え、むしろ舞鶴市をしのいでいる。沿岸漁業は潮流の変化などから近年不振で、養殖漁業に力を注いでいて、京都府栽培漁業センター(現、日本海区水産研究所宮津庁舎)がある。前面に若狭湾のブリ漁場を控え、宮津港は漁獲物の集荷も多く、水産加工も盛ん。京都府農林水産技術センター海洋センター(旧水産試験場)もある。また須津には日本冶金(やきん)工業の大江山製造所がある。
特別名勝天橋立のほかに、宮津湾を隔てた対岸の成相(なりあい)山中腹には西国三十三所28番札所の成相寺があり、天橋立先端近くには「文殊(もんじゅ)さん」で知られる智恩寺(ちおんじ)がある。国指定重要文化財には智恩寺多宝塔、丹後一宮(いちのみや)の籠(この)神社の海部(あまべ)氏系図(国宝)、石造狛犬(こまいぬ)、経塚出土品、金剛心院(こんごうしんいん)の木造如来(にょらい)立像、禅海寺の阿弥陀(あみだ)如来と両脇侍(きょうじ)像などがある。海岸一帯は丹後天橋立大江山(たんごあまのはしだておおえやま)国定公園域。面積172.74平方キロメートル(一部境界未定)、人口1万6758(2020)。
[織田武雄]
『『宮津市文化財調査報告』全4冊(1980~1981・宮津市)』▽『『宮津市史』全8巻(1994~2005・宮津市)』
京都府北部,若狭湾に面する市。1954年市制。人口1万9948(2010)。若狭湾西端の宮津湾をはさんで市域が広がり,天橋立が南北に分かれた市域を結んでいる。中心市街は宮津湾の湾奥にあり,織豊期に細川氏,江戸初期に京極氏が築城して,城下町として栄えた。現在も城下町のおもかげがよく残る。西廻海運の港町としてもにぎわい,〈二度と行くまい丹後の宮津,縞の財布がからになる〉とうたわれた。藩の奨励もあって江戸時代は縮緬(ちりめん)機業が発展したが,現在はメリヤス,化学繊維などの繊維工業や水産加工業が行われる。天橋立北方,成相(なりあい)山のふもとには西国三十三所28番札所の成相寺がある。国分には丹後国分寺跡(史),大垣には丹後一宮とされた籠(この)神社があり,府中と呼ばれるこの一帯は古代丹後国府の所在地と考えられている。天橋立の南の文珠(もんじゆ)には〈九世戸(くせど)の文殊〉として信仰された智恩寺がある。海岸部の多くは若狭湾国定公園に含まれる。北近畿タンゴ鉄道宮津線,国道178号線が通じるが,市域北部の山間地域では過疎化が進む。
執筆者:浮田 典良
宮津は古代より運輸・交通の要地で,地名は平城宮跡出土木簡に〈宮津郷烏賊二斤〉とみえるのが初見。中世には長講堂領宮津荘があった。守護一色氏を下して1580年(天正8)丹後を平定した細川氏は,宮津に入り築城と城下町建設に着手した。1622年(元和8)宮津7万8200石を襲封した京極高広が本格的な工事を進め,宮津川以東に城郭と武家屋敷,以西に武家屋敷や町屋を配置して町割りを完成した。町屋は本町,魚屋町,万町,職人町,白柏(しらかせ)町,川向町の6町を幹に町組を構成した。1759年(宝暦9)入部した本庄(松平)氏時代には1町組に町名主1名,そのもとにそれぞれ10名余の組頭が設けられた。宮津藩は藩主の交替が激しく石高もさまざまであったが,1803年(享和3)には町屋家数1917軒,人数7231人(《丹後宮津誌》)で,これに武家人口約3000人とすると1万人程度の城下町であったと考えられる。港町としても栄えた文化年間(1804-18)より遊廓も許可された。陸上には領内に通じる3本の主要街道(宮津道)が発達した。
執筆者:野田 只夫
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…島ではミカン,花卉,牧草を栽培,乳牛,肉用牛を飼育し,沿岸の入江では真珠,ハマチ,タイ,クルマエビ,ワカメの養殖漁業が盛ん。城本(しろもと)の丘は元寇で勇名をはせた天草五人衆の一人大矢野氏の居城跡,宮津は島原の乱の総帥天草四郎時貞ゆかりの地で銅像が立つ。1966年天草五橋が開通し,宇土半島,天草上島と結ばれ,75年千束蔵々島(維和島),80年野釜島との架橋も完成し,76年本土の氷川ダム(八代郡)からの上水道が八代海を経て引かれた。…
※「宮津」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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