日本歴史地名大系 「関下村」の解説 関下村せきしたむら 福島県:安達郡本宮町関下村[現在地名]本宮町関下本宮盆地の南部、荒井(あらい)村の南の五百(ごひやく)川左岸沿いに位置し、南は安積(あさか)郡前田沢(まえたざわ)村(現郡山市)。北部の一部を除き平坦。五百川は東流して阿武隈川に注ぐ。永禄七年(一五六四)畠山六左衛門秀富が石川(いしかわ)原を開拓、岩色(いわいろ)堰を築き、同一〇年開拓事業が完成して高五四一石余の村が新しく生れたと伝える。村名は岩色堰の下流に位置するためという(相生集)。天正一四年(一五八六)九月七日の二本松配分日記(伊達家文書)によると「あへ六郎兵衛」に「関したの内」で三五貫二〇〇文が恩賞として与えられている。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録に関下とみえ、高五四一石余。延享二年(一七四五)の郷村高辻帳(二本松市史)でも五四一石余。 関下村せきしもむら 熊本県:玉名郡南関町関下村[現在地名]南関町関下北部を関川支流の楮原(かごはら)川が西流し北西部で関川に合し西境を南流、東は小原(こばる)村、北は関町、南は庄寺(しようでら)村・赤坂(あかさか)村と接する。東南から北西に豊前街道が通り、一〇里の里数木があった。近世は南関手永に属する。寛文九年(一六六九)の「一統志」に「下村」と記し、関町など五ヵ村を南関というとある。元禄国絵図に「関村之内関下村」とあり、もとは関村に含まれた。「国誌」に「高四百七十六石余、中山村水掛村藤尾村八重丸村太郎丸村コウソ村金丸村亀ケ上村岩神村津留村等ノ小村アリ」とあり、津留(つる)村には細川家が豊前英彦山(ひこさん)神宮(現福岡県田川郡添田町)に寄進した一〇〇石の神領がある。 関下村せきしたむら 千葉県:東金市関下村[現在地名]東金市関下、山武郡九十九里(くじゆうくり)町関下広瀬(ひろせ)村の東に位置する。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高三四石。寛文八年(一六六八)の鷹場五郷組合帳では西野組に属し、旗本島田領三四石。元禄一一年(一六九八)から南町奉行組与力給知になったと考えられ、幕末まで同じ(「町奉行組与力給知両総村々石高覚」飯高家文書など)。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳では関ノ下村とあり、高五五石余、家数二八。享保三年(一七一八)与力給知の当村と西野(にしの)・藤野下(ふじのした)・貝塚(かいづか)・不動堂(ふどうどう)(現九十九里町)の五ヵ村は捉飼場内の道・橋の修復を入念にすること、八月から四月までの昼夜に鳥番人を置くこと、田畑にやたらと案山子をたてぬことなどの請書を役人に差出している(川上家文書)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by