岩色堰
いわいろせき
もとは五百川の大岩付近に堰を設けて取水、寛文期(一六六一―七三)には苗代田村・関下村・荒井村・仁井田村・青田村の耕地約二六〇町、高二千五七一石余を灌漑していたが、万延元年(一八六〇)取入口は羽瀬石村輪ヶ淵に移設された(遠藤家文書)。開堰は永禄七年(一五六四)と伝える。小室(現郡山市)の城主畠山六左衛門秀富が、石川原(江戸時代の関下村地内)を二本松の畠山氏より拝領、前田沢兵部少輔の臣遠藤因幡、高倉近江守の臣渡辺隼人・安部越後・細口内蔵・増子和泉らとともに開拓し、苗代田の岩色下の瀬に用水堰を築き、関下の神座まで通水したのに始まるという。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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