川越城下(読み)かわごえじようか

日本歴史地名大系 「川越城下」の解説

川越城下
かわごえじようか

川越城は長禄元年(一四五七)扇谷上杉持朝によって築かれ、上杉氏領時代・小田原北条氏領時代(川越城代大道寺氏)に城郭と城下町の原形が形成された。天正一八年(一五九〇)酒井重忠が川越城に入って以降は、川越藩の城下町。寛永一六年(一六三九)に入部した松平信綱とその子輝綱時代に城地と城下町の拡張・整備が行われ、江戸に最も近い城下町として繁栄し、「小江戸」川越と称された。

〔草創期〕

入間いるま川から枝分れした赤間あかま川が西から北を回り、東は広い沼地である。川越台地北東端の自然の要害に築かれた河越城は、一方で北は松山から秩父、南は江戸、西は所沢・武州八王子など諸方面への交通の要衝で、城下町の形成にも適していた。上杉氏時代の文明元年(一四六九)には太田道真が河越で主催した連歌会に京都の文人心敬・宗祇らが参加しており(河越千句)、長享二年(一四八八)に万里集九が江戸からの帰り河越を訪れ(梅花無尽蔵)、また宗祇は文亀二年(一五〇二)にも再び河越を訪れている(宗祇終焉記)

天文六年(一五三七)河越城を攻略した小田原北条氏は、同一〇年の河越合戦、同一五年の河越夜戦に勝利して当地一帯を小田原北条氏の直轄領とし、城代に大道寺氏を配置した。小田原衆所領役帳に江戸衆として記される大道寺氏以下二二名は、河越城を支えた河越衆であったと考えられている。大道寺氏は城下町の整備に努め、永禄四年(一五六一)四月晦日、大道寺周勝は清田内蔵助に川越本宿の商人・問屋などの支配を命じている(「大道寺周勝条書」浄光寺文書)。年未詳の未一一月二〇日の大道寺政繁判物写(武州文書)では、政繁は川越本宿の頭人とみられる次原新三郎に命じ、清田庄左衛門・徒気原(次原)新兵衛など四名に唐人小路の道の補修・清掃、火の用心などに当たらせている。城下の職人については小田原衆所領役帳に「河越番匠 拾貫文」とみえ、年未詳二月二八日の北条氏伝馬手形写(武州文書)に「伝馬四疋可出之川越之鍛冶に被下」とみえる。「風土記稿」には天文―弘治(一五三二―五八)頃に相州から鍛冶職人が来住して川越鍛冶かじ町を取立て、その頃から鍛冶役銭を負担したのでその他の諸役は免除されたとある。また川越ほん町草分町人の榎本氏が天文年中に紀州から、高沢たかざわ町の古参町人井上氏が天正年中に丹波篠山ささやま(現兵庫県篠山町)からそれぞれ来住したと伝えるなど、諸方からの職人・商人の来住があったようである。元亀―天正(一五七〇―一五九二)頃には定期市が開かれていたとも伝える(武蔵三芳野名勝図会)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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