改訂新版 世界大百科事典 「寛保2年江戸洪水」の意味・わかりやすい解説
寛保2年江戸洪水 (かんぽうにねんえどこうずい)
1742年(寛保2)の7月28日から雨が降り続き,8月1日には大風雨が襲い,利根川,荒川水系ともに大洪水となった。江戸では3日夜から7日にかけて増水し,下谷,浅草,本所辺のみで溺死者3900人余に達す。新大橋や永代橋,修理中の両国橋の橋柱が流失。町奉行石河(いしこ)政朝の5日付上申書には,本所清水町鐘撞堂で5~6尺,軒まで浸水した家もあり,同所四ッ目でも5~6尺から7尺とある。減水し始めた8日に再度大風雨が襲来し事態を悪化させた。幕府は船手に命じ鯨舟を出し屋根や樹木などに孤立していた人々を救助し,被災者に対し粥や焼飯のほどこし,救米の支給を行った。食物のほどこしは6日に6000人前で,8日には1万人前となり,16日から昼のみ7000人前に減少したが,延べ18万6000余人前に達した。独自に炊出しを行った町人もいた。関東一帯の河川や用悪水施設の修復は,熊本・長州・津・岡山など10藩に命じられた。
執筆者:大谷 貞夫
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報