奈良尾村
ならおむら
[現在地名]奈良尾町奈良尾郷
現町域の全体を奈良尾村域とするが、うち北部の岩瀬浦村は独立した村としてみえる場合がある。南部に虎星山(二五四・七メートル)・砥石山(二三三メートル)などがあり、奈良尾集落の東と北は入江に恵まれる。その北に扇山(三二九・六メートル)・築地ヶ岳山などが連なる。小奈良尾の北東に福見の集落があり、その東に三盛山(三〇三メートル)がある。康永三年(一三四四)五月二四日の白魚繁・沙弥円心連署契約状案(青方文書)に「ならを」とみえ、孫鬼丸(白魚繁)は「あわちのうら」(大地の浦)より当地の「うへくひ」、さらに「しもさおさき」(下佐尾崎)に至る一帯を某に去渡している。フロイス「日本史」によれば、キリシタンの敵ナラオ殿Narandonoが家臣全員に対してキリシタンになってはならぬという禁令を出し、すでにキリシタンになっていた者は重罰をもって脅迫していたという。元和三年(一六一七)のイエズス会管区長徴収のキリシタン連判書付に「五島ならお」の如庵与早二良・るいす源兵衛・志よせふ藤左衛門ら五名が署名している。
江戸時代は福江藩領東掛に属したが、東掛代官所は岩瀬浦村に置かれ、奈良尾村と岩瀬浦村の二ヵ村を管轄した。当初は東村または東中のうちと考えられ、慶長国絵図(松浦家本)では「東村」として高一一五石余。
奈良尾村
ならおむら
[現在地名]関宮町奈良尾
丹戸村の西、八木川の上流部にある。集落は同川の北岸、鉢伏山南麓のテラス状台地に形成される。西は福定村。近世までは七美郡に属した。弘治三年(一五五七)の「但馬国にしかた日記」には「ならを」「同れんし庵」「ならを三郎左衛門殿」などとみえる。江戸時代は旗本山名領。慶長六年(一六〇一)の山名豊国知行目録(池田家文書)に村名がみえ、高九一石余、ただしこの高には福定村の高も含まれていたと考えられる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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