福江藩(読み)ふくえはん

改訂新版 世界大百科事典 「福江藩」の意味・わかりやすい解説

福江藩 (ふくえはん)

肥前国長崎県)南松浦郡福江に藩庁を置いた外様小藩。藩主五島氏。1万2530石。五島藩ともいう。松浦党(まつらとう)の成員であった五島列島北端の宇久氏は,南端の福江島進出を契機として海上貿易権を掌中に収め,有力な在地領主を同族化することによって五島列島の統一に成功し,1587年(天正15)豊臣秀吉の九州征伐後,本領を安堵されて近世大名となった。石高は1万5530石。1655年(明暦1)5代藩主盛勝のとき,叔父盛清に3000石(富江領)を分知してから1万2530石となる。初代藩主純玄(すみはる)は1592年(文禄1)朝鮮の役にさいし宇久氏を五島氏に改姓したが,朝鮮陣中において病死したため,藩主の地位は一門の間で回り持ちされ,その結果,大浜主水による御家騒動が勃発した。3代藩主盛利は御家騒動を契機に在郷家臣団の〈福江直り〉を推進し,知行制を改革して,五島藩政の基礎を固めた。富江分知によって,1661年(寛文1)有川湾の漁業権をめぐる海境争論がおこり,89年(元禄2)沖を入会にするという幕府の裁決で決着した。7代藩主盛佳(もりよし)のとき,1721年(享保6)後見役の青方陽直は領内検地と人別改を実施し,生産力と農漁民の把握につとめたが,8代藩主盛道は窮乏した藩財政を再建するため63年(宝暦13)3年奉公制を実施し,五島藩政中最大の悪政と評された。9代藩主盛運(もりゆき)は上知令の実施とともに荒廃地の復興と農漁民の把握につとめたが,天明の飢饉によって藩財政はいっそう窮乏した。10代藩主盛繁は防備体制を強化する一方,番役体制を整備し,1820年(文政3)産物方を設置して藩財政の再建をはかった。11代藩主盛成(もりあきら)は34年(天保5)有川産物会所を設置し,49年(嘉永2)には異国船警備のため石田城を築いた。68年(明治1)富江領との間に合併騒動がおこったが,70年に合併し,福江藩による全五島領の支配が実現した。翌年廃藩置県によって福江県となり,のち長崎県に編入された。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「福江藩」の意味・わかりやすい解説

福江藩
ふくえはん

肥前(ひぜん)国福江島(長崎県五島(ごとう)市)に居城を置き、五島列島の大半を領有した外様(とざま)藩。五島藩ともいう。五島列島を支配していた宇久純玄(うくすみはる)は、1587年(天正15)に豊臣(とよとみ)秀吉から所領を安堵(あんど)された(表高1万5530石余)。92年(文禄1)に純玄は姓を五島に改めた。1619年(元和5)に継嗣(けいし)をめぐって争いが起こり、幕府の裁断で盛利(もりとし)の藩主権が確定した。以後、盛利は家臣の城下集住を断行し、35年(寛永12)に領内検地を行った。捕鯨業盛時のおりは、その運上銀が貴重な藩財政収入となった。61年(寛文1)に福江島南端の富江(とみえ)ほか7か村3000余石が、4代藩主盛勝(もりかつ)の叔父で後見役であった盛清(もりきよ)に分知され富江領が成立した。この分知後、漁業権をめぐって福江藩と富江領間で争いが起こり、幕府の裁断で決着した。低生産力地帯であったために徹底した人改(ひとあらため)が行われた。

 1834年(天保5)には産物会所が設けられ財政収入の増加が図られた。1867年(慶応3)異国船警備、薪水(しんすい)供与費用捻出(ねんしゅつ)のため富江領を併合する動きが出たために富江領民が一揆(いっき)を起こしたが、幕府は富江領主に北海道後志(しりべし)国に領地1000石を与え富江領を福江藩に合併させた。明治に至り、福江県を経て長崎県に編入。

[長野 暹]

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百科事典マイペディア 「福江藩」の意味・わかりやすい解説

福江藩【ふくえはん】

肥前国松浦(まつら)郡(五島)に所領を置いた外様小藩。藩政庁は福江城(石田城とも)で,現長崎県五島市に遺構をとどめる。藩主は中世以来の五島氏(宇久氏)で,明治維新期まで変わらない。1617年の朱印高1万5530石余。戦国期に五島列島を勢力下に置いていた宇久氏は1587年の豊臣秀吉による九州仕置に伴って旧領を安堵された。当初は江川城を本拠としていたが,1614年に全焼,築城が許されなかったため長く石田陣屋を藩政庁とし,石田城がなったのは幕末期1863年であった。初代藩主の宇久純玄は文禄の役で小西行長に属したが,その陣容は水軍の性格を示す。なおこのとき五島氏と改める。藩権力が確立されないなか,1619年大浜主水(もんど)による御家騒動が起きるが,3代藩主盛利はこれを契機に在郷の家臣を移住させるなどの〈福江直り〉を推進,知行制を改革して藩政の基礎を築いた。1661年5代藩主盛勝の叔父盛清の分知が認められ,いわゆる富江領が成立している。1721年に領内検地と人別改が行われ,1763年には財政建直しの一環として3年奉公制が実施された。村方は久賀掛・若松掛など13掛に区分され,浦方では捕鯨を中心とする漁業や塩焼きが盛んであったが,遠見番所の設置など異国船の警衛態勢にも組み込まれていた。幕末に攘夷のため富江領の福江藩への統合が行われたが,同領民の反対で1869年にようやく合併されている。1871年7月廃藩置県により福江藩領をもって福江県が成立,同年11月に長崎県に編入された。

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藩名・旧国名がわかる事典 「福江藩」の解説

ふくえはん【福江藩】

江戸時代肥前(ひぜん)国南松浦(みなみまつら)郡福江(現、長崎県五島市福江町)に藩庁をおいた外様(とざま)藩。藩校は育英館。五島(ごとう)列島を支配していたのは水軍(すいぐん)の松浦党(まつらとう)に属した宇久(うく)氏で、1587年(天正(てんしょう)15)に九州征服を成し遂げた豊臣秀吉(とよとみひでよし)から宇久純玄(すみはる)が所領を安堵(あんど)された。純玄は、92年(文禄1)に姓を五島(ごとう)に改め朝鮮出兵中に病死、代わって純玄の叔父に当たる五島玄雅(はるまさ)が家督を継承した。玄雅は、関ヶ原の戦い後の1603年(慶長(けいちょう)8)、徳川家康(とくがわいえやす)から所領を安堵され、これにより福江藩が成立した。1660年(万治(まんじ)3)、4代藩主が幼少のため、その後見人の盛清(もりきよ)に福江島南端の所領3000石が分与され、富江(とみえ)領ができた。福江藩と富江領との間で漁業権問題が発生したが、入会(いりあい)制とする幕府の決裁により問題解決がはかられ、捕鯨による収入がその後の福江藩の財政を支えた。五島氏による支配は明治維新まで12代続き、1870年(明治3)に富江領を合併、翌71年の廃藩置県により、福江県を経て長崎県に編入された。◇五島藩ともいう。

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デジタル大辞泉プラス 「福江藩」の解説

福江藩

肥前国、五島列島の福江(現:長崎県五島市)を拠点に、同列島の大半を領有した藩。中世の武士団、松浦(まつら)党を出自とする宇久氏が豊臣秀吉により所領を安堵され、のちに姓を「五島」と改める。関ヶ原の戦い後は徳川家康にも所領を安堵され、明治維新まで五島氏が藩主をつとめた。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「福江藩」の意味・わかりやすい解説

福江藩
ふくえはん

五島藩」のページをご覧ください。

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