朝日日本歴史人物事典 「藤原師尹」の解説
藤原師尹
生年:延喜20(920)
平安中期の公卿。忠平と源能有の娘昭子の子。「もろまさ」とも。家格から,大納言に至るまで順調に昇進し,康保3(966)年12月右大臣となる。その後安和の変(969)で左遷された左大臣源高明の後任とされたが,7カ月後に没した。世間ではこの事件との関係が取り沙汰され,『大鏡』が安和の変の首謀者とみなし,高明を陥れた報いで亡くなったとするほか,事件のあと「幾程モナク声ノ失ル病」にかかった(『源平盛衰記』)とも,「疱瘡」で亡くなった(『愚管抄』)ともいわれるが,真相は不明。『今昔物語集』に「極メテ腹悪キ人」として登場するのも同類。箏の名手や歌人として知られ,『後撰和歌集』『元輔集』などに収められた歌は数多い。邸宅小一条院にちなみ小一条左大臣と称され,日記『小左記』(『小一条記』『小一条左大臣記』とも)が逸文の形で伝えられる。なお娘芳子は村上天皇に入内し宣耀殿女御と呼ばれた。
(瀧浪貞子)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報