岩瀬浦村
いわせうらむら
奈良尾村の北にあり、北に浜串、東に須崎、南に福見の集落がある。岩瀬浦集落の西に芦山滝があり、その北西の草褶峠を越えると宿ノ浦(現若松町)方面に通じる。須崎集落に近い火燧山は古代の烽火にかかわる可能性があるが、その南西の遠見番岳は江戸時代の遠見番所に由来する。鰯浦などとも記され、イワセとよむ(天保八年国郡全図並大名武鑑)。江戸時代は福江藩領東掛(東島掛とも)に属し、当地に代官役所が置かれた。当村と奈良尾村の二ヵ村と、太田郷・阿瀬津郷・鯛之浦郷・神之浦郷(現有川町)の中通島東側の六ヵ郷を管轄した。元和三年(一六一七)のイエズス会管区長徴収のキリシタン連判書付に「五島岩瀬浦」のはすち庵善左衛門・まてうす二郎左衛門・らはへる八郎左衛門ら六名が署名している。正保四年(一六四七)福江領内で福見など四ヵ所に遠見番所が増設され、明暦三年(一六五七)吉川安之丞ら六人が遠見番を命じられた(「公譜別録」「明暦三年日記」五島編年史)。寛文四年(一六六四)長崎流人の大場源太夫が東島岩瀬浦に置かれたが、長崎町年寄の請で同一二年に赦免(「寛文十一年覚書」同書)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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