改訂新版 世界大百科事典 「山内首藤氏」の意味・わかりやすい解説
山内首藤氏 (やまのうちすどううじ)
相模出身の中世武家。その祖は藤原秀郷とも藤原師尹ともいう。主馬首となった資清は首藤氏を称し,その子資通は前九年・後三年の役で源義家に従い,資通の孫俊通は相模国山内荘を本拠として山内首藤氏を称し,源義朝に従って保元・平治の乱を戦った。山内首藤氏は主家の乳人を務める源氏譜代の郎党であったが,1180年(治承4)源頼朝の挙兵に俊通の子経俊は応ぜず,山内荘は頼朝に没収された。その後,経俊は頼朝に従い伊勢,伊賀の守護となる。承久の乱時,経俊の孫俊業は京方へ,その弟宗俊は幕府方へと分裂。鎌倉末期,宗俊系の通資は備後国地毘荘本郷へ移り,単独相続制を採り一族支配を強化した。南北朝期,相模にとどまった俊業系の時通は足利尊氏派に属し,通資の孫通継は直冬に属したが,1365年(正平20・貞治4)通継は時通の養子通忠を後継者とし両系は統合された。以後,備後の大名山名・大内・尼子氏などに属し,最後に広通は毛利氏の重臣となる。1600年(慶長5)その子元資は同氏に従い長門へ移った。
執筆者:青山 幹哉
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報