日本大百科全書(ニッポニカ) 「食物」の意味・わかりやすい解説
食物
しょくもつ
食べ物の意で、食品、食料とほぼ同意語であるが、調理、加工してすぐ口に入れられるようにしたものをいう場合が多い。
[青木英夫]
西洋
古代のエジプト人が食用にした魚は主としてボラ、ナマズ、パーチ(ナイル川にすむとがったひれをもつ魚)で、干してそのままか、さらに塩漬けにして食べた。また、大麦やスペルト小麦、そして時代が下ってからは小麦を挽(ひ)いた粉で焼いたパンやケーキも食べた。食物とする動物は、殺して食べごろまで吊(つ)るしておいた。
オリエント地方のバビロニアやアッシリアでは大麦でつくったパンを食べた。まだイーストは用いられなかった。タマネギ、レンズマメ、ソラマメ、エンドウ、キュウリ、キャベツ、レタスを食べた。甘味料としてはナツメヤシを用いた。リンゴ、イチジク、マルメロ、ザクロなどの果実を食べた。魚は多量に食べたが、牛肉、羊肉、ヤギ肉は特別の場合にのみ食べた。そのほかにヨーグルトやチーズも使った。
古代ギリシアやローマではおもに焼いたり蒸し焼きにしたものを食べた。ギリシアでは常食としては、少量のパンと小麦や大麦の粥(かゆ)、それに野菜、肉類、薬味があった。肉は貴族階級だけが用い、一般民は菜食中心であった。パンは高価で、手に入らなかった。マグロ、サバ、シラウオ、ボラ、果物を食べた。肉は野鳥や飼い鳥の肉、もしくは豚肉であった。牛肉は宗教的な行事のときに限られていた。紀元前5世紀にはシチリアから洗練された料理人が料理を伴ってアテネに入ってきた。たとえば焼いたマグロなどである。ローマでは、前200年ころから、製パン業者もあり、発酵作用についても知っていた。パンはケシの実、アニスの実、セロリ、ウイキョウ、ヒマワリの種、ゴマ、小粒のブドウなどで香りをつけた。また、卵はカモ、ハト、シャコの卵であった。ときには野生のガチョウの卵を食べた。
中世では魚や卵、オートミールを食べた。肉類は猟鳥獣や飼い鳥やハト以外は食べなかった。果樹園には、リンゴ、西洋ナシ、プラム、ナナカマド、西洋サンザシ(カリン)、ゲッケイジュ(月桂樹)、クリ、イチジク、マルメロ、モモ、ハシバミ、アーモンド、クワなどを植えた。また、タマネギ、ボロネギ、セロリ、コリアンダー(円形で香りのある果実)、イノンド(果実は香料や薬用にする)、ケシ、ニンジンなどが食用となった。中世初期には羊肉はほとんど食べなかった。羊毛が貴重であったためである。牛肉もめったに食べなかった。役牛として利用したからである。
1180年のロンドンには胡椒(こしょう)商人ギルドがあった。当時胡椒は、遺言書にも出ているくらい高価であった。甘味料のサトウキビも13世紀から14世紀ころに出現した。
16世紀になるとフランスでは、パンと果物はほとんど食べなかったが、肉を多く食べるようになり、またパイやパテを多く食べた。ベネチアの駐仏大使ジローム・リッポマーノは「あらゆる村、町にさえ焼き肉屋や練り菓子屋がある」と伝えている。去勢したニワトリやウナギ、ヤマウズラのローストが安く買えた。17世紀にはジャガイモがアメリカ大陸からスペインに伝わった。1616年ごろのフランスではジャガイモはまだぜいたく品であって国王の食卓にしか上らなかったが、1800年ころに定着・普及した。トウモロコシ、米なども食べた。ニンニクはバターで炒(いた)めて食べた。赤カブのニンニク炒めや牛肉、羊肉を野菜といっしょに煮込んだものがあった。
19世紀にはシチュー鍋(なべ)が現れた。またサラダの作り方も多くなった。それとともにドレッシングができた。レストランの発達とともに料理法も発達し、それによって食物は豊富になった。
[青木英夫]
アジア
インダス文明は、アーリア人のインド侵入(前1500ころ)以前に都市国家を築き、大麦、小麦を栽培し家畜を飼っていた。アジア東部への伝播(でんぱ)にはいくつかのルートがあり、中国へ到達した麦類はチベット経由が主ルートで、初期は大麦、のちに小麦が伝えられた。インドも中国と同じく大麦が主力であった。インドの在来製粉法は手回しの石臼(いしうす)だけで、大勢からみて一般民衆の日常食が粉食となったのは18世紀からである。いまのインドの西部は小麦食で、それを主原料とする無発酵のチャパティが主食である。宗教的戒律が厳しく行き渡り、大半を占めるヒンドゥー教徒は精進食をとる者が多い。牛を神聖としているので牛肉食は厳禁されている。だが今日では上流階級では、しだいに牛肉食になる傾向を示している。多種多量の香辛料が食事に欠かせないのは東南アジアと同じである。南部の代表的料理というと菜食主義のベジタリアン料理がある。基本は、米、ダール(乾燥豆)、牛乳、ココナッツ、それに野菜である。牛乳はインド食に不可欠のもので、御馳走(ごちそう)でありタンパク源となっている。南部とともに東部も、米を主食とし炊飯して食べている。セイロン島(スリランカ)には「シーギ」がある。粳米(うるちまい)の粉を水で練り、薄く伸ばしてチャパティのように焼いて食べる。セイロン島民の常食である。肉食については、ヒンドゥー教徒はヤギを上位とし、ヒツジ、ニワトリの順に、イスラム教徒はヒツジを上位とし、ヤギ、ニワトリの順に食べている。この料理圏ではカレーの使用と主要な油脂としてギーが用いられるのが料理法の特徴である。また東部ではからし油が用いられており、独特の風味を添えている。沿岸部ではココヤシが用いられている。
中国における水車製粉は唐代ころから盛んになっていたから、インドに比較すると相当早い時期に大麦から小麦に移行したことになる。宋(そう)代になると食生活の著しい向上がみられ、料理屋の発達が顕著となる。豚料理を主体とする今日の中国料理のもとができあがったのも宋代からである。華中から華南にかけて米食をするようになったのも宋代からである。清(しん)代も18世紀になると、ほとんど今日と同じ食生活の様相となってくる。中国人の主食は江南の米に対して華北の小麦が対照的であるが、あまり極端に分けるのは危険である。今日では米作は華北から北に伸長し、東北地区では吉林(きつりん)省あたりまで栽培が可能となり、米食が浸透している。品種は江南が日本と同じジャポニカとよばれる米が多く、それより北ではインディカとよばれる長粒のものが主となる。炊飯法には湯取(ゆど)り法、湯立て法、炊干(たきぼ)し法、蒸飯などがあげられる。食味からすると単純な蒸飯がいちばん粘り気が強く、炊干し法による飯が次に粘り気がある。湯取り法の飯はさらさらした飯となる。中国では華北が湯取り法の地域であるのに対し、華中と華南は炊干し法の地域で、台湾もこれに入る。朝鮮半島は湯取り法である。米料理にはほかに粥(かゆ)がある。米の粒粥であるが、中国人の粥に対する嗜好(しこう)は日本人よりはるかに強く、一般の家庭では朝食に粥を食べることが多い。
小麦の消費形態の代表はマントウ(饅頭)とうどん(麺(めん)条、面条)で、今日ではアワ、キビより普遍的な食物である。華北の農民たちはうどんとマントウをともども食べ、とくに畑仕事の弁当にはマントウの1、2個に水を携行する。マントウとは全粒製粉の粉を半発酵させ、蒸してつくった発酵蒸しパンである。うどんは手打ちの煮込みで、日本では「ほうとう」とよんでいる。うどんは中国を中心として日本とモンゴルに伝播している。小麦料理の第二は水で練り固めて蒸したもので、代表的なのはウオトウ(窩頭)である。小麦使用が上品であるが、ほかにキビ、アワ、トウモロコシ、コウリャンの順に品質が位置づけられている。キビ以下の雑穀の料理の半分は粥とされる。中国ではおもに粒粥の形態となるが、インド、アフリカは粉粥である点が対照的である。また、醤(しょう)の使用、油脂の使用が多いこと、強火で調理すること、保存食品の多様性とその活用などに調理技術の特徴がある。顕著に乳を利用しない文化伝承をもっているのも、中国をはじめ、日本、朝鮮、東南アジア諸国であるが、これは米飯文化圏と重複する。
日本において米食が浸透し、全国的に一般化するのは明治期の後半になってからであり、実に20世紀に入ってからのことである。日本人の1人年間、米の消費量が1石(150キログラム)となるのは1903年(明治36)以降、40年(昭和15)までのわずか40年たらずの短期間にすぎない。米は主食であったが常食とは長い間なりえなかった。しかし、日本食は米飯を中心とするみそ汁と漬物の三つの組合せパターンとして長く続いてきた。
[大塚 力]
『中尾佐助著『料理の起源』(NHKブックス)』▽『石毛直道編『世界の食事文化』(1973・ドメス出版)』▽『大塚力著『「食」の近代史』(1979・教育社)』▽『R・タナヒル著、小野村正敏訳『食物と歴史』(1980・評論社)』