一般には,ある官職に関して,代理としてその職務の遂行にあたる役人などを称した。
平安時代の中期ごろから律令国家の土地国有制が崩壊にむかい,中央貴族の所領である荘園や,在地武士の開発所領が全国各地に現れてくる。これにともない,彼らの所領支配を代行するものとして,〈代官〉が一般的に登場してくる。これは,中央貴族の所有する荘園が全国各地に分散したり,在地武士の開発所領が広大な面積をほこるようになるにつれ,彼らの直接支配が困難になったという事情によるものにほかならない。中央貴族の場合でいうと,荘園を知行する中央貴族を領家(りようけ)といったが,その領家のもとには荘園を支配・管理する役人として,預所(あずかりどころ)が存在しているのが一般的であった。しかし領家の荘園の数が増えるにつれて,預所はすべての荘園を直接管理することが困難になったため,預所代という代官を任命して,荘園の管理に当たらせることにしたのである。
こうした代官の設置は,すでに平安時代の中ごろから,国衙領でも同様に行われていたようである。平安時代の国衙領における郡司解や,土地売券の郡判の連署部分をみると,郡司本来の職名である大領・少領などの肩書とともに,〈国司代〉〈国目代(くにもくだい)〉という職名をもつものが現れてくる。これらの実体は郡司クラスの在地豪族と考えられるから,国司はその任国内の在地豪族を自己の代官に任命することで,国衙領に対する自己の支配を貫徹しようとしていたものとみることができる。これは,荘園が一般的に現れはじめていたこの時代においては,国司の支配対象である国衙領も,国司自身の所領(財産源)という性格をはっきりと現しはじめていたための現象であった。
他方,在地武士の場合についてみると,鎌倉時代,幕府の御家人の典型である地頭にも,代官としての地頭代がしきりと現れてくる点が注目される。この地頭代の実体は,鎌倉時代初期には,その地頭の従者たちであった。このことは,地頭が先祖伝来の開発所領の統治のために,本来,自己の館近くで奉仕させていた従者たちの中の有力な者を,自己の私的な代官として派遣していたことの現れである。ところが中ごろ以降になると,在地の百姓名主層の中の有力なものを地頭が抜擢して地頭代,あるいは地頭代の代官である又代(まただい)に任命することが増えてきた。これは,地頭の在地支配が鎌倉時代の中ごろ以降,村落の在地世界にふかく食い込み,その共同体機能を強力に把握するようになったことの現れであった。
このほか,やはり鎌倉御家人である守護の代官に守護代がある。守護は本来,鎌倉将軍の手先となって,全国の御家人を一国ごとに統轄する役割を任じられていたが,鎌倉時代も早いころから,在地の武士を自己の代官(守護代)に任じて,その国を自己の勢力下におく傾向を現しはじめた。かくして鎌倉時代の中ごろ以降になると,守護はその国内の多くの在地武士を守護代として統轄し,各国を自己の領国化することが一般的となった。ここに,鎌倉幕府の将軍を頂点とする全国的な御家人体制は動揺し,崩壊にむかって進み出すことになる。
執筆者:鈴木 国弘
本来は幕府の職制に定められた正官の代理を称したが,代官制度が最も整備された江戸時代には幕府と諸藩の農民支配を担当した地方官の職名となった。さかのぼって室町時代には,公方御料所を預けられ年貢を請け負う家臣を代官と称し,戦国大名のもとでは蔵入地の支配に当たった有力家臣や在地土豪が任ぜられ,給人代官の性格をもっていた。さらに豊臣政権では戦時には軍事物資の調達運搬,平時は年貢の収納や在番将士の監察,水利土木の管理に当たり,武将や在地領主,また土豪や豪商が代官に任命された。
1590年(天正18)徳川氏が関東へ入国すると,関東・東海道筋を中心に伊奈忠次,大久保長安,彦坂元正,長谷川長綱の4人の代官頭が配下の代官・手代を統轄して検地,灌漑治水,交通や鉱山の開発を行った。また畿内・近国では,豊臣氏以来朱印船貿易家で知られた茶屋四郎次郎清延,角倉了以,末吉勘兵衛,平野藤次郎らが代官に任ぜられ,豪商代官として年貢米の換金化など経済政策に重要な役割を果たした。江戸幕府の代官制度の確立は,戦国時代や織豊政権下における代官の機能や存在形態のなかにそのはじめが求められるが,近世的な代官の出現は代官頭と配下の代官・手代による地方(じかた)支配体制のなかにみることができる。代官頭の巨大な在地支配力は,やがて幕府にとって桎梏となり,伊奈氏の系譜が関東郡代を世襲したほかは,慶長年間(1596-1615)に病死や失脚によって消滅した。その支配領域は一部では数人の相代官制などの形態をとりながら,配下の代官・手代の管轄に移行した。また,畿内・近国の豪商代官もしだいに吏僚化の方向を強めていったが,こうしたなかで代官奉行らが公事(くじ)訴訟や年貢決定などを中心に民政を担当していった。幕府代官は上方代官・関東代官の呼称によって幕府領を管轄したが,1642年(寛永19)勘定頭が制度化すると勘定頭のもとに統一されることになった。初期の代官(以後,郡代を含める)は70~80名もしくはそれ以上に及び,徳川譜代,武田・今川・後北条旧臣の地方巧者(じかたこうしや)を中心に任ぜられ,支配地に陣屋を設けて周辺諸地域の民政が行われた。その主要任務は,年貢の収納を確実にしていくため小農民を自立させることや農業経営をはかることであった。
幕府は寛永(1624-44)末年から慶安期(1648-52)にかけて全国的な飢饉を乗り切るため農政の改革を行うが,さらに天和期(1681-84)から享保期(1716-36)にかけて代官の性格の転換をはかっている。5代将軍綱吉の治政でははじめて農政専管の老中を設け,勘定奉行から郡代,代官に至る支配系統を整備するとともに,代官を中央行政機構の末端に位置づけようとした。そのため従来の在地性の強い世襲代官を,年貢滞納や勤務不良を理由に罷免し,代官の入替えを行うとともに陣屋支配を廃止しながら江戸定府(じようふ)を促進させている。さらに8代将軍吉宗の享保改革の一環として1725年10月には,代官の諸入用がそれまで口米(くちまい)・口永の付加税によって賄われていたのを廃止して,別に代官の諸経費をその支配高や地域に応じて直接支給する方法に改正している。その基本的な目的は,代官の年貢請負人的性格を改め,封建官僚制に基づく徴税農政官に編成替えすることであり,それによって幕府の集権的な地方支配機構を確立することであった。
幕府代官には定員はなかったが,正徳年間(1711-16)には63名,このうち上方代官が43名,関東代官が20名となっている。1730年と1839年(天保10)は42名,1867年(慶応3)は41名とほぼ40名台に減少している。江戸中期以降に固定化した4人の郡代(関東,美濃,西国,飛驒)と信楽(しがらき)代官多羅尾氏の1500石,京都代官小堀氏の600石,宇治の上林氏の500石を別格にすると,代官の役高は150俵,焼火間詰が一般であった。しかし江戸廻り代官のなかには,布衣(ほい)(六位相当)の着用が許され躑躅(つつじ)間詰の者もいた。支配領域も5万石から10万石が多かったが,固定化されたものではなく流動的であった。初期代官は地方巧者が多く登用されたが,元禄から享保期にかけて勘定所系統が主流を占めた。これとは別に享保改革では民間から田中丘隅(支配勘定格)や川崎平右衛門定孝らが抜擢され,ほかに辻六郎左衛門守参,小宮山昌世,蓑正高,井戸正明らが治水工事や新田開発,殖産興業や農業技術の普及に手腕を振るった。
江戸後期に主として北関東や奥羽地方にかけて農村の荒廃が進み,本百姓経営の維持再建が急務になった。そのため寛政改革から文化期(1804-18)にかけて荒地起返(おこしかえし),赤子養育,子間引防止など農村の生産力の向上や人口の回復に努める,早川正紀,竹垣直温,岸本就美,岡田寒泉,寺西封元らの能吏が輩出した。また,天保改革には羽倉外記,江川太郎左衛門英竜らが代官の機能をこえて行政手腕を振るい,さらに幕末には荒井顕道,青山秀堅,森田桂園,林鶴梁らの人材が任命されている。
代官の職務は年貢収納を中心とする法令伝達,戸籍調査など民政一般であるが,犯罪人の逮捕や吟味,欠落(かけおち)人の探索,鉱山の監督,運上徴収,その他臨時の用務や飢饉対策が重要な任務であった。伊豆韮山の江川,大津の石原,信楽の多羅尾,京都の小堀・角倉・木村,宇治の上林,長崎の高木の代々代官(一時期世襲)のほかは,多くが比較的短期間で支配地が移動している。幕府は農政を担当する代官政治を重視する反面,集権的支配機構を強化していくため権限をできるだけ制限し,手限(てぎり)仕置などもきわめて小さかった。そのため,幕末に維新政府の鎮撫総督による幕府領の接収が進行すると,軍事力の弱い代官所はいち早く崩壊して,代官は逃亡・帰順する者もいた。しかし,なかには代官・属僚で新政府の地方官吏に抜擢される者もいた。
諸藩にも幕府に準じ藩主の蔵入地を支配した代官もいたが,一般に郡代や郡奉行(こおりぶぎよう)の下で村方を支配し,年貢収納や宗門改め,検地奉行を兼務した。広島藩の頼杏坪や彦根藩世田谷領の大場景運のような名代官もいた。
→郡代
執筆者:村上 直
江戸幕府代官史料の残存量はわずかで,初期土豪・豪商代官史料としての末吉家文書などがあるが,寛永末期の地方支配制度の確立に伴い,数年たらずで交代する吏僚的代官が多くなると,代官文書の引継ぎも少なく,維新変革によって決定的に湮滅した。現存の代官文書としては,岐阜県に引き継がれた飛驒郡代高山陣屋文書・美濃郡代笠松陣屋堤方役所文書(岐阜県歴史資料館所蔵),および伊豆韮山代官江川家文書(静岡県伊豆の国市江川文庫所蔵)があり,ほかに備中倉敷代官所関係史料の田中家文書・同記録(東京大学史料編纂所所蔵),長崎代官史料(長崎県立図書館所蔵,《長崎代官史料集》)や,幕末期の支配勘定長坂氏記録(京都大学文学部国史研究室所蔵)がある。また大名文書中には最寄りの預所文書が散見される。記録・手控としては代官・手代執務心得である《勤要集》《御代官極秘》《御勘定所定出役諸帳面寸法其外心得留》などがある。
代官所文書の種類には,勘定所から代官所にあてた達(たつし)書や年貢等の納札・請取書類のほか,代官所業務が勘定所に経伺,その指令に基づき実行されるために,各方面の伺書付札や伺書控があり,勘定所に申達した地方諸帳簿すなわち取箇帳(とりかちよう)・年貢割付・年貢石代直段書付・納払明細帳(おさめはらいめいさいちよう)・年貢米金皆済目録・成箇郷帳(なりかごうちよう)・勤方帳(つとめかたちよう)・村鑑大概帳(むらかがみたいがいちよう)・高国郡村名帳や高国郡訳帳・手付手代分限高書付などの控,勘定所より下付の地方(じかた)勘定帳・御金蔵勘定帳本紙,これらの元になった下組帳・仕出類・一村限帳・厘附帳・差引帳などがあり,村方よりの願書・請書・届書や宗門人別改帳・家数人別増減帳・鉄砲改帳・酒株帳・村差出明細帳・村絵図などがある。代官所記録には役所日記・御用留(公事方・貸付方など)・被仰渡留・一件留・置証文留・廻状留・文通留や,普請の仕様帳・目論見帳・出来形帳・割符帳などがある。藩領代官史料に佐賀藩有田皿山代官の本藩・管下陶工との公文書写《皿山代官旧記覚書》などがある。
執筆者:大野 瑞男
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本来は本官を代理する人の呼称。中世以降は所領を預り年貢収納をつかさどる者を代官と称したが、江戸時代では幕府、諸藩の直轄地の行政、治安を担当した地方官をいう。鎌倉時代から地頭代(じとうだい)(地頭の代官)の一般的呼称となったが、戦国期や豊臣(とよとみ)政権下では蔵入地(くらいりち)(直轄領)の年貢収納や水利土木の管理、軍事物資の調達に重要な役割を果たすようになった。江戸幕府初期には、関東を中心に代官頭(だいかんがしら)(伊奈忠次(いなただつぐ)、大久保長安(おおくぼながやす)、彦坂元正(ひこさかもとまさ)ら)の下に代官がおり、畿内(きない)、近江(おうみ)には豪商代官が存在したが、多くは地方巧者(じかたこうしゃ)が任ぜられ、その数も70名に及んだ。幕藩制社会の確立(寛文(かんぶん)・延宝(えんぽう)~元禄(げんろく)期)過程で、これらの世襲的・年貢請負人的な代官の多くは年貢滞納や不正を理由に失脚し、1725年(享保10)代官所経費支給仕法の改正により、各代官所で民政を担当する貢租徴税官へ改変した。
幕府代官は勘定奉行(かんじょうぶぎょう)に属し、旗本から任命され5~10万石を支配したが、中期以降には、主として勘定所役人のほか、農民や代官所の属僚からも抜擢(ばってき)された。しかし、その数は40~50名に減少し、検地・検見(けみ)・年貢収納、灌漑(かんがい)・治水、人別や五人組の差配などの地方行政、治安、検察にあたった。全国的に分布した各代官所においては、属僚には十数名の手付(てつき)、手代(てだい)、書役などを江戸と任地に勤務させ事務処理にあたらせ、鉱山には地役人(じやくにん)を置いた。代官の役高は150俵で、ほかに江川(えがわ)(伊豆(いず)の韮山(にらやま))、多羅尾(たらお)(近江の信楽(しがらき))、角倉(すみのくら)(京都)、高木(長崎)など世襲代官もいた。藩の代官はおもに郡代や郡奉行(こおりぶぎょう)のもとに置かれ、村方を支配し、年貢収納や宗門改(しゅうもんあらため)や検地奉行を兼務し、郡単位に民政を担当し、侍代官(さむらいだいかん)や在郷代官とも称し、規模や権限も小さかった。
[村上 直]
『村上直著『天領』(1965・人物往来社)』▽『村上直著『江戸幕府の代官』(1983・国書刊行会)』▽『村上直・荒川秀俊編『江戸幕府代官史料』(1975・吉川弘文館)』▽『村上直編『江戸幕府郡代代官史料集』(1981・近藤出版社)』
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1中世に,代理人・代務者の意味で広く使われた言葉。たとえば源頼朝の命をうけて平家追討にむかった源範頼・同義経は鎌倉殿御代官と称される。一般には守護代・地頭代・預所代・公文(くもん)代・政所代のようによばれた。代官の代官は又代官という。「御成敗式目」14条によれば,地頭代が本所の年貢を抑留した場合,その罪は地頭正員(しょういん)にも及ぶとされた。従者の罪を主人にかけないのが中世法の原則なので,地頭代は正員の従者ではなく分身とみなされたと考えられる。荘園では,荘園領主から荘務を任された者を代官とよんだ。
2近世,幕府や諸藩で農村支配のためにおかれた役人。幕府では,はじめ60人程度の代官がそれぞれ5万~10万石の幕領を管轄して,年貢徴収,法令伝達,戸口把握,訴訟の受理と審理,軽犯罪の処断のほか,場所によっては鉱山・山林の管理をも行った。享保期以降は,勘定所官僚としての性格を強め,数年で任地がかわることが多く,役高150俵程度で旗本の役職としては下位に属した。実務は,手付・手代という下級役人が地方・公事方にわかれて行った。諸藩では,一般的には郡代・郡奉行などの下で,管轄地域の農政を行った。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
…大目付は使番(巡見使や国目付はこの役の者から任命された)とともに,将軍本営の命令を出先の部隊に伝え,かつその実施を監察するのがその本来の機能であり,それが平時の行政上の伝達系統に転用されたのである。 幕府直轄地の支配はそれぞれの奉行や代官が行ったが,近畿地方では所司代を中心とした国奉行が,また一部の大名領を除く関東では関東郡代が公家領や旗本領をも含めた広域的支配を行った。このほかに公家,僧侶,神官,寺社領の人民,職人,えた,非人などに対してそれぞれの身分に応じた別系統の支配が行われた。…
…吉宗は実学を好み,朝鮮人参国産化を奨励,21年全国の人口調査を開始,実益ある意見を期待し目安箱を設置,翌年小川笙船の投書により小石川養生所を設け,困窮者・孤独者の治療に当たった。
[行政機構の改革]
1716年吉宗は鷹狩を復活,18年江戸近郊の鷹場を再編強化,代官配下の鳥見による幕領私領の統一的検察による支配体制補強を図った。1717年大岡忠相を町奉行に登用し22年関東地方(じかた)御用掛を兼任させた。…
…戦国大名領には,大名が家臣である給人(きゆうにん)に与える知行地のほかに,直轄領の蔵入地があり,大名の主要財源となっていた。直轄領には代官をおき,年貢の収納や諸役の徴収をさせていた。個々の大名によって直轄領の規模は異なるが,直轄領を増加させるために他国への侵略を繰り返し,占領地はまず直轄化し,その後に新しい給人に知行地として配分していった。…
…江戸幕府代官所,大名預所ごとに代官の勤務考課のため毎年作成し,将軍・老中・勘定所の検閲を受ける帳面。1733年(享保18)創始。…
…綱吉は老中執務の慣例を改め,1680年8月堀田正俊に財政専管を命じ,その下に直轄領統治の協議組織を設け,82年(天和2)には勘定吟味役を創置して勘定方役人の中から実務熟達者を抜擢(ぱつてき)し,勘定奉行を補佐させるとともにその監視に当たらせた。その成果としてとくに顕著なのは,大量の代官が勤務不良の理由で処分されたことであり,その結果中世以来の系譜をもつ土豪的年貢請負人的代官が多数ここで没落し,徴租官僚的代官と交替した。 これらの施策は幕政史上一期を画すると評価しうるものであり,〈享保改革〉の前駆的意義も認められる。…
…人返し令は江戸出稼人の帰農を奨励し,新たに農村から江戸へ移住することを禁止するなど,農村の労働力を確保することを目的とし,同時に江戸市中の貧民の増大を防ごうとしたものである。 41年には近江の幕領で新開地(しんがいち)の検地を計画したが,農民の反対一揆によって中止となり,このあと幕府は,改革の重点を代官所支配の整備においた。当時は,幕領の代官は江戸在住のまま1,2年で交替するため農政を十分に見ることができなかったので,これを改めて代官に陣屋在住を命じ,10年未満の任地異動を許さないこととした。…
…村役人は身分的には本百姓であって,それ自身としてはなんらの武力機構をもたなかった。幕府領の場合,村を直接に統治していたのは代官(身分は旗本)であった(老中―勘定奉行―代官―村となる)。しかし,代官が実際に廻村することはめったになく,代官は村役人と文書を通して村支配を行っていた。…
※「代官」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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