日本大百科全書(ニッポニカ) 「二本松藩」の意味・わかりやすい解説
二本松藩
にほんまつはん
陸奥(むつ)国二本松(福島県二本松市)周辺を領有した外様(とざま)藩。居城は現二本松市霞ヶ城(かすみがじょう)公園。中世畠山(はたけやま)氏の拠城、近世初頭会津領、1627年(寛永4)会津藩主加藤嘉明(よしあき)のとき、その女婿松下重綱(しげつな)が5万石で封じられ二本松藩成立。翌28年その子長綱は三春(みはる)に移り、かわって加藤嘉明の三男明利(あきとし)が三春から3万石で就封した。1641年(寛永18)明利死去により領地没収、その後43年丹羽光重(にわみつしげ)が白河から表高10万0700石で入部し、光重のあと、長次(ながつぐ)、長之(ながゆき)、秀延(ひでのぶ)、高寛(たかひろ)、高庸(たかつね)、長貴(ながたか)、長祥(ながあき)、長富(ながとみ)、長国(ながくに)、長裕(ながひろ)と続いた。領地は安達郡69か村および安積(あさか)郡のうち41か村のつごう110か村、『寛永(かんえい)二十年八月二本松領目録』によると、惣高11万6618石余で、うち本高10万0954石余、改出2844石余、新田1万2819石余と綿役、山年貢、炭役、硫黄運上(いおううんじょう)、湯銭運上などの小物成(こものなり)があった。光重は領内10組に代官制度を敷き、1647年(正保4)から10か年を費やして城の修築、城下町の整備を行い、商工業者などを集住させ、領内の政治・経済の中心とした。2代長次から4代秀延にかけて領内支配機構を一段と整備し、1718年(享保3)領内総検地を実施し、煙草(たばこ)、紅花(べにばな)、藍(あい)など商品作物を栽培させ、養蚕業を奨励した。しかし相次ぐ凶作によって生産が停滞し藩財政は窮乏した。5代高寛は儒者岩井田咋非(いわいださくひ)を登用して藩政改革を行い、1745年(延享2)生育法を制定して領民救済を図るなどしたが、年貢賦課も厳しく、1749年(寛延2)凶作を機に農民一揆(いっき)が発生した。その後藩主長貴・長祥父子二代にわたって老臣成田頼綏(よりちか)に藩政改革を行わせ、稲作の指導、二本松万古焼(ばんこやき)、川崎の和紙、平石(ひらいし)の畳表、大平(おおだいら)の串柿(くしがき)など特産品を奨励した。1817年(文化14)藩校敬学館を創設し、藩士の子弟に学問、教育を奨励した。戊辰(ぼしん)戦争では奥羽列藩同盟の一翼を担って西軍に抗し、二本松少年隊の決死の戦いにもかかわらず、1868年(慶応4)7月落城、降伏後、養子丹羽長裕に5万石が与えられた。1871年(明治4)廃藩置県で二本松県となり、同年11月福島県と改称、さらに76年若松・磐前(いわさき)両県を統合した福島県に編入。
[誉田 宏]
『『福島県史 3・10(上)』(1967、70・福島県)』